Case5:最後の勝負(1)
「本日はようこそいらっしゃいました。私は降霊術師のレイラです」
艶やかな声でそう挨拶しても、目の前の青年は顔を上げようとしなかった。俯いたまま、膝の上に置いた両手を固く握りしめている。爪が食い込むほどの力の入れようだ。
ハロルド・リステン侯爵令息。
つい先日、ボードゲーム『カルロ』の国内最大の大会で、初めて頂点に立ったばかりの青年だ。
カルロは前世で言うところの将棋によく似たゲームで、貴族の間で盛んに嗜まれている。将棋と違って盤面が六角形をしていたり、成り駒の種類がやたら多かったりと細かい違いはあるけれど、根本のルールは似たようなものだ。私も一時期、大会の優勝賞金の額に目が眩んで必死に覚えたことがある。
実際にカルロギルド(前世でいう将棋連盟みたいなもの)でビギナークラスに登録し、順調にノービスクラスまで昇格したものの、対戦相手が強くなるほどにあの独特な読みの深さについていける気が全くしなくなり、早々に見切りをつけた。それでも駒の動かし方くらいは今も頭に入っているし、対局の流れを目で追う程度のことはできる。
金色の髪に整った顔立ち、仕立ての良い上着。誰が見ても高位貴族令息とわかる出で立ちだけれど、その表情はひどく荒んでいた。目の下には濃い隈があり、頬もこけている。優勝の栄光を手にしたばかりの青年には、到底見えなかった。
「王者になられたと伺いましたが……あまり嬉しそうには見えませんね」
「……嬉しいわけがないでしょう」
絞り出すような声だった。テオが淹れた紅茶にも、ハロルドは手をつけようとしない。湯気だけがゆらゆらと立ち上っては消えていく。
「失礼ですが、大会からもう何日か経っているかと思いますが、ろくに食べ物を召し上がっていないのでは?」
テオが静かに問いかけると、ハロルドは力なく笑った。
「食べても味がしないんです。眠っても、目を開けたらすぐにあいつのことを考えている。おかしいでしょう。優勝したのに」
ため息をひとつついて続ける。
「僕が王者になれたのは、僕が強くなったからじゃない。アレンが……いなくなったからだ」
アレン・バストウ男爵令息。
三年間、カルロの王座に君臨し続けていた青年だが、大会の直前に急逝したのだという。享年、二十二歳。まだ若かったが、死因については公表されていない。
「僕とアレンは同い年で、物心ついた頃からのライバルでした。幼い頃から神童ともてはやされて育って、カルロなら誰にも負けないと思っていた。なのに……地方の男爵家の、それも全然目立たない、痩せて青白い顔をした男が現れて、僕はどうやっても勝てなくなった」
ハロルドは膝の上の拳をさらに強く握る。テーブルの木目が軋むような気さえした。
「初めて対局した時のことは今でも覚えています。八歳の時、地方大会で。僕はその頃、負けなしでした。大人相手にも勝っていた。だからあいつを見た瞬間、正直、格下だと思っていました。垢抜けない格好で、緊張して手が震えていて。それなのに――負けたんです。完膚なきまでに」
当時を思い出しているのだろう、ハロルドの目が一瞬遠くを見た。
「悔しくて対局後に泣きました。あいつは『また対局しような』とだけ言って帰っていきました。それから毎年、大会で顔を合わせるたびに、僕はあいつに勝つことだけを考えて生きてきたんです」
「悔しくて、悔しくて、必死に稽古しました。師範にも家庭教師にも頭を下げて、寝る間も惜しんで盤に向かった。でも勝てない。あるとき、あいつに聞いたんです。お前の夢は何だって。てっきり『王者になること』だと思っていた。でもアレンは笑って言ったんです。『自分の名前がついた定石を作ることだ』って」
定石――カルロにおいて、多くの棋士に広く使われるようになった型のこと。優れた一手の組み合わせは、編み出した者の名を冠して後世に伝えられる。名誉あることなのだろう。
「僕のことなんて、眼中になかったんですよ。あいつにとって僕は、大勢いる対戦相手の一人でしかなかった。だから……意地になって、最高の定石と言われる『ヴィクトール戦法』を磨き上げました。あいつに勝つためじゃない。あいつに、僕を見てもらうために」
その戦法で、ハロルドは今大会、初優勝を果たした。だがそこにアレンの姿はなかった。
「王者になったのに、何にも感じないんです。ただ、胸にぽっかり穴が空いたみたいで……何をしても、あいつのことばかり考えてしまう。夜も眠れないし、飯を食っても味がしない」
友人に相談したところ、死者と話せるという降霊術師の噂を聞き、藁にもすがる思いでここまで来たのだという。
「アレンを……呼び出していただけませんか。もう一度、あいつと話がしたいんです」
「事前にご説明差し上げた通り、私の力には制限があります。神の国に旅立たれていた場合は呼び出すことができませんし、生前愛着のあった品を依代としてお持ちいただく必要があります」
私がそう告げると、ハロルドは鞄から布に包まれた箱を取り出した。中には六角形の盤とたくさんの駒。使い込まれているのが見ただけでわかる。
「アレンの遺言で、僕にこれが渡されました。あいつは病床でもずっとカルロの研究していたそうです。死ぬ間際まで、この駒を握りしめていたと聞きました」
なるほど、これなら望みはありそうだ。それほどまでに執着していたものなら。
「わかりました。それでは、五十万ゴルドを前金としていただきます。呼び出せなかった場合は四十万ゴルドを返金いたします。また、降霊によって依頼者様が利益を得た場合は、その一パーセントをいただくことになりますが……今回はそういったご依頼ではなさそうですね」
残念ながら、と心の中でだけ付け加える。カルロの賞金がどれほどのものか知っている身としては、少しばかり惜しい気もしたけれど、顔には出さない。
「はい。申し訳ないですが」
ハロルドが金の束を卓上に滑らせる。テオが白手袋の手でそれを静かに受け取った。
私は駒を手に取り、目を閉じる。
木の温もりの奥に、確かな執着の気配を感じた。ずっしりと重い、それでいて澄んだ意志のようなもの。まるで盤の向こうに座り続ける誰かの気配そのものだった。
「いらっしゃいました」
目を開けると同時に、ハロルドの表情が強張るのがわかった。何も見えていないだろうに、部屋の空気が変わったことを肌で感じ取ったのかもしれない。
私の目の前には、線の細い青年が静かに佇んでいた。地味な顔立ちだが、その目だけは異様なほど強い光を宿している。まるで今もどこかの盤面を睨んでいるかのような、研ぎ澄まされた眼差しだった。頬はこけ、顔色も生前から良くなかったのだろうと察せられる。
「アレンさん、でいらっしゃいますか?」
『ああ。……ハロルドが呼んだのか』
その声には、懐かしさとも苛立ちともつかない、複雑な響きがあった。
「はい。あなたと、もう一度話がしたいそうです」
私がそう伝えると、ハロルドは顔を上げ、何もない空間に向かって――いや、私が示した先に向かって、まっすぐに視線を据えた。今までの俯いた青年とは、まるで別人のような目つきだった。
「アレン。聞こえるか」
立ち上がったハロルドの声には、これまでの弱々しさが嘘のように、確かな熱が宿っていた。
「ここで決勝戦をやろう。お前に勝てなければ、僕は王者とは言えない」
アレンの霊が、ふっと口の端を上げた。乾いた、それでいてどこか嬉しそうな笑みだった。
『――いいだろう』
その瞬間、私は悟った。
これは、慰めのための降霊などではない。
生者と死者、二人の男の、正真正銘の真剣勝負が始まるのだと。




