幕間 アイリスと宿題
降霊術師レイラの仕事場のリビングで、私――アイリスは頭を抱えていた。
出資者である公爵夫人のご厚意で、高級ホテルの一室を仕事場にしているわけだけど、「一室」とは言っても中にはいくつも部屋がある。前世でいうスイートルームみたいなものだ。
高級ホテルを利用するのはほとんどが貴族なので、主人の寝室の他に従者用の部屋も付いているのが一般的らしい。
この部屋にもリビングルーム、主寝室の他に二部屋と風呂トイレ、ミニキッチンが付いている。
なお、ミニキッチンは従者がお茶をいれるためのお湯を沸かす程度の簡易的な設備しかない。
主寝室からベッドを出して降霊用の部屋にしており、残りの二部屋のうち一部屋はテオが使い、もう一部屋は私のメイクルームになっている。
リビングルームには応接セットの他に事務用の机があり、私はそこで宿題をしていた。
今日は平日。学院の帰りに来ているため、メイクもせず制服姿のままだ。
アポイントメントはないし、誰か来たらメイク部屋に逃げ込み、テオに応対してもらっている間にメイクなどをすればいい。なんならレイラは不在だと言ってもらってもいい。
宿題も家に帰ってやればいいのだけど、ここには家にはない魅力がある。
「お茶が入りました」
テオが紅茶とクッキーを出してくれる。
家には使用人がいないので、お茶を誰かに入れてもらえるのは本当にありがたい。
「ありがとう」
そう言って休憩する。
「宿題ですか?」
「そうなの」
しょんぼりと肩を下げる。私には前世の記憶があるので、幾何学のような数学分野はそっくりそのまま前世の記憶が活かせるし、薬草学や調合などの化学分野、経済学なんかも前世の記憶が役に立っている。
歴史学などは全然前世の知識は使えないけど、暗記は前世から得意だった。
そんな前世の知識や経験では歯が立たないのは語学。
自国語はまだいいが、外国語として学ぶ隣国アーバルの「アーバル語」が私の一番の苦手科目だ。
「アーバル語ですか。俺が学生の頃から宿題多かったですけど、今もなんですね」
「テオも学院行ってたの?」
「一応、うちは男爵家なので。ただ必要な教育は公爵家で受けてましたので、学院は貴族の義務として卒業したという感じでしょうか」
そうだった。テオは貴族だった。
「アーバル語、得意?好き?」
「周辺国の言語は叩き込まれてますので……好きで覚えたわけではないです」
「そうか、色々な国に行くんだっけ」
いい機会だとばかりに、私は宿題のノートをテオの方に向けた。
「ねえ、テオ。ちょっと教えてくれない?」
「俺でよければ」
テオが隣に立ち、ノートを覗き込む。長身を屈めるようにしてノートに視線を落とす仕草に、距離が近くて少しドキリとしたけれど、顔には出さないようにする。
「ここ、動詞の活用がよくわからなくて。過去形なのに現在形の語尾がついてる気がするんだけど」
「ああ、これは『継続過去』ですね。単純に終わったことじゃなくて、『ずっとそうだった』っていうニュアンスを含む時に使うんです」
「継続過去……英語で言う過去進行形みたいな感じかな」
「エイゴ?」
「あ、ううん、なんでもない」
しまった。前世の話がぽろっと出てしまった。テオは深く追及せず、さらりと流してくれる。こういうところが助かる。
「継続過去というのは『泣いていた』を『泣いた』と訳すと、一瞬で泣き止んだみたいに聞こえるでしょう? そこを区別するための活用です」
「あー、なるほど。だから『彼女は長い間彼を想っていた』みたいな文にこの形が出てくるのか」
「そうです。飲み込みが早いですね」
褒められて少し嬉しくなる。数学とかは前世の貯金でどうにかなるけど、語学は正真正銘、今世の努力だけが頼りだから。
調子に乗って次の問題に進んだものの、今度は名詞の格変化でつまずいた。アーバル語は名詞が主格・目的格・所有格でそれぞれ語尾が変わる上に、性別によっても変化の仕方が違うという厄介な言語だ。
