Case4:秘密の花園(3)
「マーガレット様もお会いしたかったようなのですが、あなたの姿が見えなかったと」
「俺は……あんなことがあってお嬢様に合わせる顔がないと思って、お嬢様の様子を伺うこともしていなかった。お嬢様もここに来ることはなかったし、お嬢様はもう俺のことなんて忘れたのかと」
「マーガレット様からの伝言を預かっています」
ゆっくりとマーガレット様の言葉を伝える。
『今まで綺麗な花を咲かせてくれてありがとう。あなたの元で咲く花たちが、私の心の拠り所でした。あなたを酷い目に遭わせたことは後悔しています。でも、あなたを愛したことは後悔していません。先に神の国で待っています』
青年は目を閉じた。
震える息が漏れる。
「……お嬢様は知っていたんだな」
「ええ」
だからマーガレット様は、三十年間、離れを出なかった。
この花壇が見える場所から。
彼の存在を感じられる場所から。
◆
私は静かに言った。
「この屋敷で、あの日のことを知る者はもう誰もいません」
「そうだろうな」
「けれど、分かったことがあります」
花壇へ視線を落とす。
薄桃色の花々が静かに揺れている。
「庭師たちに聞きました。この花壇だけは“雑草を抜き、水をやるだけで、絶対に掘り返すな”と昔から言い伝えられていたそうですね」
青年は黙る。
「ろくに世話をしていないのに、毎年異様なほど美しく咲く」
沈黙。
「……師匠の爺さんが言い残したんだろうな」
「ええ」
私は彼を見る。
「でも誰も知らなかったんです」
声が少しだけ低くなる。
「駆け落ちに失敗したあの日、あなたがマーガレット様の父親の手で殺され、この花壇の下に埋められたことを」
青年は、否定しなかった。
「……ああ」
やがて、静かに答えた。
「そうだ」
侯爵は家名を守るため、庭師の亡骸を庭の片隅に埋めさせた。
埋められた庭師の上着のポケットには、「お嬢様から預かった宝石」だけでなく「お嬢様の好きな花の種」が入っていた。ポケットに種を忍ばせていたのは、いつか二人で育てるつもりだったからだろう。
事情を知る老庭師だけが、この場所を花壇として囲った。せめてもの弔いだったのかもしれない。
当時のことを思うと、胸が締め付けられる。
愛する人を目の前で傷つけられ、心を病みながら庭の花を見続けたマーガレット様。
そして、想い人に会うことも叶わぬまま、この土の下に眠り続けた青年。
三十年という歳月は、あまりに長い。
「俺と一緒に埋まった種が芽を出した」
青年は花々を見る。
「この花はあまり手をかけなくても育つし、きれいな花が咲く。そしてその後、種が落ちてまた翌年も芽が出る」
彼は少し笑った。
「お嬢様と逃げて新しい生活を始めたら、一緒に育てるつもりだったんだ。だがそれが叶わなくなったから一人で育てていた」
そう。だからマーガレット様が欲しがった花がわかった。彼が育てた花を触れば、彼が呼び出せるはずだと。
『たぶん、あなたならわかるはずよ』
マーガレット様の最後の言葉が耳に甦る。
「俺が骨だけになってからも、どうにか持ってた。でも、もう限界だった。肥料も撒いてないし土が痩せちまったからな」
その時だった。
青年の輪郭が、ふっと揺れた。
実体のない者は揺らぐ。
「来年か……再来年にはもう花を咲かせるのは難しいと思ってた」
私は声を絞る。
「マーガレット様の近くに埋葬していただけるよう、ご当主に伝えます」
「骨なんてもういい」
彼は空を見上げた。
柔らかく笑う。
「俺も、行く」
輪郭が薄れていく。
「お嬢様が待ってるんだろう?」
「ええ」
「あれから三十年も経った。俺に気づいてくれるかな」
私は頷いた。
「私の目には、あなたは今も二十代の、逞しくて爽やかな青年に見えています」
彼は照れたように笑った。
「死んだ時の姿か」
「ええ。土に汚れた手も、日に焼けた顔も。マーガレット様が恋をした、そのままのあなたです」
青年は一瞬、泣きそうな顔をした。それから、それを隠すように大きく息を吸い込んだ。
そして、小さく頭を下げる。
「ありがとうな」
そのまま、煙のように姿がほどけた。最後まで、花壇の方を見つめながら。
風が吹く。
薄桃色の花が、一斉に揺れた。
まるで見送るように。
誰もいなくなった花壇の前で、私はそっと手を合わせる。
花壇の下には三十年間埋もれていた真実がある。
やがてここは掘り返されるだろう。
骨が見つかる。
ピンクダイヤモンドも。
侯爵家の古い罪も。
すべてが白日の下に晒される。
けれど、もうそれでいい。
埋もれていた真実は、ようやく花を咲かせたのだから。
私は手を挙げて離れに合図を送る。
しばらくしてテオと侯爵がやってきた。
「ここですか?」
硬い表情で侯爵が言う。
「ええ、この下に。それと、この花をマーガレット様の墓前に供えてあげてください」
切った花を侯爵に渡す。
マーガレット様の依代は宝石箱じゃなく花の種だった。
駆け落ちの前に彼にもらったものなのか、彼の死後に手に入れたものかはわからない。
でもマーガレット様と彼を繋ぐものはこの花だった。花だけだった。
「庭師の墓はどうすれば。通常、使用人は引き取り手がない場合には共同墓地になるのですが」
「本人にはこだわりがないようでしたのでお好きなように」
少し考えてから、私は付け加えた。
「ただ、もしできるなら――マーガレット様のお墓の近くに埋めていただけたらと思います。本人は『骨なんてもういい』と言っていましたが、離れることを望んでいたわけではないでしょうから」
侯爵はしばらく黙り込んだ後、静かに頷いた。
「……そうですね。当家が犯した罪の、せめてもの償いになるでしょうか。三十年前は今よりもずっと使用人の命が軽かったとはいえ、痛ましいことです」
侯爵は花束を小脇に抱え、花壇に手を合わせた。その横顔には、これまでの当主としての厳しさよりも、一人の人間としての痛みが滲んでいるように見えた。
◆
帰りの馬車の中、テオが窓の外を見ながらぽつりと言った。
「ダイヤモンドは見つかるでしょうか」
「ダイヤモンドは掘り返せば見つかるだろうけど、それより大事なものが見つかった気がするな」
「大事なもの?」
「三十年間、誰にも言えなかった二人分の想いよ」
私は膝の上に置いた小さな花を一輪、指先でそっと撫でた。侯爵に渡した花束から一輪だけ分けてもらったものだ。
「これは?」
「私にとっての記念、かな。大丈夫よ。もう彼は出てこないし」
テオは呆れたように笑ったけれど、何も言わなかった。
馬車の窓の外を、侯爵家の庭園がゆっくりと遠ざかっていく。
あの花壇は掘り返される。誰かが再びあの花を植えてくれるのだろうか。それとも忘れ去られてしまうのだろうか。
ふと、隣に座るテオの横顔を見る。
護衛として、助手として、いつも私のそばにいてくれる彼。
「どうかしましたか?」
テオに顔を覗き込まれる。
「ううん、ちょっと考え事」
誤魔化すように窓の外に視線を戻す。
夕暮れの光が、遠ざかる庭園を橙色に染めていた。
少しずつ橙色から紫色に変わり始めた空を見上げて祈る。
神の国で、二人が無事に再会できますように。
もし次に生まれてくることがあるなら――
どうか今度こそ、幸せになれますように。




