Case5:最後の勝負(2)
テオが手早くテーブルの上を片付け、代わりに使い込まれた木製の盤が置かれる。ハロルドは震える手で自分の駒を並べ、私はアレンの指示通りに――依代となったあの木製の駒も含めて――もう片方の陣地に駒を並べていく。
私自身、それなりにルールと駒の動きはわかっているつもりだったけれど、二人の間で交わされる読み合いの深さは、素人目にもすぐにわかった。序盤から、生半可な棋士では思いつかないような手が次々と繰り出されていく。
盤上を挟んで、ハロルドとアレン。片方は生きている人間の目で盤面を睨み、もう片方は死者の目で――いや、目すら見えない私を通してしか、意思を伝えられない。私はただの通訳だ。駒を動かす手すら、本当は私のものではない。
それでも、両者の間に流れる緊張は、この部屋の空気を張り詰めさせるのに十分だった。テオも壁際で微動だにせず、固唾を呑んで見守っている。
窓の外はいつの間にか夕暮れ時に差し掛かっていた。橙色の光が盤上に長い影を落とし、駒がまるで戦場に立つ小さな兵士のように見える。誰も口を開かない。聞こえるのは駒を置く乾いた音と、ハロルドの浅い呼吸だけだった。
正直に言えば、私にはこの盤面の何割も理解できていない。ただ、二人の間に流れる空気の重さだけは、痛いほどに伝わってきた。生きている者と死んでいる者が、これほどまでに対等に、真剣にぶつかり合う瞬間を、私はこれまで見たことがなかった。
序盤は静かな探り合いだった。互いに手の内を明かさず、じっくりと陣形を整えていく。だが中盤に差し掛かるにつれ、二人の呼吸が――ハロルドの、そしてなぜか隣にいる私の呼吸まで――荒くなっていくのがわかる。ハロルドの額には玉のような汗が滲み、アレンの霊は――霊なのに――眉間に深い皺を刻んでいた。
アレンが駒の種類を言い、置く場所を指し示す。私が駒を指定された位置に置く。
やりとりを重ねるうちに、次第に局面はアレン優勢に傾いていった。当然だ。三年間王座に君臨し続けた実力は、死してなお衰えていないらしい。ハロルドの表情にも焦りの色が濃くなっていく。
しかし――
「本当に?」
終盤、アレンが指し示した手に、私は思わず聞き返した。
その一手は、明らかにアレン優勢の局面から一転、危うい橋を渡るような手に見えたからだ。せっかく築き上げた優勢を、自ら手放すような、そんな奇妙な一手。カルロの心得がある程度しかない私の目にすら、それは明白な悪手に映った。
『そうだ。ここだ』
迷いのない声だった。私は戸惑いながらも、その通りに駒を動かす。何か裏があるのだろうか。それとも――
ハロルドが私を睨みつけた。まるで私が何か細工をしたとでも言いたげな、鋭い視線だった。私だってこれで得することは何もないのに。
「……間違っていないそうです」
その一手から、盤上の流れが緩やかに、しかし確実にハロルドの方へと傾いていった。
最善手を選び続けていたはずのアレンが、なぜか一手だけ、綻びを見せたのだ。ハロルドはその隙を逃さず、次々と手を進めていく。手が震えているのは、緊張のせいなのか、それとも他の理由なのか、私にはわからなかった。
そして――
『負けました』
アレンが言い、それを伝える。
「勝った……のか」
ハロルドが呟いた。誰よりも、自分自身が信じられないという声で。
最終的に、勝負はハロルドの勝利で終わった。
だが安堵の表情を浮かべたのは一瞬だけで、すぐにハロルドの顔は怒りに染まった。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「ふざけるな!お情けで勝って、僕が喜ぶとでも思ったのか!」
拳がテーブルを叩く。並べていた駒が跳ねて転がった。テオが慌てて拾い集める。
