最終章 いちばん暗い夜
石の段は、冷たかった。
裸足の裏から、冷たさが這いのぼってくる。白い衣の裾が、くるぶしのあたりで揺れていた。
明かりは、なかった。
それでも、段は白く見えた。うしろから、光が下りてくるからだった。
振り向かなくても、わかる。白陽が裂け目をくぐって、段の上をゆっくりと渡ってくる。教皇が一段下りれば、一段。立ちどまれば、そこでとどまる。
ついてくる。
聖都を発った朝から、ずっとそうだった。
手を、引かれていた。
アルバンの、右の手だった。乾いていて、少しだけ冷たい。段をひとつ下りるたびに、その指にわずかに力がこもった。
「足もとに、お気をつけください」
「さきほども、聞いた」
「はい。申しあげました」
三段ほど下りると、また言った。
「足もとに、お気をつけください」
教皇は、答えなかった。かわりに、つないだ手をそっと握りかえした。
もう片方の腕には、畳んだ黒い外套を抱えていた。顔を寄せると、焚き火の匂いが、まだかすかに、した。
段の両側に、白い衣の侍祭たちが膝をついていた。下りていく教皇に、ひとりずつ頭を下げる。皆、笑っていた。
白い手袋は、先に立って下りていった。けれど、段の途中で壁ぎわに身を寄せて、教皇とアルバンを先へ通した。それから、上へ戻っていった。
誰を待つのかは、知っていた。
アルバンが書いた文の、相手だった。新月の晩、地の底にて、待つ、と。
とうさまの名も、アルバンはまだ返していなかった。新月の晩、呼ぶときに返す、と言った。
下から、油と石の匂いがのぼってきた。
教皇は足を止めかけた。
知らぬ匂いの、はずだった。
段の真ん中が、浅くすり減っていた。何人もの足が、踏んできたのだろう。裸足の裏が、そのくぼみにちょうどおさまった。
段は、まだ続いていた。
白の下を、長いこと来た。
峠の修道院で食べた、知っている味のシチュー。北の祠の、すり減ったくぼみ。焚き火の向こうの、北の空。パン屋の奥の卓の、五つの丸パン。坂の上の家の、梁に並んだ白い字。
白の近くでは、覚えたことから遠くなる。
「……アルバン」
「はい」
名を、呼んでおいた。
道々、覚えた言葉を数えた。
はんぶんこ。誘拐。揃い。鎧戸。
――空っぽのまま祭壇に立ったら、あんたは、いつもどおり、『かまわぬ』って言っちまうだろ。
白い闇司祭は、そう言うた。道々、覚えればいい、と。
祭壇で口にする言葉は、そのどれでも、なかった。
つないだ手が少し湿っていた。どちらの手のせいなのかは、わからなかった。
最後の段を下りると、黒い扉が開いていた。
円い広間だった。黒い石の柱が輪になって、壁ぎわを囲んでいる。その奥に、柱の頭よりもなお高く、女の像が立っていた。
顔のない女だった。小さなランタンを、胸に抱いている。
ランタンの中で、火がひとつ揺れていた。
うしろで光が扉をくぐった。
広間が、白くなった。柱が、床が、像の足もとの黒い石の祭壇が白く照らされて、影という影が消えた。見上げると、黒い硝子の丸天井に、ふた筋の細い亀裂が走っていた。その黒も、みるみる白に塗りこめられていく。
真昼のようだった。
女の胸で、ランタンの火が震えた。身をすくめるように、細く、細くなって――赤い燠が、ひと粒残った。
教皇は像のほうへ歩いた。
今度は、教皇がアルバンの手を引いていた。
台座の前で足を止めた。
「……よるの、かあさま」
声が丸天井に響いて、白い光の中にほどけていった。
台座に手を当てた。
石は、冷たかった。北の祠で、村の者たちがそうしてきたように。祠の台座の裏の、その子、と刻まれたあたりは、指の形にすり減っていた。
見上げた。
首が痛くなるほど、見上げた。
顔は、なかった。
胸に、ひを、抱いていた。
――よるの かあさま ひを だいて
唄の、二行目だった。
待っておるか、と輿の中で白い手袋に訊いたことがある。少し遅れて、はい、と返事があった。
像は、何も言わなかった。胸の火は、赤い燠のまま、そこにあった。
顔がないのは、かまわなかった。