「ここ、なんで『川』は男性形なのに『海』だと女性形なの?意味わかんない」
「文法上の性別なので、実際の性別とは関係ないんです。慣れるまでは、単語ごと丸暗記するしかないですね」
「えぇ……」
思わず机に突っ伏す。前世でも語学にはさんざん苦しめられた記憶がある。二度目の人生でまで同じ壁にぶつかるとは思わなかった。
「レイラ様は、こういう時だけ年相応というか……お可愛らしいですね」
「今バカにした?」
「まさか。褒めてます」
テオは軽く笑って、私のカップに紅茶のおかわりを注いでくれる。湯気とともに花の香りがふわりと広がった。
「ね、テオ。じゃあ試しに、この文章訳してみて。『あなたはいくつの国を見てきたの?』」
ふと思いついて、私はそう言ってみる。単なる例文のつもりだった。
テオの口から流暢な発音で言葉が紡がれる。低い声が耳に心地いい。
「テオはどう?」
「どう、とは?」
「テオはこれまでいくつの国を見てきたの?」
テオは少し考えるように視線を上げた。
「訳すだけなら簡単ですけど……答えるとなると難しいですね」
「え、なんで?」
「数えたことがないので。訓練の一環で行った国もあれば、任務でしか行けなかった国もある。旅行として見た景色はありません」
その言葉に、ほんの少し影が差した気がした。好きで覚えたわけじゃない、と先ほど言っていたことを思い出す。テオが積み重ねてきたものの重さを、私は今更ながら想像してしまう。
「……テオは、今は何が好き?好きで、やってることって何かある?」
少し踏み込みすぎたかもしれないと思いながら聞いてみる。
テオは少し考えるように視線を上げた。
「そうですね……お茶を美味しく淹れることには、最近ちょっとこだわってます。茶葉の蒸らし時間ひとつで味が変わるのが面白くて」
「へえ、意外」
「意外ですか?」
「なんとなく、そういうこととは無縁な人かと思ってた」
「昔は、お茶の味なんて気にしてる余裕ありませんでしたが、今は少し余裕があるんだと思います」
「あとは?」
「あとは……レイラ様の護衛、でしょうか。これは仕事ですけど、嫌だと思ったことは一度もないので」
さらりと言われた言葉に、頬が熱くなるのを感じて、慌ててノートに視線を戻す。
「この次の問題も教えて!」
「はい、はい」
テオは苦笑しながら、また私のノートを覗き込んだ。整った横顔がすぐそばにあって、集中しようとしても文字が頭に入ってこない。
結局、その日の宿題は半分も終わらなかった。宿題は来週のアーバル語の授業の時に提出だから、まだ余裕はある。
窓の外はもう夕暮れで、部屋も暗くなってきた。テオが立ち上がってランプに火を入れると、部屋が橙色に染まる。部屋の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
「続きは明日にしましょう。学院、明日もありますよね」
「うん……そうする」
「もう外は暗いですから、家まで送りますね。片付けますので少しお待ちください」
鞄にノートをしまいながら、ちらりとテオを見る。彼はいつもの穏やかな表情でカップを片付けていて、さっきの言葉を特別なものとは思っていないようだった。
それもそうか――
テオが私に特別な感情を抱くことはないのだから、あの言葉も、そのまま「仕事として」「嫌ではない」ということだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そうやって自分の気持ちを落ち着かせる。
宿題はあまり進まなかったけれど、こんな時間も悪くないな、と思う。
アーバル語の教科書を鞄に押し込みながら、私は今日習った『継続過去』の活用を、頭の中でもう一度なぞってみた。
――ずっとそうだった、という気持ちを表す形。
この気持ちにも、いつかそんな言葉が当てはまる日が来るのだろうか。
そんなことを考えて、私は一人、鞄の持ち手をきゅっと握りしめた。




