第1話 序章
昨年6月、禍津鰐の解剖で判明した最大の衝撃は、黄泉の国が急速に崩壊へ向かっているということだった。
クイーンの体内からは、想定されていた通り、産卵直前とみられる稚魚が発見された。
だが、衝撃はその先だった。
胃の中こそ消化中の魚や人で満たされていたものの、栄養を蓄えるべき肝臓は極度にやせ細っていた。
また、駿河湾に出てから何も食べないまま絶命したとみられるオスの胃からは、未確認の魚類が発見されたが、そのうちの半数以上が病気を発症していた。
それは、駿河湾内では珍しくない、ごくありふれたウイルスが原因だった。
しかし、外界から何百万年も隔離され、外部の病気に一切の免疫を持たなかった黄泉の国の生物群にとっては、それは致命的な感染力を持つ死神のウイルスだった。
教授が予言した通り、一昨年の開通がもたらしたのは駿河湾の高濃度酸素化だけでなかった。
黄泉の国の生態系を内側から静かに、そして確実に破壊し始めていた。
寄生虫や生体調査を担当していた稲垣や山崎の発見により、禍津鰐の胃壁から黄泉の国由来と思われる未知の寄生虫とともに、駿河湾由来のウイルスや寄生虫が数多く検出された。
ウイルスそのものが禍津鰐に直接影響することはなかったが、このまま黄泉の国の魚たちがウイルスへの耐性を獲得できずに死滅した場合、エサを失った大喰らいの禍津鰐たちもまた、遠からず全滅の時を迎えるだろうと予測された。
この飢餓による壊滅的被害を重く見た研究チームが導き出した答えの一つが、抗体を持ったプランクトンの人工放流だった。
生態系のボトムを支えるプランクトンに抗体を持たせ、順次上位の捕食者へと抗体を移行させていくことを狙った作戦だった。
劇的な効果は見込めないものの、これ以上の処置が遅れれば、完全になすすべを失ってしまう。
プランクトンは急ピッチで培養され、かつて知多が仮封鎖したハニカム構造のバルーンに極小の穴を開け、光なき世界へと大量に注入された。
駿河湾側からの不要な汚染を防ぐため、注入器の先端から直接プランクトン群を注入したあと、注入完了と同時に、海水に反応して即座にかたまる特殊樹脂を同じ注入器から流し込み、再びその傷口ごと固く閉じられた。
その際、同様の方法で、黄泉の国側の海水サンプルも採取されている。
並行して、ハニカム樹脂バルーンの周囲に広がる、弱った岩盤の補強作業も開始された。
超音波による地盤検査と並行して進められるこの作業は、亀裂付近の脆くなった地層に細いボアホールをあけ、そこから岩盤のひびに浸透するように特殊樹脂を圧入していく地道なものだった。
しかし、この一年間で起こった大きな想定外は、海底の出来事ではなく、地上の俗世からもたらされた。
風評被害による不買運動と、過激な保護活動である。
駿河湾由来のウイルスが黄泉の国を滅ぼしかけている、という事実は国家機密として厳重に秘匿された。
しかし、「駿河湾の地下閉鎖海域から古代サメが出現した」という事実そのものは公表せざるを得なかったため、一部のメディアやSNSから『未知の深海ウイルスが駿河湾に漏れ出した可能性』という根拠のないデマが拡散された。
これにより、一部の国で日本産──とりわけ駿河湾産の海の幸に対する、大規模な不買運動が巻き起こった。
この騒動は、多国籍の研究チームによる合同調査によって、安全性が科学的に保障されたことで沈静化へと向かった。
日本単独の発表ではなかったため国際的な信憑性が高く、一部の国を除いてほぼ沈静化した。
これにより、最悪の外交・経済破綻だけは免れることができた。
だが、次に「禍津鰐は閉鎖環境の崩壊により、このままでは餓死による絶滅を待つのみである」という、情報が世間に流出した。
研究チーム内部に、禍津鰐の窮状を激しく叫ぶ声があったため、意図的な情報リークであると考えられている。
これに端を発し、世界中の愛護・環境団体から「古代の生きた化石を黙って見殺しにするな」という、禍津鰐の保護を訴える過激な抗議活動が駿河湾を包囲した。
デモ船による駿河湾内への進入や港の占拠。
直接的な抗議活動により、防衛省や富士の土木会社による「亀裂補強工事」および「地盤の超音波調査」には、致命的とも言える大幅な遅れが生じることとなった。
──そして、その遅れが命取りとなった。
8月になり、山崎4年生の夏休み。
春に発表した、禍津鰐の行動解析の論文で禍津鰐の権威であると認知された山崎は、恒例となった水族館でのバイトをしていた。
1人でやることが当たり前になった子供向けの解説ショーを終えて片付けをしていると、稲垣が駆け寄ってくる。
稲垣:「黄泉の国の壁が崩落した!」
冬ぐらいから打ち合わせを重ね、禍津鰐の行動解析に絞った論文を提出しています。




