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Case9:貴族学院七不思議(3)

『何だ』


「私には、ここではない世界の記憶があるんです」


 生まれて初めて、その秘密を口にした。誰にも――家族にも、テオにも話していないことを、目の前の見知らぬ死者に、私は話し始めていた。

 なぜ、この人になら話せると思ったのか、自分でもよくわからない。生きている人間には、決して打ち明けられない秘密だ。

 でも、まもなく神の国へ渡るだろうこの人になら、話しても構わないという気がした。この人が抱えてきた長年の苦しみが、私の秘密を打ち明けるきっかけになったことだけは確かだった。


『ここではない、世界?』


「ええ。生まれる前、全く別の世界で生きていた記憶があるんです。その世界には、たくさんの音楽がありました。そして――あなたのお弟子さんが発表した、あの曲。私はその世界で、聞いたことがあります」


『……なんだと?』


「あの曲は、私のいた世界の、偉大な作曲家が作った音楽です。あなたのお弟子さんが、自分で作った曲でも、神が授けた曲でもありません」


 男性は、しばらく言葉を失ったように立ち尽くしていた。


「おそらく、あなたのお弟子さんにも、私と同じように『ここではない世界』の記憶があったのだと思います。神が音楽を授けたのではなく、ただ、その記憶を残しただけなんです」


『そんな……そんなことが……』


 男性の声が、かすかに震えていた。


『では、あいつは……あいつ自身の才能で、あの曲を作ったわけではなかったということか』


「そうだと思います。おそらく、彼自身も、それをどう説明していいかわからなかったのではないでしょうか。『神が授けてくれた』というのは、彼なりの精一杯の言い訳だったのかもしれません」


 そう言いながら、私は自分自身のことを思い返していた。

 もし私が、前世の記憶を誰かに悟られそうになったら、私も同じように、曖昧な言葉で誤魔化そうとするだろう。

 その弟子もまた、誰にも理解されない秘密を、たった一人で抱えていたのかもしれない。

 だからこそ、あの曲を聞かれ、絶賛されてしまったことで音楽を辞め、遠く離れた地に行くことを選んだのだろう。

 自分の名前を出さないでほしいと言ったことも、自分で作曲したわけではないからだ。



 男性は、しばらく黙り込んでいた。長い沈黙の後、ようやく口を開く。


『……私は、神に認められなかったから、何も音楽を授けられなかったのだと思っていた』


 その声には、これまでの絶望とは違う、何か別の感情が滲んでいた。


「あなたの実力が足りなかったわけではありません。ただ、比べる相手が悪かっただけです。あなたのお弟子さんは、あなたと同じ位置で戦っていたわけではなかった。ここではない世界の、何百年もかけて磨かれてきた音楽の遺産を、たまたま覚えていただけなんです」


『そうか……そうだったのか』


 男性は、静かに天井を見上げた。


『私は、無駄なことに人生を費やしていたわけではなかったのだな』


「はい。あなたが積み重ねてきた技術も、心血を注いだ作品も、決して無駄なものではありません」


 男性の表情が、少しずつ和らいでいくのがわかった。


『長い間、ここに囚われ続けていた理由が、ようやくわかった気がする。その真実を知るために、私はここにいたんだな』

「そうかもしれません。……神の国に、渡られますか?」

『ああ。もう、十分だ』


 男性は、穏やかな笑みを浮かべた。


『もし、生まれ変われるのなら――今度は、その名曲が聞ける世界に生まれたいものだな』


 私は胸が締め付けられる思いがした。


「その願いが叶うことを祈っています」


 男性は小さく頷いた後、ふと何かを思いついたように私を見た。


『最後に一つ、頼みがある』

「なんでしょう」

『その、「ここではない世界」の曲とやらを、一曲聞かせてくれないか』


 その願いに、私は少し戸惑った。


「私は、専門的に音楽を学んだわけではないので、上手には弾けないかもしれませんが」

『構わない。ただ、聞いてみたいんだ』


 その声には、これまでの絶望とも違う、子どものような素直な期待が滲んでいた。長年、たった一つの答えを求めてこの場所に囚われ続けてきた人が、ようやくその答えにたどり着いた後の、静かな安堵のようなものが伝わってくる。



