Case9:貴族学院七不思議(2)
投稿が遅くなりました。申し訳ありません。
(これは……)
思わず息を呑みそうになり、慌てて表情を取り繕う。今、ここでうろたえるわけにはいかない。それに、今日はレイラとしてではなく、アイリスとしてここに来ている。クララのいる前でうかつに降霊するわけにはいかない。
「アイリスさん、どうしたの?」
クララが不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない。今日はもう遅いし、そろそろ帰りましょうか」
平静を装いながら、なるべく自然な声でそう答える。
「そうね。七不思議、結局全部ハズレだったね」
クララは残念そうに笑いながら、私と一緒に音楽室を後にした。何も気づかれていないことに、内心でほっと胸を撫で下ろす。
だが、私の心の中では、あの鍵盤に触れた瞬間の感覚が、まだ消えずに残っていた。
◆
数日後、私は一人で音楽室に向かった。放課後の遅い時間、生徒たちの姿もほとんどない。クララはもちろん、他の誰にも、今日ここに来ることは話していない。
誰にも見つからないよう、慎重に足を進める。音楽室の扉を開けると、あの日と変わらず、古びたハノンが静かに佇んでいた。窓から差し込む夕暮れの光が、使い込まれた鍵盤を橙色に照らしている。
周囲に人の気配がないことを確かめてから、私はゆっくりとハノンの前に腰を下ろした。
鍵盤にそっと触れ、意識を集中させる。
「こんにちは」
目の前に、壮年の男性が現れた。時代がかった服装と、少し古めかしい髪型。かなり昔の人物のように見えるが、教師という雰囲気でもない。
「あなたは、どなたですか」
私が尋ねると、男性は物憂げな目でこちらを見た。
『……久しぶりに、私の声が聞こえる人間が現れたな』
「なぜ、ここに?」
『これは私のハノンだからだ』
音楽室という場所ではなく、ハノンという楽器についてきた霊だということか。古びたハノンは所有者を変え、この学院にたどり着いたということなのだろう。
「音楽家、でいらっしゃいますか」
『そうだ。かつては、それなりに名の知れた作曲家だった』
その言葉には、誇りと、それ以上の苦さが滲んでいた。
『だが、今となっては、誰も私の名前など覚えていないだろうがな』
「どうして、ここにいらっしゃるのですか?長い間、神の国に行かずに留まっているようですが、何か理由があるのでしょうか」
『神の国、か。まだ、その時ではない』
男性は、ハノンをそっと見つめた。
『若い頃から、私は音楽に人生の全てを捧げてきた。両親の反対を押し切って音楽院に入り、来る日も来る日も作曲に明け暮れた。それなりに評価もされ、音楽家となった』
「音楽家として作曲をなさっていた、と」
『ああ。私の夢は後世に語り継がれるような作品を生み出すことだった。名を残す作曲家に、どうしてもなりたかったんだ』
その言葉には、長年抱えてきた執念のようなものが滲んでいた。
『同期の作曲家たちが大きな舞台に立ち、次々と名声を得ていく中で、私だけが、いつまでも燻っていた。だが運よくパトロンを得て生活の不安がなくなった』
「それで、より一層、作曲に打ち込まれたのですね」
『そうだ。寝る間も惜しんで、来る日も来る日も新しい旋律を探し続けた。多くの作品を発表し、少しばかり名も売れた。だが、どれだけ書いても、心の底から満足できるものは、なかなか生まれてこなかった』
男性は、静かに首を振った。
『ある時、私に弟子ができた。とても優れた才能を持つ若者だった』
「お弟子さん、ですか」
『ああ。パトロンとなった貴族の三男で、小さい頃からハノンに興味があったようで父親の反対を押し切って弟子入りしてきた。誰に教えられることもなくハノンを弾きこなしていた。天才だったよ。最初は練習曲から初めて、あっという間に難曲も弾けるようになった。そして、ある日——」
男性はひとつため息をついた。
『あいつが一人で練習していた部屋から、とても美しい旋律が聞こえてきた。魂が震えるような、感動を覚えた。私も音楽家の端くれだ。名曲は数え切れないほど聞いてきたが、これまで聞いたことがない曲だった』
恍惚とした表情を浮かべて言う。
『思わず部屋に飛び込んだ私を見て、あいつは演奏を止めてしまった。渋るあいつを説き伏せて、最初から弾かせてみたが——本当に素晴らしかった』
男性の声には、複雑な感情が入り混じっていた。
『私が「どうやってあの曲を作ったのか」と聞いた時、あいつはこう言ったんだ。「自分で作曲したのではない、神が授けてくれた音楽だ」と』
「神が、授けた」
『私は長年、音楽に人生を捧げてきた。だが、私には一度も、そんなものは授けられたことがない。何十年もかけて磨いてきた技術も、心血を注いだ作品も、あいつのたった一曲の前では、色褪せて見えた』
その言葉に、深い絶望が滲んでいた。
『なのにあいつは音楽を辞めてしまった。私はもう、あいつの曲を超えるものを作れないと悟った。そして、命を絶った』
「そうだったのですね」
『死んで、神に近い存在になれば、もしかしたら私にも、音楽を授けてくれるかもしれない。そう思って、神の国に渡らずに、ここでずっと待ち続けている』
その言葉を聞きながら、私の中で、何かが引っかかっていた。
「そのお弟子さんの曲、聞かせていただくことはできますか」
『……ああ、覚えているとも。この体ではハノンを弾くことはできないがな』
男性は、ゆっくりと旋律を口ずさみ始めた。
その旋律を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
(この曲――)
それは、前世でも耳にしたことのある、有名なクラシック音楽だった。静謐で、胸を打つような美しい旋律。前世で音楽の授業だけでなく、BGMやCMでも耳にした、誰もが知る名曲——タイトルは知らなくても主旋律を知らない人はいないくらいの有名な曲だ。
まさか、こんなところで、あの曲の旋律を聞くことになるとは思ってもみなかった。心臓が、どくどくと音を立てる。
『どうした。顔色が悪いようだが』
「い、いえ。少し驚いてしまって」
平静を装いながらも、頭の中では様々な考えが渦巻いていた。
この世界には、この曲は存在しないはずだ。存在するとしたら、それは――
「あの、失礼を承知でお伺いしますが……そのお弟子さんは、その後どうされたのですか」
『王都から遠く離れた子爵家に婿入りしたそうだ』
「それは、親に無理やり結婚を決められたとか?」
『いや、自ら父親に音楽を辞めて王都から離れたいと言ったそうで、親も喜んで婿入り先を決めたそうだ」
「音楽を辞めた理由は?」
『何も、聞いていない。あの曲だけを私の心に残したまま、私の目の前から消えてしまった』
「理由も、言わずに辞められた」
『そうだ。あの素晴らしい曲も、再三の要請でやっと発表するに至ったが、あいつは条件を付けてきた」
「条件?」
『自分の名前を出さないでくれ、と』
「それは……」
『変わり者だった、と言えばそれまでだが……「自分の名を残したくない」と言っていた。皮肉なものだ師匠の私は浅ましくも「名を残したい」と願うも名曲が作れず、名曲を作った弟子は「名を残したくない」と願う……。そういう男だからこそ神が音楽を授けてくれたのかもしれん』
私は、静かに深呼吸をした。ここまで話を聞いて、確信に近いものが胸の中に生まれていた。
「今から、少し不思議な話をします。信じていただけるかはわかりませんが」




