Case5:最後の勝負(3)
『毎日毎日、部屋にこもってカルロばかりやっていた。子供の頃から体が弱くて、頻繁に体調を崩していて……ここ数年は、医師にカルロを止められていたんだ。大会が終わるたびに、一ヶ月はベッドから起き上がれなくなっていたから』
その言葉を、私は静かにハロルドへと伝える。ハロルドの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……そうだったのか。お前が体を悪くしてたなんて、僕は……全然知らなかった。いつも余裕な顔して盤の前に座ってるから」
アレンの霊が、どこか懐かしそうに微笑んだ。
『俺には、カルロしか誇れるものがなかったから』
そこで一度言葉を切り、アレンは指先で自分の頭をかいた。生前の癖は死後も変わらない。癖は心情を雄弁に語ることもある。
「頭をかいていらっしゃいます」
私がそう口にすると、ハロルドが小さく息を漏らした。
「……そうだ。あいつ、困った時にいつもそうしてた」
『でも、ハロルドは無理しないでくれよ。あの日、俺は心臓発作を起こして死んだ。もう長くないとはわかっていたから、あの大会を最後にするつもりだったんだが……』
アレンの眉間に皺が寄る。
『死ぬ数日前から盤に向かって考えている時に、胸が痛んで集中力が切れることが何度かあった。兆候はあったんだ。最後だからと無理をしたのが悪かったのかな』
そう言って、アレンはまた困ったように頭をかいた。
その仕草を伝えると、ハロルドは堪えきれないというように、両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。
「……お前、最後の大会だってわかってたのか。それなのに、なんで教えてくれなかったんだよ。知ってたら……」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
『知ってたら、どうした?体調の悪い俺に勝ちを譲ったか?』
「そんなことするわけがない!ただ……話したかった。こうやって、誰か越しにではなく、直接。お前の顔を見て」
霊となったアレンからハロルドは見えるが、ハロルドはアレンの姿を見ることも声を聞くこともできない。
『どうかな。会いたいと言われていたとしても、俺は弱った姿を見せたくなくて会わなかったと思う。例え、二度と会えなくなるとわかっていても』
ハロルドはグッと歯を食いしばり、静かに涙をこぼした。
『ハロルド、誰がなんと言おうと、お前が王者だ。お前は強い。俺が消えたから勝てたなんて、そんな風に思う必要はない。だから――俺みたいに、命を削ってカルロにのめり込むな。ずっと長く、カルロを続けていってほしい』
しばらく肩を震わせていたハロルドが、やがて顔を上げた。目は赤く腫れていたけれど、そこに宿る光は、部屋に入ってきた時とは全く違うものだった。
「……わかった。お前の分まで生きる。生きて、カルロの王座に君臨し続けるよ。そうしたら、俺が公式戦で勝てなかった男として――お前の名前も、残る」
『俺の名前なんて、もうどうでもいいよ』
そう言いながらも、アレンの表情はどこか嬉しそうだった。降霊してからアレンが初めて見せる柔らかな表情だった。
『でも、俺が考えたあの一手、形にしてくれたら嬉しい』
「わかった。約束する」
『ありがとう。もうこれで、思い残すことはないよ』
その言葉を最後に、アレンの姿が揺れる。旅立ちの時が近いのだろう。窓から差し込む光が、その輪郭をゆっくりと溶かしていくように見えた。
ハロルドは涙を拭い、深々と頭を下げた。
「レイラさん、あなたのおかげで、アレンと最後の勝負をすることができました。本当に、ありがとうございます」
部屋に入ってきた時の、あの死んだような目をした青年はもういない。晴れやかとまではいかなくとも、確かな覚悟を宿した顔がそこにあった。
「こちらこそ、素晴らしい戦いを間近で見られて良かったです。あの……もし可能でしたら、駒をひとついただけないでしょうか。今日という日の記念に」
依代として使った駒をねだる。
「ええ、いいですよ。この駒は使わずに、自分への戒めとして飾っておくつもりですから、ひとつ減っても問題ありません」
この部屋に来た時とは全く違う、晴れやかな笑顔でハロルドは答えた。
ハロルドが帰った後、テオが片付けを始めながらぽつりと言った。
「アレンさんの最後の一手、レイラ様にはどう見えていたんですか?」
「正直に言うと、最初は本当に間違えたのかと思った。だってあの局面、素人の私が見てもアレンさんが有利だったんだもの。それをわざわざ崩すような手を選ぶなんて」
「それでも伝えたんですね」
「依代を通して呼び出した以上、指し手を決めるのは私の役目じゃないもの。たとえ間違っているように見えても、本人がそう指すと言うなら、それを曲げて伝えるのは違うと思ったから」
テオは少し驚いたように私を見て、それから納得したように頷いた。
「レイラ様らしいですね」
「そう?」
「ええ。降霊術師としてのルール、ちゃんと守ってらっしゃる」
照れくさくて、私はそっぽを向いて紅茶を啜った。
◆
その後、ハロルドはアレンが最後に見せたあの一手を磨き上げ、その戦法を引っ提げて、翌年の大会でも優勝した。
戦法として磨き上げるまでには相当の苦労があったと聞く。王者でありながら、これまで使っていた戦法から、新しい、誰も知らない戦法に乗り換えたことでも大きな話題になったが、最初は負けが続いていたという。
周囲は彼がなぜその戦法にこだわるのかを知らず、何度も元の戦法に戻すように助言したというが、彼は全く聞く耳を持たなかった。
そして今ではその戦法には、こんな名前がついている。
『アレン・ハロルド』
どちらか一方の名前だけを冠するのではなく、二人の名を並べて付けられたその戦法は、今のところまだ『定石』にはなっていない。
だが、きっとこれからも多くの棋士たちに受け継がれ、『定石』になっていくのだろう。
私の手元に残った小さな駒を、そっと陽に透かしてみる。木目の奥に、まだかすかにあの執着の気配が残っている気がした。だが、アレンはもう出てこない。
お互いを最高のライバルだと認め合い、お互いに「負けたくない」と強く願う気持ち。
それがあったから、あんなに眩しい対局になったのだろうな、と思った。
「良い記念になりましたね」
テオが淹れ直してくれた紅茶を口にしながら、私は小さく笑って頷いた。
「本当は、あの一手の解説料でもいただければ懐が潤ったんだけどね」
「相変わらずですね」
テオが呆れたように肩をすくめる。
「でも」と続けて、彼は窓の外を見た。
「ハロルド様の顔、来た時と全然違いましたね」
「うん。ああいう顔を見られただけで、まぁ、悪くない仕事だったかな」
降霊料以外の実入りはなかったけれど、なんだかそれでいいような気がする一件だった。
手のひらの上の小さな駒を、もう一度そっと握りしめる。木の表面はすっかり滑らかにすり減っていて、彼がどれほどの時間をこの駒とともに過ごしてきたのかが伝わってくるようだった。
いつか誰かが、その名前の由来を調べることがあるだろうか。
その時、彼らはきっと知るのだ。命を懸けてでも譲れなかった意地と、それでも最後には手を取り合った、二人のライバルの物語を。




