Case7:犬は知っていた(2)
屋敷に到着すると、庭先で一匹の老犬が寝そべっていた。白と茶色のぶちの雑種犬で、垂れた耳と、白髪の混じった口元。見た目からしてかなりの高齢だとわかる。
「これがマックスです」
ロバートがそう紹介してくれる。私は手にしたリードを見せながら、そっと近づいた。
「マックスさん、こんにちは」
声をかけると、マックスは私が持っているリードに目を留め、ぱっと目を輝かせた。
「わん!」
勢いよく立ち上がり、尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄ってくる。まるで「散歩に連れて行ってくれるのか!」と言わんばかりの喜びようだ。
「リードを見て喜んでいるみたい」
「ああ、父がいつも持っていたものですからね。散歩の合図だと思っているのでしょう」
マックスはリードの匂いを何度も嗅ぎ、それから期待に満ちた目で私を見上げてくる。この様子では、大人しく話を聞かせてくれるとは到底思えなかった。
実際、その予感は的中した。
私とテオは、屋敷の中を自由に動き回る老犬マックスに振り回される羽目になった。
伯爵家の敷地内に建てた、こぢんまりした隠居後の住まいと聞いていたが、なかなかに広い屋敷で部屋数も多い。
「マックスさん、ちょっと待って!」
私が呼びかけても、マックスは全く聞く耳を持たず、廊下の角を曲がって姿を消してしまう。
「まさか、こんなところで体力を消耗するとは思いませんでした」
テオが息を切らしながら言う。護衛としての鍛錬を積んだテオでさえ、この老犬の機動力には手こずっているようだった。
ちなみにロバートはマックスに全くついて行けずに、どこかで休んでいる。
二人でマックスを追いかけていくと、マックスは庭に出て、花壇を掘り返していた。
「あ、こら!そこはダメよ!」
慌てて駆け寄るが、時すでに遅く、花壇の土がそこら中に飛び散っている。土まみれになったマックスは、それでも満足そうに尻尾を振っていた。
「もしかして、ここに遺言書が?」
テオが花壇の中を覗き込むが、出てきたのは古いボールだけだった。よく見ると、歯形のついた、マックスのお気に入りのおもちゃらしい。
「違うみたいね……」
私は溜め息をつきながら、ドレスの裾についた土を払う。優雅な降霊術師のはずが、すっかり土まみれで庭師のような有様だ。
マックスはその後も、応接間のクッションの下、書斎の本棚の隙間、階段下の物置と、次々に場所を移動していく。そのたびに私たちは振り回され、そして何も見つからない。
応接間では、飾ってあった花瓶にマックスが体当たりし、水浸しになった床の上を滑るようにして走り抜けていった。使用人たちが悲鳴を上げながら雑巾を持って駆けつける。
「すみません……こんなことに……」
息を切らしながら謝ると、居合わせた老いた執事は苦笑いを浮かべた。
「いえ、大丈夫でございます。マックスがこの調子で暴れるのは、いつものことでして」
「いつもなんですか、これ」
「旦那様が生きていらした頃は、よく一緒に屋敷中を駆け回っていらっしゃいました。仕事にはあれほど厳格な方だったのに、マックスの前ではまるで別人のようで」
執事の言葉に、思わず胸が締め付けられる思いがした。仕事一筋で家族に素っ気なかったという老紳士が、この老犬の前でだけは、無邪気な顔を見せていたのだろう。
階段下の物置では、マックスが古いトランクの中に頭を突っ込んで、抜けなくなるという珍事も起きた。
「大変、抜けないわ!」
「私が引っ張りますので、レイラ様はトランクを押さえていてください」
二人がかりでなんとかマックスを救出すると、当のマックスは何事もなかったかのように、また別の場所へと駆けていく。
書斎では、本棚の隙間に鼻を突っ込んだかと思うと、埃だらけになったマックスがくしゃみを連発し、その拍子に積んであった本が雪崩を起こした。
「わあっ!」
崩れてくる本の山を、慌てて両手で受け止める。危うく本が頭に直撃するところだった。
「レイラ様、大丈夫ですか」
テオが駆け寄って本を拾い集めてくれる。マックスはといえば、その騒動などまるで意に介さず、既に別の部屋へと駆け去っていた。
三時間ほど経った頃には、私もテオもすっかりくたびれ果てていた。ドレス姿で犬を追いかけ回すというのは、想像以上に体力を消耗する行為だと知る。ベールもずれて、化粧も少し崩れているに違いない。
「これ、本当にマックスさんが何か知っているのかしら」
「わかりません。ですが、アラン氏がそう仰った以上……」