「あの手は、絶対におかしかった!アレンほどの実力があれば、あんな隙を作るはずがない!お前――何かやったんだろう!」
こちらを指さして怒鳴る。
私は、私以外には聞こえない死者の言葉をただ伝えるだけ。真剣勝負に水を差すようなことはしないし、できない。
それでも矛先が私に向くのは仕方のないことかもしれない。心外だけど。
「私は駒を動かしているだけで、指し手を決めているのはアレンさんご自身です。あの一手も、アレンさんの指示です」
そう言い返しても、ハロルドの興奮は収まらない。
アレンの霊は、静かにハロルドを見つめていた。怒りも、動揺もない、ただ真っ直ぐな眼差しで。それがかえって、ハロルドの苛立ちを煽っているようにも見えた。
『――俺はいま、自分自身で考えられる最高の一手を打ったつもりだ』
その言葉を伝えると、ハロルドの肩がびくりと震えた。
「最高の一手だと?あんな詰めの甘い手のどこが」
声を荒げるハロルドに、私は努めて冷静に声をかけた。降霊料は先払いでいただいているとはいえ、依頼人がこのまま怒って帰ってしまうのは後味が悪い。
「とりあえず、少し落ち着いてください。アレンさんの考えを、聞いてみませんか」
ハロルドは唇を噛み、しばらく黙り込んでいたが、やがて崩れるように椅子に座り直し、小さく頷いた。
感想戦――対局を振り返り、互いの読み筋を検討し合う時間が始まった。
駒をひとつひとつ、元の局面に戻していく。一手ずつ、なぜその手を選んだのか、何を狙っていたのかを確認していく作業だ。
驚いたことに、アレンのあの一手は悪手に見えたものの、その発想自体は今までのカルロの定石を根底から覆すほどの、新しい可能性を秘めた一手だったのだ。
アレンの考えていた道筋はハロルドに潰されたが、それはハロルドの読みが上回っただけ。
もし私が相手だったなら、いや、ハロルド以外が相手だったなら、この悪手に見える一手に踊らされ、彼の罠に嵌っていたことだろう。
ハロルドの驚愕の表情を見れば、それがどれほど画期的な発想なのかが私にも伝わってきた。
「これ……この筋、今まで誰も指したことがない……いや、指せなかったんだ。普通ならここで守りに入る局面なのに、あえて攻めに転じるなんて」
ハロルドは駒を手に取ったまま、食い入るように盤面を見つめている。怒りに震えていた声は、いつの間にか棋士としての興奮に変わっていた。
「アレン、お前、いつからこの手を考えていたんだ」
『――病床でな。眠れない夜はずっと、天井を見ながら盤面を思い浮かべていた。他にやることもなかったし』
その言葉を伝えると、ハロルドは唇を強く結んだ。
『お前の夢は何だと聞かれた時、『定石を作ることだ』と答えたのは嘘じゃない。定石は俺の夢だった。だけどそれとは別に、ハロルドに負けたくなかった。これも、ハロルドに勝つために考えた戦法だ』
私がその言葉を伝えると、ハロルドの表情から怒りが少しずつ削げ落ちていく。
「僕だって負けたくなかった。小さい頃からカルロでは大人にだって負けなかったのに、同世代で勝てない相手がいるなんて、思いたくなかったんだ」
『家柄も容姿も恵まれているハロルドと違って、うちは男爵だし、俺の見た目もあまり良くない。でもカルロなら、ハロルドに勝てた。だからカルロだけは、負けるわけにはいかなかった』
その言葉に、ハロルドが息を呑む音が聞こえた。
「アレンはずっと、僕の前を歩いていた。僕だって必死だったよ。アレンに置いていかれないように。君と対等に戦えるライバルでいたかった」
二人の間に流れる沈黙は、先ほどまでの張り詰めたものとは、明らかに違う質のものだった。部屋の空気がゆっくりと解けていくのを、私は肌で感じていた。
そしてアレンが、静かに語り始めた。
誰にも言わなかった最後の大会の時のことを。




