第1話 顕現(SIDE-A)
1章の翌年。
フェリーの乗員視点です。
6月の平日。9時35分に土肥港を出航した駿河湾フェリーは、10時05分、運航中に地震に遭遇した。
幸い津波はなく、陸地でも大きな被害は確認されていないとの情報が入った。
引き返した方が近かったが、船長と陸上の判断で予定通り清水港へ向かうことになった。
地震の知らせが来た直後は船内がどよめいたが、「被害なし」「運航に支障なし」というアナウンスが流れ、乗客は落ち着きを取り戻していた。
予定通りの進度で航行していたその時、唐突な衝撃が船体を襲った。
駿河湾内で座礁などあり得ない。
訓練にすら存在しない状況に、乗員である彼女は内心パニックになりながらも、転倒した乗客に駆け寄りながら、声を張り上げた。
A:「現在、状況を確認中です!アナウンスがあるまで落ち着いて対応をお願いします!お連れ様がいらっしゃる方は、安否の確認をお願いします!」
衝撃は一度だけで、船体が岩礁に引っ掛かった様子はなかった。
しかし、今の突き上げで無傷なはずがないことは理解できていた。
彼女が乗客から縋り付くように安全を問われている時、船内放送が流れる。
『こちらは船内放送です。
先ほどの衝撃により、右舷後方の車両甲板で浸水が確認されています。
乗客の皆さまは落ち着いて行動してください。
乗員の指示に従い、船首側の退避エリアへ移動をお願いします。
右舷後方には近づかないでください。
手すりにつかまりながら、ゆっくりと移動してください。
退避エリアでは乗員が救命胴衣を配布しています。
氏名を告げて安否を確認の上、必ず救命胴衣を着用してください。
船体の傾斜が進んでいます。
安全確保のため、船首ランプウェイを開放し、海面への退避を開始します。
海面へ出た方は、船体沈下時の水流に巻き込まれないよう、できるだけ船体から離れてください。
沈下までは時間があります。
乗員の誘導に従い、順番に落ち着いて退避をお願いします。』
まだ傾きを感じていないということは、今すぐ沈没するわけではないのだろう。
しかし「沈没」を意味する言葉が出た以上、乗客の動揺は大きかった。
彼女は階段側の出口の前に立ち、冷静さを意識しながら誘導を続けた。
最後の乗客が階段を下ったことを確認し、甲板に人が残っていないかを見回してから退避エリアへ向かう。
退避エリアにはすでに多くの乗客が集まり、乗員は彼女を含めて8名。
船長ともう1名は別行動で、その1名は既に海に入り、乗客を誘導していた。
救命胴衣を装着している乗客、装着確認を受けている乗客、すでに海へ出ている乗客、そして乗員に詰め寄る乗客──
混乱は続いていた。
乗員が海へ向かって叫ぶ。
乗員:「海に出た後は、流されないよう複数人で手を繋いでくださーい!」
救命胴衣の配布係に確認すると、乗客32名全員が救命胴衣を受け取っているとのことだった。
別の乗員に「車はどうしてくれるんだ!」と権利を叫ぶ乗客の声を横目に、彼女も救命胴衣を装着し、装着確認に加わる。
乗員に詰め寄っていた乗客も、船体の傾斜が目に見えて進み、ランプウェイと海面の距離が離れていくのを見て観念し、海へ飛び込んだ。
最後まで抵抗していた3名の乗客が、4名の乗員と共に海へ飛び降りた直後──
海の方から悲鳴が響いた。
指差す方向を見ると、サメのヒレが迫っていた。
しかし、明らかに縮尺がおかしい。
遠いのか近いのか判断できず、頭が混乱する。
次の瞬間──
ゴジラを思わせる巨大な上顎が海面から現れ、眼前から3名を一瞬で攫っていった。
──静寂。
次の瞬間、鼓膜が破れそうな悲鳴が四方から上がる。
赤く染まる海。
腰が抜け、彼女はその場に座り込んでいた。
「助けてー!」
海面で同僚が手を伸ばしていた。
我に返り、寝そべって手を伸ばすが──その距離は、絶望的だった。
次の瞬間、再び現れた巨大な影に、同僚は攫われていった。
そこからは凄惨な光景だった。
点々と赤く染まっていく海。
波を浴び、海水を飲み、パニックのまま浮き続ける乗客。
嘔吐する者、過呼吸になる者──巨影に攫われなかった者も、顔を水面に出したまま溺れていった。
船上に残った乗員も、沈みゆく船の内部へ逃げ込む者、腰が抜けてその場で絶望に囚われる者。
通信を終えて退避エリアへ来た船長もその場を支配するパニックに飲まれたのか、呆然と赤い海を見つめていた。