 私は、ハノンの前に座り直した。

 何を弾こうか――そう考えたのはほんの一瞬。

 前世で好きだった、ある映画音楽を思い出す。夏の日差しを思わせる、爽やかで、どこか懐かしい旋律。

 ハノンを弾いた経験はない。だが前世では子供の頃にピアノを習っていた。高校受験の前に辞めてしまったけれど、大人になってからも休みの日に手慰みに弾くことはあった。


 鍵盤に指を置き、ゆっくりと弾き始める。この曲は何度も弾いたことがある大好きな曲だ。ハノンを弾いたこともなく、ピアノを弾いたのだって前世でのこと。でも指は自然と動いていた。

 左手から始まる低音は夏の日に子供たちが飛び跳ね、走り回るイメージ。そして右手が奏でる夏の日の情景を描いたような、爽やかな調べ。

 弾きながら、私自身も、その音色に癒されていくのがわかった。


 弾きながら、ふと思う。


 もしかしたら、お弟子さんも私と同じように前世を懐かしんで、あの曲を弾いたのかもしれない。

 まさかそれが誰かに聞かれるとは思わずに――

 

 そしてその曲が絶賛され、いたたまれなくなって音楽を辞めて田舎に引きこもってしまった。あの曲を発表したいと言われて、名前を出さないことを条件にしたのも、きっとそういうことなのだろう。

 発表された曲が多くの人々に賞賛され、彼は何を思っただろうか。


 今までこの世界で生きてきた中で、私のように前世の記憶を持った人が他にもいたのだろうと感じることは時々あった。医学分野であったり、工業分野であったりで、前世の息吹を感じたことが。

 彼が成り行きで発表してしまった曲に癒された人もきっといたはずだ。誰とも共有できない秘密を抱えた人たちの救いになったこともあるだろう。


 現に私はいま、救われている。彼の存在に。彼がひとり、前世の音楽を奏でていたことに。彼の苦しみに。

 ――私だけじゃない

 これまで背負い続けてきた重い荷物を少しだけ下ろしたような、ひとときの安らぎ。


 目の前の音楽家は、静かに目を閉じて、その旋律に耳を傾けていた。その横顔には、これまでの苦悩の色はもう見られなかった。


 弾き終えた瞬間、音楽室の扉が勢いよく開いた。


「アイリスさん!?」


 驚いて振り返ると、そこには数人の生徒が立っていた。その中には、クララの姿もある。


「ハノンが聞こえて七不思議かと思ったけど、アイリスさんが弾いてたんだね!いい曲だね!なんて曲?誰の曲?」


 クララが目を輝かせながら、次々に質問を投げかけてくる。


「え、あの、これは……」


 答えに困り、思わず視線を横に向ける。

 だが、そこにはもう、あの音楽家の姿はなかった。静かに、彼は神の国へと旅立っていったのだろう。


「その……昔、どこかで聞いた覚えがあって、なんとなく弾いてみただけなの」


 クララや、クララ以外の生徒たちの質問にしどろもどろになりながら答える。降霊術のことも、前世の記憶のことも、クララには決して悟られてはいけない。この曲のことも、これ以上深く聞かれる前に、うまく誤魔化さなければ。

 そうして私はまた見えない重い荷物を背負う。


「アイリスさんって、ハノンも弾けたんだ!知らなかった」

「まぁ、ちょっとだけね」


 適当に話を合わせながら、内心でほっと息をつく。


「もしかして、七不思議の音楽室の噂も、結局は誰かがこうやってハノンを弾いていただけなのかもね」


 クララが少し残念そうに言うので、私は思わず苦笑した。


「もしかしたら、噂って案外そういうものなのかもね。実際に確かめてみたら、何もなかった。それが一番よくあることなのかもしれないわ」

「そうかもね。でも、こうやって調査するのも楽しかったから、良しとしましょう!」


 クララはそう言って明るく笑う。


 誰にも知られることのない、この世界とは違う世界の音楽。それを、こんな形で誰かに届けられたことが、なんだか嬉しかった。同時に、この秘密を誰にも悟られずに済んだことにも、静かな安堵を覚える。


 窓の外では、夕暮れから夜へ、空が紫色に染まりつつある。私はそっと、ハノンの鍵盤を撫でた。


 いつかまた、この曲を弾く機会があるだろうか。そう思いながら、私は集まった人たちの質問攻めに、曖昧な笑みを返し続けた。

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