かあさまの顔を、教皇は知らなかった。とうさまの顔も。知らぬものは、思い浮かべようがない。
白陽が教皇の頭の上を越えて、祭壇の上へ渡っていった。祭壇の真上で動かなくなった。息をするように、膨らんでは、しぼむ。
光の奥に、何かがいた。顔のない、白いもの。
口もとは、動かなかった。
聖都の白陽の間では、ずっと微笑んでいた。夏至の夜を境に、微笑まなくなった。
あの光を、とうさま、と呼んでよいのか、教皇にはわからなかった。焚き火のそばでアルバンの話を聞いた白い夜から、ずっとわからないままだった。
うしろから足音が下りてきた。
白い手袋が広間に入ってきた。教皇の脇を頭を下げて通りすぎ、祭壇の傍らに膝をついた。教皇のほうへ、向きなおって。
「猊下。祈りを。……泣く者なき昼を」
白い手袋は、両の手を胸の前で組んだ。
教皇は祭壇の前に立った。
黒い石の面に、細かな字がびっしりと刻まれていた。溝の一本一本が、白く光っている。
アルバンの手は、まだ握っていた。
祈りの言葉は、知っていた。聖都で、侍祭たちが朝ごとに唱えていた。
口を、開いた。
「……我、欲す――」
頭上で、何かが動いた。
見上げた。
白い丸天井に、何かが映っていた。
手だった。
小さな手がひとつ、上へ伸びていた。誰かの頬に、触れようとするように。指の先が、震えていた。
その先の、顔のあるはずのところだけが白く飛んでいた。
音は、しなかった。
伸ばした指の形に、覚えがあった。どこで覚えたのかは、わからなかった。
喉の奥で、続きの言葉が止まった。
「……顔が、ない」
アルバンの指が、教皇の手を握りしめた。
天井の手はまだ伸びていた。届かないまま。
教皇は、続きを言わなかった。
白い手袋のほうへ、向きなおった。
白い手袋は、組んだ手をほどかずにいた。
二十五年前、白陽の間で、北の谷を浄めてよいかと伺ったのは、この男だった。かまわぬ、と答えたのは、この口だった。
「我は、かまわぬと、言うた」
白い手袋の肩が、ほんのわずか動いた。
この男は、文を携えて、王都へ下った。それから、谷へも下りた。燃える家の戸口で、火の中へ両の手を突き入れて、笑っている子を引きだしたのだという。その子は、名を、持っておったか、と訊くと、存じません、と答えた。
「書いて、もろうた」
銀色の髪の娘が、帳面に書いてくれた。まちがえて、おらぬ、と言ったので、線は引かれなかった。
もう一度、覆ってくださいませ、とこの男は言った。
「……もう、言わぬ」
広間が、しんとした。
白い手袋は膝をついたまま、目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
「……では、白い闇司祭さまに」
低い声だった。祈りの声では、なかった。
教皇は、腕の中の黒い外套を見下ろした。
片手で広げようとした。うまく、広がらなかった。
アルバンが、つないでいないほうの手で外套の襟をつまんだ。ひと振りして広げ、黙って教皇の肩にかけた。
白い衣の上に、黒い外套。裾が床に届きそうだった。焚き火の匂いが肩を包んだ。
教皇は、つないだ手を握りなおした。
それから、空いた指を目のふちに当てた。
乾いていた。
それでも、熱かった。
段の上から、いくつもの足音が下りてきた。
◆
段の両側で、白い衣の侍祭たちが膝をついていた。
皆、笑っていた。下りていく四人を、誰も止めなかった。見てさえ、いなかった。
うしろで、シエルの足が一度もつれた。ヘルミの声が、小さく何か言った。
段の下に黒い扉が開いていた。
ミレイアが、隣にいた。言ったとおりに。
扉の前を通るとき、目の高さにひときわ深く刻まれた一行が、目に入った。
――白く燃ゆる子らよ。汝らが消さんとする涙は、汝ら自身の涙なり。
立ちどまりは、しなかった。
広間は、真昼だった。
黒いはずの丸天井が、白い。柱も、床も、影ひとつなく照らされて、女神の胸のランタンには赤い燠が、ひと粒残っているだけだった。
祭壇の上に、白陽がいた。
