Case7:犬は知っていた(3)
取り出してみると茶色い竹の皮のようなものに包まれた何か。そっと皮を開いてみると、そこには、遺言と書かれた封筒があった。
「ロバート様!見つけました!」
「なんと……!」
私は思わず声を上げた。マックスは、まるで自分の手柄だと言わんばかりに、尻尾をぶんぶんと振っている。
「まさか、これほど苦労させておいて、最後はこんなにあっさりだなんて」
脱力しながらも、私は思わず笑ってしまった。あれだけ屋敷中を引っかき回されたというのに、最後は本当に、あっけないほど簡単に見つかったのだ。
◆
ロバートはそっと遺言書を開き、読み上げる。
「残りの財産は、この遺言書を見つけた者に譲る。この遺言書を見つけた者はマックスにおやつをあげた者、つまりマックスをかわいがってくれた者だ」
なるほど、と思う。老紳士の悪戯心と、老犬への深い愛情が同時に感じられる仕掛けだ。誰でも見つけられる場所ではなく、マックスとの信頼関係がなければ辿り着けない場所に、あえて隠したのだろう。
私は思わず気まずくなる。まさか自分が相続人になることは想定していなかった。
「ただし、財産を譲るには条件がある」
「条件?」
「マックスが天寿を全うするまで世話をすること」
それを聞いて少し安心した。
「あの……大変申し訳ないのですが、私、マックスさんのお世話をすることはできません。成功報酬としてこの遺言で相続できる財産の一パーセントはいただきますが、相続そのものは辞退します」
私がそう言うと、ロバートは驚いたように顔を上げた。
「父は一代で事業を成功させて財を成しました。半分だとしても、あなたが一生暮らせるくらいの額です。それでも財産を辞退なさるのですか」
「はい。私には降霊術師としての仕事がありますし、家を空けることも多い。老犬の世話を毎日きちんとするというのは、正直なところ難しいです。それに――」
私はマックスの方を見た。マックスはこちらの様子など気にも留めず、おやつの袋にまだ未練がましく鼻を突っ込んでいる。
「マックスさんも、たぶんここを離れたくないんじゃないかしら」
ロバートはしばらく黙っていたが、やがて何かを決意したように頷いた。
「わかりました。それでは、私がマックスの世話をします」
「よろしいのですか」
「はい。正直に言うと、これまで父の犬だからと、あまり構ってきませんでした。でも、こうしてお二人が振り回されている姿を見て……それに、今聞いた父の話を聞いて……なんだか、私も向き合わなければいけない気がしたんです」
マックスがのそのそと立ち上がり、ロバートの足元にすり寄っていく。ロバートはぎこちない手つきで、その頭を撫でた。
「マックス、これから、よろしく頼むよ」
その様子を見て、老紳士がふっと微笑んだ気配がした。
『ロバートがちゃんとマックスの世話をするか、私はしっかり見張っておくとしよう』
「見張るって、まさかずっとこの屋敷に?」
『さてね。それはマックス次第かな』
意味深な言葉を残して、老紳士の姿は消えていった。私はその言葉の意味を、この時はまだ深く考えていなかった。
◆
それから数ヶ月後のことだった。
「レイラ様、ハーグリーブス様がいらっしゃっています」
テオにそう告げられ、リビングに向かうと、ロバート・ハーグリーブス氏が、あの日と同じリードを手に立っていた。心なしか、以前よりも顔つきが落ち着いて見える。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。今日はどうされましたか」
その表情には、あの日とは違う、深い悲しみが浮かんでいた。
「実は……マックスが、先日亡くなりました」
「そうでしたか」
「腹にできものがあったようで、気づいた時には手遅れでした。……あっという間に衰弱してしまって。あっけないものでした」
ハーグリーブス氏は、手の中のリードをぎゅっと握りしめた。
「犬の世話なんて初めてでしたけど、なかなか良いものでした。私の息子たちもかわいがっていましたし、世話も手伝ってくれた。いい教育になりました。マックスがいてくれたおかげで、家族の会話も増えたように思います」