息を切らしながら、二人でぐったりとソファに座り込む。マックスはといえば、散々遊んで満足したのか、暖炉の前でくるりと丸まり、そのまま昼寝を始めてしまった。
ロバートも私たちに合流し、不安げにマックスを見ていた。
「あの……アラン様。マックスさんに話を聞くのは、無理そうですが」
私は小声で、まだこの場に残っている老紳士の気配に向かって話しかけた。
『……』
老紳士は答えず、ただじっと眠るマックスを見つめていた。その眼差しは、これまでの飄々とした様子とは違い、深い愛おしさに満ちていた。
しばらくして、老紳士はぽつりぽつりと語り始めた。
『あいつは、拾い犬なんだ。仕事の出先で、雨に打たれてうずくまっているところを見つけてな』
「そうだったのですか」
『最初は、放っておこうと思ったんだ。忙しい身だし、犬の世話などする暇もない。だが、あまりに情けない声で鳴くものだから、つい馬車に乗せてしまった。それが運の尽きだったな』
そう言って、老紳士は自嘲気味に笑った。
『私は、仕事ばかりの人生を送ってきた。息子が生まれても、仕事優先の生活は変えなかった。たまに顔を合わせるくらいで、まともに話をした記憶もほとんどない』
そう言って、ロバートを見る。
『妻は早くに亡くなったが、正直、その時も特に何とも思わなかった。冷たい男だと思うだろう。だが、悲しむ暇もないほど、次から次へと仕事が舞い込んできてな。気づけば、悲しみ方を忘れてしまっていたんだ』
老紳士の声には、後悔とも諦めともつかない響きがあった。
『ロバートが子供の頃、一緒に遊んでほしいとせがまれたことがあった。だが、その日は大事な商談があってな。「今度な」と言って、結局その約束を果たすことはなかった。そんなことの積み重ねだ』
『成長した息子とも、仕事以外の会話は続かない。孫たちともどう接していいかわからず、いつの間にか怖がられるようになっていた』
『祖父というのは、もっと優しいものらしいな。だが、私にはその接し方がわからなかった。不器用な男なんだ、私は』
私は何も言わず、ただ耳を傾けた。
『マックスを拾って育てるうちに、ふと気づいたんだ。これまで、家族というものを、ずっと蔑ろにしてきたと。マックスは何も要求しない。ただ側にいて、尻尾を振って、私が帰ってくるのを待っている。それだけのことが、こんなにも心を満たすものだとは知らなかった』
「それが、家族との向き合い方を思い出すきっかけになったのですね」
『そうかもしれない。だが、今さらどうにかなるものでもない。長年の距離は、簡単には縮まらないからな。ロバートも、もう大人だ。今更父親らしいことをしようとしても、きっと戸惑わせるだけだろう』
「それで、マックスさんを可愛がるようになったのですね」
『ああ。だが、私が先に死んでしまった。マックスも、もう若くはない。今後何年生きるかわからないが、そう長くはないだろう。それでも、死ぬまで誰かにきちんと世話をしてほしいのだが……』
老紳士は、傍らで眠るマックスに視線を向けた。その目には、これまでの人生で誰にも見せたことのないような、柔らかな愛情が滲んでいた。
『あんた、どうだ?マックスはかわいいだろう』
「かわいいですね。でも、飼うのは無理です」
正直にそう答える。老紳士は少し寂しそうな顔をした。
『そうか……』
その表情には、まだどこか未練が残っているように見えた。息子と向き合う勇気は持てなかったけれど、この老犬にだけは、精一杯の愛情を注いできたのだろう。不器用ながらも、確かな優しさがそこにはあった。
◆
その時だった。
昼寝から目を覚ましたマックスが、のそのそと立ち上がり、書斎の方へと歩いていく。何かに導かれるように、迷いのない足取りだった。
「あら?」
私たちも慌てて後を追う。マックスは書斎の低い棚の前で立ち止まると、前足でカリカリと引っ掻き始めた。
「まさか、ここに何かが!?」
ロバートが色めき立って棚を開ける。中から出てきたのは――犬用のおやつの大袋だった。
おそらく、マックスは書斎でおやつをもらう習慣があったのだろう。棚の中におやつがあることを知っていたのだ。
「……なんだ、おやつか」
途端に興味をなくした様子のロバート。だが、マックスはといえば、目を輝かせておやつの袋の前でお座りをして尻尾をブンブン振っている。
「まぁまぁ、せっかくだから。はい、マックスさん」
私は苦笑しながら、袋から細かく切られた干し肉のおやつをひとつかみ取り出してマックスに与えた。満足そうにそれを頬張るマックスを見ながら、ふと袋の中を覗き込む。
「あら」
干し肉の中に、何か紙のようなものが混ざっているのが見えた。
「これは……」