その前に爺さんが立っていた。
白い衣の上に、黒い外套を羽織っていた。
俺の外套だった。裾を床に引きずりそうだった。
どう見ても、そっちのほうが似合っていた。
アルバンがその隣で、爺さんの手を握ったままだった。祭壇の脇には、侍祭長が膝をついていた。横顔の目は、閉じていた。
爺さんは、こちらを振り向かなかった。
白陽を、見上げていた。
外套の肩が、震えていた。
白陽が、膨らんだ。
息をするような膨らみ方では、なかった。ひと息に、大きく。光のふちが祭壇からあふれて、爺さんのほうへ降りていく。
泣く前に、覆う。
あの白は、いつもそうする。
隣で、ミレイアが胸もとを押さえた。
「熱い」
聖印の上だった。
うしろで、シエルがくすりと笑った。
笑うようなことは、何もなかった。
肩ごしに見ると、扉のそばでヘルミが自分の両腕を抱いていた。その口もとは、ゆるんでいなかった。唇を、きつく噛んでいた。
自分の口の端も、ゆるみかけていた。ぬるい湯に、肩まで沈んでいくように。
レオニスは、駆けだした。
祭壇の前へ。爺さんと、降りてくる白の、あいだへ。
両手を、丸めた。
手のひらの底に、暗さが溜まりかけて――崩れた。溜まるそばから、白にほどけていく。
胸の底で、ぬるいものが身じろぎした。
軽い足音が駆けてきた。
小さな両手が、下から差し入れられた。
シエルだった。黙っていた。器にした手を、レオニスの手の下に重ねた。指のすきまを、ぴたりと閉じて。
その下に、もうひとつ、手が来た。
アルバンの、左の手だった。右の手には、爺さんの手があった。
いちばん下に、手が、来た。
枯れ枝のような手首の先の、骨の浮いた、小さな手だった。
外套の中で星を見せたときには、触れようともしなかった手だった。
「……はんぶんこ」
爺さんの声だった。
夜は、崩れなかった。
重なった手の底に、暗さが、溜まっていく。いちばん下の手が、いちばん震えていた。それでも、引っこまなかった。
レオニスは、重ねた手を、そのまま、祭壇の上に、下ろした。
骨の浮いた手の甲が、刻まれた字の溝に触れた。
「我、欲す」
ひと呼吸、置いた。
「――親父が、息子に、泣き顔を見せられる夜を」
夜が、あふれた。
重ねた手のあいだから、祭壇の上へ。字の溝を、黒が満たしていく。床へ。柱の根もとへ。白い丸天井へ。
重ねた手が、夜の行く先を知っていた。
扉をくぐって、石の段を昇っていく。膝をついた侍祭たちの上へ。槍を構えた騎士たちと、ふたつの大きな背中の上へ。大聖堂の身廊で、笑っていた人々の上へ。開け放した扉から、広場へ。
新月の、王都へ。
白墨の名前を書いた、戸口という戸口の上へ。
女神の胸で、燠が赤く、ふくらんだ。
火が、立った。
まっすぐに。
丸天井から、白が引いていく。潮が引くように、亀裂のふちから黒が戻ってくる。
その黒に、星が、灯った。
ぽつり、ぽつりと。やがて、数えきれないほど。
新月の王都の、どこかの胸から昇ってきた光だった。
祭壇の脇で、侍祭長の組んだ手がほどけかけて、また組まれた。
いつのまにか、ミレイアが隣に来ていた。息をついた。
「冷めました」
胸もとを押さえていた手が、下りていた。
白陽だけが白いまま、祭壇の上に残っていた。
夜の中に、白い穴がひとつあいているようだった。その奥に、顔のない白いものがいた。
重ねた手が、ほどけた。
シエルの目がこちらを向いた。アルバンの右の手は、爺さんの手を包んだままだった。
爺さんが白陽を見上げていた。
「……とうさまの、顔が、見たい」
爺さんの横顔が、見えた。
目のふちは、乾いていた。乾いたまま、震えていた。
「……行くか」
「行く」
返事は、すぐだった。
怖くねえのか、とは訊かなかった。
祭壇の脇で、侍祭長が目を開けていた。膝をついたまま白陽を見上げて、唇が動いた。
「白き者が……白陽へ……」
書いた奴は、続きを知らねえ。
シエルが、爺さんの外套の裾をつかんでいた。
「……わたしも」
「お前は、ここだ」
