幕間 オルツィ子爵令嬢と『エスメラルダの瞳』
「嘘でしょう……」
クララ・オルツィは呆然と立ち尽くした。
今日は『エスメラルダの瞳』の発売日。
作者が亡くなって、もう続きが読めないと諦めていたあの『エスメラルダの瞳』の発売日なのだ。
貿易商を営む父が家に持ち帰る新聞を読むのがクララの楽しみだった。
流行のドレス、流行のお菓子、流行の歌劇。
そういうものに興味があるのだろうと両親は快く新聞を読ませてくれているが、クララが本当に読みたかったのは連載小説の『エスメラルダの瞳』だった。
年頃の娘が読むには少し過激な描写もあるけれど、何よりストーリーがとても面白く、むしろ過激な描写は少し読み飛ばしながら、この小説に熱中していた。
だからこそ、クライマックスで「作者死亡により連載終了」という記事を読んで泣き崩れ、三日間食事が喉を通らなくなってしまい、両親からとても心配されてしまった。
一ヶ月前、『エスメラルダの瞳』が作者の娘の手によって完結し、本として発売されるという知らせを商会の店頭で見つけた。足元が震えた。
ふらふらとおぼつかない足取りで店舗に入り、話を聞いたところによると『エスメラルダの瞳』は予約販売分はすでに完売。店頭販売分が僅かに残るばかりだという。
出遅れたことはショックだったが、そこから一ヶ月、指折り数えて発売日を待った。
そして今日。
満を持して開店時間の二時間前に商会に行ったクララが見たのは店舗前の長蛇の列。
そして、
「店頭販売分は今お並びいただいている方で売り切れとなります。これからお並びいただいても購入できません」
という無慈悲な商会員の声だった。
◆◆◆
その日、私――アイリス・ローエンは教室の隅で本を読んでいた。
私は三年生、つまり三年も学院に通っているのに親しい友人はいない。
教室の中で当たり障りのない雑談をする程度のクラスメイトはいるけれど、それ以上の関係にはなかなかなれない。
それはうちが貧乏でお茶会を開いたりできないとか、他家がお茶会に招くほどのメリットがないとか、そういう身も蓋もない理由だけでなく、私自身が友人を作ることに臆病になっているというのが大きい。
前世の記憶というのは良い面ばかりではないということだ。
だからこうやって、休み時間には一人で本を読んでいることが多い。
今日は『エスメラルダの瞳』を読んでいる。
あの商会長は『エスメラルダの瞳』を大人向けのジャンルだと言っていたから、そのつもりで読み始めたのに正直言って拍子抜けだった。
R18ではなくR15程度。チューしてイチャイチャして、肝心の場面は省かれて朝チュン。
この程度でも過激な描写と言われることに驚いたし、これなら口述筆記できたのでは?と思う。いや、やっぱり恥ずかしいか。
なので油断して、教室でカバーもかけずに読んでいたのだ。
「そっ、そ、そ、その本!」
ズザザザザという効果音が付きそうなくらい勢い込んで私の席の前に来たのは、クラスメイトのクララ・オルツィ。
自己紹介の時に彼女の名前を聞いて「男爵かな?」と思ったけど子爵だった。
「この本がどうかしましたか?」
そう問うと、オルツィさんの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「え、大丈夫ですか?」
そう言ってハンカチを差し出すと
「だ、大丈夫です」
と自分のハンカチを出して涙を拭く。そこで次の授業の開始のチャイムが鳴った。
オルツィさんは席に戻ったが、彼女の涙が気になって大好きな幾何学の授業にも身が入らなかった。
幾何学の授業が終わると昼休み。
オルツィさんを誘って校舎の外のベンチ席に座る。私も彼女も昼はお弁当だったからだ。
「突然泣き出したりしてごめんなさい」
そう言ってオルツィさんが頭を下げる。
「いや、それは別にいいんですけど、どうして泣いたんです?この本がどうかしました?」
お弁当と一緒に持ち出した『エスメラルダの瞳』を出すと、オルツィさんの目がまた潤む。
「発売日に、商会に行ったんです。開店時間の二時間前に。それでも買えなくて……。再版分の予約はさせてもらったんですけど、発売はいつになるかわからないって。だから私にとって幻の本で。ローエンさんが読んでたのを見て、本当に発売されていたんだって……」
「あ、感動の涙だったんですか」
「ええ。あと少し羨ましい気持ちも……」
顔を赤らめながら言うオルツィさんを見て、思わず笑ってしまった。
「オルツィさんって正直ね」
「ご、ごめんなさい」
と体を縮こませるオルツィさんに本を差し出す。
「私はもう読み終えてるので、もしよかったらお貸ししますけど」
「えっ!?いいんですか!?」
「いいですよ。新聞ではちょうどいいところで止まってしまったって聞いてます。ずっと読んでいたんだったら結末が気になるでしょう?」
「そう!そうなんです!ローエンさんも!?」
「あ、私は新聞では読んでなくて、人気作家が連載中に亡くなって、娘さんが続きを書いたって話を知り合いに聞いて興味を持って」
世間ではそういうことになっている。父と娘の共著だと。
「この本も知り合いがくれたから、そんな幻の本だなんて知らなくて」
知り合いがくれた本ということにしているけれど、実際はパトリシアさん本人からいただいている。
幸いにしてこの世界には「サイン本」という概念がなく、私宛のメッセージカードが添えられていただけで、メッセージカードは自室に大切に保管してある。今ここでこの本を貸しても何の問題もない。
「お知り合いからいただいた本……大切な物でしょうにお借りしてもよろしいのでしょうか」
「ええ。いつ再出版されるかわからないのだったら気になるでしょう?とても面白かったから、新聞に連載されていた頃から読んでいた方にはぜひ読んでもらいたいわ」
オルツィさんは私が差し出した本を受け取る。
「ありがとうございます。大切に扱いますね。それで……あの……読み終えたらお話しさせていただけませんか?」
「この本の感想の話ですか?ええ、ぜひ」
「あの、この本だけでなく……ローエンさん、いつも教室で本を読んでいらっしゃるでしょう?私も本が好きで、もしよければ色々なお話をさせていただければと……。厚かましいお願いだと思いますが」
「えっ?いえ、嬉しいです」
その昼休み以降、アイリスさん、クララさんと呼び合うようになり、仲良くさせてもらっている。
兄とエドワードさんのような関係に憧れていたけれど、私は臆病で弱虫で自分から踏み出せなかった。だから向こうから来てくれたクララさんとの友人関係は大切にしたいと思う。
でも――
「ねぇねぇアイリスさん、『エスメラルダの瞳』のこの献辞、気にならない?
『亡き父の言葉を伝え、父との絆を再確認させてくれた降霊術師レイラさんにこの作品を捧ぐ』
この降霊術師のレイラさんって何者かしら。降霊術って何かしら。亡き父の言葉を伝え、って文字通りそのまま亡くなった人とお話しできるってことかしら。もしかしてこのレイラさんがいなかったら、パトリシア先生が続きを書くことはなかったとか」
そうやって答えにくいことをグイグイ詰めてくるのは勘弁して欲しい。そしてファミリーネームから連想されるような安楽椅子探偵ぶりを発揮しないでもらいたい。
アイリスは前世でミステリーが好きでした。




