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幕間 ヘンリー・ローエンの日常〜潜入捜査

「特別任務だ」


 上司から呼び出され、そう告げられる。

 俺に与えられる特別任務は――潜入捜査だ。


「お前の顔は本当に潜入捜査向きだな」


 上司からそう言われて、苦笑する。

 面と向かって「印象に残らない顔」と言われて、素直に喜べる人間がどれだけいるだろうか。

 子供の頃はこの地味な顔が嫌いだった。

 学生時代は良くも悪くも目立たないことで、貴族らしい妬みや嫉み、足の引っ張り合いなどとは無関係なところで安穏と過ごすことができた。

 エドワードと友人になってからはやっかまれることもあったが、待ち伏せされている横を素通りすることも片手では足りないくらいだった。

 この仕事についてから潜入捜査のスペシャリストと言われるようになり、この地味な顔も自分の能力のひとつと考えるようになった。


「今回の任務はモーリス商会への潜入だ。横領あるいは不正取引の疑いがある。証拠を掴んでほしい」

「経理見習いとして、潜り込めばいいんですね」

「話が早くて助かるよ」


 こうして俺は、経理見習い『ハリー・グレイ』として、モーリス商会の門を潜ることになった。



 潜入は、思っていたよりも順調に進んだ。


 名前も経歴も偽り、地味な服装で出社する。

 誰の記憶にも残らない顔立ちは、こういう時に何よりの武器になる。

 数日もすれば、誰も俺の存在を特別視しなくなった。空気のように、そこにいるのが当たり前の存在になる。


 初日、自己紹介をした時のことをよく覚えている。三人の同僚に順番に挨拶をしたのだが、翌日にはそのうち二人が俺の名前を思い出せずにいた。昔なら少し傷ついていたかもしれないが、今となっては、これほど都合のいいこともない。


 仕事の合間の雑談から、少しずつ情報を集めていく。

 愚痴や噂話というのは、案外馬鹿にできないものだ。誰かが誰かの不満を漏らし、その中に、思わぬ真実が紛れ込んでいることがある。

 相槌の打ち方一つ、質問の投げかけ方一つで、相手がどれだけ話してくれるかが変わる。これも、聞き上手と言われてきた昔からの性分が役に立っている部分だ。


「最近、経理部長の体調が悪そうだよね」


 そう教えてくれたのは、同僚のトムだった。俺と同じ経理見習いで、真面目を絵に描いたような青年だ。


「どうしてだろうな」


「うーん、病気とかではなさそうだけど。でも、部長が最近、夜遅くまで一人で残業してるから、忙しいせいなのかなって」


 人当たりの良さそうな笑顔でそう話すトムは、この不正には全く関わっていないだろうとすぐにわかった。

 ただ真面目に、日々の仕事をこなしているだけの青年だ。昼休みには決まって同じ場所で弁当を食べ、給料の大半を田舎の家族に仕送りしていると、照れくさそうに話してくれたこともある。


 だからこそ、少しだけ胸が痛んだ。


 もしこの商会が摘発されれば、トムのような無関係な人間まで、道連れのように職を失うことがある。商会が傾けば、真面目に働いていた者の生活まで揺らぐのだ。


 情が湧きそうになる自分を、内心で叱りつける。俺の仕事は、証拠を集めることだ。誰かに同情することではない。



 夜遅く、誰もいなくなった経理室に忍び込む。


 金庫の鍵は、経理部長のデスクの引き出しの奥に隠されていた。二週間の観察で、既に把握済みだ。真面目そうに見えて、意外と用心深さに欠けるところがある人物だった。


 物音を立てないよう、慎重に金庫を開ける。中から出てきたのは、表向きの帳簿とは別の、裏帳簿だった。


 ざっと目を通すだけで、資金の不自然な流れが見えてくる。架空の取引先への支払い、実態のない発注。経理部長が単独で行っているにしては、規模が大きすぎる。

 おそらく、上層部の誰かも関与しているはずだ。経理部長の体調が悪そうなのも、悪いこととは知りつつも上層部からの命令に従わざるをえなかったからなのだろう。


 証拠となる書類を書き写していると、廊下から足音が聞こえた。


 咄嗟に燭台の火を消し、机の陰に身を潜める。息を殺し、気配を消す。

 足音は、経理室の扉の前で一瞬止まった。心臓が跳ねる。扉の隙間から漏れる灯りに気づかれたかと、一瞬息を止める。


 だが、足音はそのまま通り過ぎていった。おそらく、見回りの警備員だろう。息を潜めたまま、しばらく動かずにいた。


 安堵の息を吐き、書き写しを再開する。夜が明ける前に、証拠を全て写し終えなければならない。



 摘発の日、俺は正体を明かした。


「お前……捜査官だったのか」


 トムが呆然とした顔で俺を見る。周囲は警備隊員たちの出入りで騒然としていた。


「悪いが、本当の名前はヘンリーだ。王国警備隊の捜査官として、この商会を調べていた」


「じゃあ、僕たちと過ごしていた時間は、全部……」


「仕事のためだった。それは謝る」


 トムの顔に浮かんだのは、裏切られたという表情だった。それも当然だろう。毎日顔を合わせ、他愛のない話をし、時には仕事終わりに一杯やった相手が、実は自分たちを探るためにここにいたのだから。


 その後の捜査で商会ぐるみでの犯罪ではなく、事業部長と経理部長ほか数名で商会の資金を横領していたことがわかった。

 

 風の噂で、トムは犯罪に関与しておらず、真面目な働きぶりが評価されて、別の部署に異動になったと聞いている。

 それを聞いた時は少しほっとした。

 彼らのように真面目に働く商会員たちを騙して情報を得たことに罪悪感はあるが、大きな犯罪を摘発するためには仕方のないことだと思っている。

 それでも、少しだけ、胸のつかえが下りた気がした。



「終わったの?」

 

 久しぶりに家に帰った夜、アイリスがそう聞いてきた。潜入捜査の間は家に帰らない。

 

「ああ」

 

 それ以上は、何も言わなかった。今回の任務の詳細を、妹に話すつもりはない。

 誰かに深く関わり、その関係を最後には裏切るような形で終わらせる。そういう仕事を、俺は日々こなしている。


 アイリスも、レイラとしての仕事の中で、似たような葛藤を抱えているのかもしれない。

 死者の秘密を預かり、時にはそれを生者に伝えず胸の内にしまう。

 そうやって誰にも言えない重さを、それぞれ違う形で抱えているのかもしれないと、ふと思う。

 だとしたら、多くを語らずとも、どこかで通じ合っているのかもしれないな。


「今日は早く寝るわ」

「うん、おやすみ」


 そう言って自室に戻る妹の背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


 明日はまた、いつもの特徴のない顔で、いつもの仕事に戻る。それでいい。それが、俺の仕事なのだから。

 

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