レオニスは、シエルの頭に手を置いた。
「唄でも、歌ってろ。聞こえるように」
シエルは少しのあいだ、裾をつかんだまま黙っていた。それから、こくりとうなずいて、手をほどいた。
アルバンが、爺さんの耳もとに顔を寄せた。
「お預かりしていたものを、お返しします」
それから、何かをささやいた。
レオニスには、聞こえなかった。
それで、いい。
爺さんの唇がそれをなぞった。音には、ならなかった。
アルバンが、握っていた手をそっとほどいた。
レオニスは、その手を取った。
手のひらと手のひらのあいだに、夜をひとすくい、挟んで。
うしろで頁をめくる音がした。
レオニスは、前を見たままだった。
ふたりで、白の中へ歩み入った。
◆
白かった。
あたたかかった。湯の中に、頭まで沈んだようだった。
音が、なかった。自分の足音も、爺さんの息も、聞こえない。つないだ手のあいだの夜だけが、手のひらにひんやりと、あった。
何も、考えなくていい。何も、思い出さなくていい。そう思わせる、白だった。
――もう、泣かなくていい。
声が、した。
知らない男の声だった。夏至の夜にも、聞いた。ひどく優しい声だった。
白の奥に、何かがうずくまっていた。
大きかった。四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもある、白いもの。
顔は、なかった。
両の腕を、胸の前で輪にしていた。何かを抱えている形だった。
腕の輪の中は、空っぽだった。
つないだ手が、こわばった。
「……とうさま」
爺さんの声だった。細い声だった。
――もう、泣かなくていい。
白いものは、そう言った。ほかの言葉を、知らないように。
「……泣いて、おらぬ」
爺さんの、乾いた声だった。
白いものは、答えなかった。腕の輪だけが空っぽのまま、そこにあった。
――おいで。
今度は、こちらを呼んだ。
胸の底で、ぬるいものが身を起こした。
王都の路地を思った。笑ったまま眠れずにいたガキどもを。妹の顔を忘れかけたガルドを。配って、配って、一度も泣かずに、屋根裏へ戻らなかった晩を。
王都を、白の下に置いたのは、俺だった。
もう、背負わなくていい。白が、そうささやいている気がした。
――おいで。
ああ、と答えかけた。
指の先が、あたたかかった。見下ろすと、爪の先から白にほどけはじめていた。
つないだ手のあいだで、夜が薄くなっていく。爺さんの指が、握りかえしてきた。骨の浮いた指に、精いっぱいの力がこもっていた。
別の声が、届いた。
白の外からだった。ずっと遠くから、細い糸を伝うように。
「――一日目:昼寝。」
ミレイアだった。
そこから、読むのかよ。
書く、と言っていたくせに。
「――二日目:昼寝。朝寝坊。宿の朝食を三人前。」
罪状を読みあげる、騎士の声だった。少しも揺れていなかった。
「――本日:昼間から飲酒。」
読むな。
ほどけかけた指の先に、何かがにじんだ。
色だった。
「――世界を救った件については、保留とする。」
まだ、保留かよ。
口の端が、ゆるんだ。白の、せいではなかった。
「――夏至の夜:レオニス、泣く。」
そこで、声がひとつだけ、震えた。
指の先に色が戻ってきた。爪の先まで。
胸の底のぬるいものは、また身を伏せた。
――おいで。
白いものが、また呼んだ。腕の輪を、こちらへひらきかけて。
レオニスは息を吸った。
――声にならねえから、書いとく。
師匠の、汚い字だった。
――一行目と、同じ節だ。
三百年前、夜の番人たちが、白の奥の泣けない子に届けると誓った行だった。師匠は、峠へ行った。届かなかった。
「おいで おいで なけない こ」
ひどい声だった。かすれて、節もあちこち、外れていた。唄など、まともに歌ったことは一度もなかった。
それでも、最後まで歌った。
ひらきかけた白い腕が、止まった。
白の外からまた声が届いた。
ヘルミの声だった。シエルの声が、少し遅れて重なっていた。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