そこまで話して、彼は一度言葉を切った。
「毎朝の散歩も、最初は面倒だと思っていたんです。でも、いつの間にか、それが一日の中で一番楽しみな時間になっていました。マックスと歩きながら、息子たちと今日あったことを話したり……。父がなぜあれほどマックスを大事にしていたのか、今ならよくわかる気がします」
その声には、亡き父への理解と、静かな感謝の色が滲んでいた。
「これからもずっと一緒にと思っていたのですが……。マックスを長生きさせられなかったこと、父は怒っていないでしょうか」
その問いには、単なる犬への愛情だけでなく、父への複雑な想いも滲んでいるようだった。
「もう一度、お父様を呼び出してみましょうか」
私はリードを受け取り、目を閉じた。だが、いくら待っても、あの老紳士の姿は現れなかった。
「……出てきません」
「そんな……」
「残念ながらというか、喜ばしいことにというか、お父様はもう神の国に渡られたようです」
「そうですか……」
ハーグリーブス氏は肩を落とした。
「このリードは、お父様だけでなく、マックスさんにとっても愛着のある物だと思います。それなのに、マックスさんも出てきません。おそらく、お父様はマックスさんと一緒に、神の国に向かわれたのではないでしょうか」
「一緒に、ですか」
「このリードには、何の未練も後悔も残っていないように感じます。ということは、お父様はマックスさんの世話をしっかりしてくださったことに満足して、神の国に渡られたのだと思いますよ」
「そうだといいのですが……」
そう言いながらも、ハーグリーブス氏の表情は、少しずつ晴れやかなものに変わっていった。
「子供たちがマックスがいなくなって寂しがっているので、また犬を飼おうかと思っています。今度は、私自身も最初からきちんと向き合っていきたいと思います」
帰り際、そう言って笑顔を見せるハーグリーブス氏の姿に、私はふと、マックスを愛おしそうに見つめていたあの老紳士の笑顔が重なるのを感じた。
「それは良い考えだと思います。きっと、お父様も喜んでくださるでしょう」
私がそう答えると、ハーグリーブス氏は深く頭を下げ、リードを大切そうに抱えて部屋を後にした。
◆
扉が閉まった後、私はテオの方を見た。
「今頃、あの老紳士とマックスさん、神の国で並んで散歩しているのかしらね」
「そうかもしれません。アラン氏が『見張る』と言って神の国に行かずにとどまっていたのも、マックスを待っていたのかもしれませんね」
「不器用な人だったんだろうな、と思うわ。家族には素直になれなかったのに、犬にだけは、あんなに真っ直ぐに愛情を注げるなんて」
「人には、色々な形の不器用さがありますからね」
テオの言葉に、私は小さく頷いた。
「でも、それでよかったのかもしれない。マックスさんという存在がいたから、ロバート様も少しずつ、お父様の気持ちに気づくことができた。犬を通してしか伝えられない愛情の形もあるのね」
仕事ばかりで家族と向き合えなかった父親が、最後に拾った一匹の老犬を通して、ようやく何かに気づき、そして息子との間に、犬という橋を架けることができた。それは決して、まっすぐな親子の絆の形ではなかったかもしれない。それでも、確かに何かが繋がったのだと思う。
「今度、お墓参りにでも行きましょうか」
「そうですね。マックスさんにも、お礼を言わないといけませんし」
「お礼?」
「私たちを、あれだけ運動させてくれましたから」
テオが珍しく冗談めかしてそう言うので、私は思わず噴き出してしまった。
「テオがそんな軽口を叩くなんて、珍しいこともあるものね」
「レイラ様の影響かもしれません」
軽口を叩き合いながらも、私はどこか満たされた気持ちでいた。財産こそ辞退したけれど、不器用な父と息子の間に、確かな絆が生まれるきっかけを作れたのなら、それだけで十分意味のある仕事だったと思う。
窓の外は抜けるような青空が広がっている。老紳士とマックスが、今頃どこかで並んで歩いているところを想像しながら、私はそっと目を閉じた。