「よるの かあさま ひを だいて」
「ないても いいよ よるの なか」
かすかな声だった。けれど、一行も、欠けなかった。
三行目のあとに間があいた。
レオニスはもう一度、歌った。
「おいで おいで なけない こ」
隣で、爺さんの唇が同じ行をなぞっていた。
つないだ手を、持ちあげた。爺さんの手ごと。
指のすきまから、夜が、こぼれた。白いものの、顔のあるはずのところへ。
白の上に、暗さが、落ちた。
影が、できた。
影のないところでは、顔は見えないのだ。
影の中に、目が、あった。
眉が、あった。鼻すじが、結んだ唇が、伸びかけの髭の顎が、あった。目の下が黒ずんでいた。幾晩も眠っていない者の目だった。
若い男の、顔だった。
濡れていた。
歪んでいた。こらえて、こらえて、こらえきれなくなる、すんでのところの顔だった。
音が、戻ってきた。自分の息が。爺さんの息が。
白いものの背が、低くなった。
四つ足のようだったものが、膝を折る。大きな腕が、人の腕になる。輪にしていた腕がほどけて、だらりと下がった。
濡れた顔が、爺さんの顔のすぐ上まで降りてきた。
濡れた目が、外套を着た老人を見た。見知らぬ者を見る目だった。
爺さんが手を伸ばした。
つないでいないほうの、手だった。小さな手が上へ伸びていった。その頬へ。
骨の浮いた指が、濡れた頬に触れた。
「……とうさま、いたいの?」
子供の、訊き方だった。
若い男の目が、見ひらかれた。
唇が、震えた。
「……ああ」
あの声だった。もう、泣かなくていい、と何度も言った声だった。
それから、男は、泣いた。
声を上げて。顔じゅうを、くしゃくしゃにして。
白の中に、ぽつりと冷たいものが落ちた。
体が勝手に、半分回りかけた。
背を向けるのには、慣れていた。
泣いてる奴の顔は、見ないで――
道中の焚き火の前で、爺さんにそう言いかけた。言いきれなかった。
止めた。
見ていた。
爺さんも、見ていた。
爺さんが、名を、呼んだ。
アルバンがずっと、預かってきた名だった。最初に呼んだのは、爺さんだった。
男の泣き声が、ひと息止まった。濡れた目が爺さんを見た。
父は、子の名を、呼んだ。
三百年、誰も呼ばなかった名だった。
もう一度、呼んだ。今度は、ずっとひそめた声で。
つないでいた手が、ほどけた。
若い父の腕が、黒い外套を着た小さな老人を、抱いた。
外套ごと、すっぽりと。
子は父の胸に顔をうずめた。外套の背が、震えていた。しゃくりあげる声が、白の中に響いた。
ふたりとも、泣いていた。
息子の前で、親父が、泣いていた。
父の目が一度だけ、こちらを見た。濡れたまま。
「……そうか」
それきりだった。目はすぐに、腕の中の子へ戻った。
若い手が外套の背を、とん、とん、と叩いた。不器用な手つきだった。
父は泣きながら、目を閉じた。
唇から、節がこぼれた。言葉は、のっていなかった。ねんね、と始まる、あの唄の節だった。
やがて、小さいほうの泣き声が細くなった。しゃくりあげる息が間遠になって、寝息に、変わった。
父は、まだ泣いていた。眠った子を、抱いたまま。節を、なぞったまま。
あたたかかった白が、少しずつ冷えていく。
父が、目を開けた。
眠った子を外套ごと、こちらへ差しだした。
レオニスは、両の腕で受けとった。軽かった。
父の手が外套の背に、ひと息ぶん、とどまった。とん、と一度だけ、叩いた。
それから、指の先から、ほどけていった。冷たい水になって。
まぶたの裏が、熱かった。
レオニスは、背を向けなかった。最後まで、見ていた。
冷たいしずくが、頬に落ちた。
◆
三百年、子を離さなかった白が、溶けた。
地の底の神殿では、黒硝子の丸天井の、星のあいだから、雨が降りはじめた。
同じ刻、国じゅうに、雨が降った。
三百年前、ひとつの祭壇から昇った白が、国じゅうを覆った。その白が届いたところまで、雨は降った。
新月の空だった。雲は、ひとつもなかった。星だけの空から、冷たい雨がまっすぐに落ちてきた。
王都では、戸口の柱から、窓の木枠から、白墨の名前が流れていった。
一文字ずつにじんで、細い白い筋になって、石畳へ。
流れていく名前を、声に出して読む者がいた。坂の途中では、年寄りの男が戸口の柱に額をつけたまま、名をひとつ呼んでいた。
坂の上の陽だまりの家では、梁の名前だけが、濡れずに残っていた。
伯爵家の窓辺では、エルナが、窓に書いた兄の名が流れていくのを、子供たちを膝に抱いて見ていた。唇が、その名をひと文字ずつなぞっていた。
粉屋の裏の物置では、兄と妹がひとつの毛布にくるまって、雨の音を聞いていた。今度は、兄のほうが先に泣いた。
大聖堂の前の広場では、若い母親がパン屋の紙の包みを胸に抱えたまま、雨の中にしゃがみこんでいた。
川沿いのパン屋の、表の窓は、開いたままだった。
奥の食堂の卓には、丸パンが五つ並んでいた。教皇が大聖堂へ移ってからも、親父は毎朝、五つ焼いた。誰も手をつけないまま、冷えていた。
吹きこむ雨が、表の窓の木枠を濡らしていく。震える線で書いた母の名がにじんで、流れていくのを、ユナは窓の内側から見ていた。
焼き場の戸口に、親父が立っていた。
「二十年前に、な」
ユナが振り返った。
「叱ったんだ。……くだらねえことで」
親父は窓のほうを見ていた。
「その晩、窓を、閉めて寝た。朝になったら、いなかった。……それきりだ」
雨の音が、した。
「浄めてもらえって、何べんも、言われた。忘れたら、あいつが、二度、いなくなる」
それから、名をひとつ、言った。
ユナの、聞いたことのない名だった。
親父の顔が、くしゃりと歪んだ。粉だらけの太い指で、目もとを覆った。覆いきれなかった。
ユナは、前掛けの背中に手を当てた。
「うちの窓は、閉めないよ」
親父は、うなずいた。何度も、うなずいた。
窓は、開いたままだった。
峠の下の谷では、墓の列が雨に濡れていた。
北の祠では、台座の裏の指の形にすり減ったくぼみに、雨が溜まっていった。
くぼみは、すぐにいっぱいになった。あふれて、台座の石を伝って落ちた。
鉱山の小屋では、ボルグが寝台に腰かけて、雨の音を聞いていた。
片方だけの手に、魚みたいな木剣を握っていた。
谷の雨と、同じ音だった。
「……また、兄ちゃんか」
答える者は、いなかった。ボルグは木剣を握りなおした。
聖都の書庫では、書庫番が蝋燭を灯していた。
卓の上に、三百年前の書が開いたままになっていた。
窓を、雨が叩いていた。窓の外の空には、星が見えていた。書庫番は長いこと、それを見上げていた。
それから、書の一行を指でなぞった。
――開祖の子、白陽の間に入りて、父の光を守る。以後、出でず。
その下は、三百年、白いままだった。
ペンをインク壺に浸した。
その下に、一行、書き足した。
――いちばん暗き夜、白陽、雨となりて、地の果てまで降れり。
インクが乾くまで、書庫番は雨の音を聞いていた。
その夜、国じゅうで、雨が降った。
泣く者がいた。泣かない者もいた。
雨の音を聞きながら、眠ってしまう者もいた。
◆
雨が、降っていた。
地の底に。黒硝子の丸天井の、星のあいだから。
降りだす前に、白陽の奥から泣き声が聞こえていた。ふたつ。ひとつは、子供のような声だった。もうひとつは、大人の男の声だった。子供のような声が、先に止んだ。それから、雨が降りはじめた。
髪が頬に張りついていた。罪状帳は胸に抱えこんで、頁を手のひらで覆っていた。
胸もとの聖印は、もう熱くなかった。雨に打たれて、ただ冷たかった。
女神の胸で、火がまっすぐに燃えていた。雨に打たれても、消えなかった。
声は、とうにかすれていた。
白の中へ歩み入っていく背中を見送ってすぐ、罪状帳を開いた。一頁目の、一行目から。声がふるえないように、騎士の声で読んだ。
最後の頁の、最後の行まで読んだ。屋根裏の寝床に、帰ってきた。そこで、終わっていた。一頁目に戻って、また読んだ。何度そうしたのか、もう、わからない。夏至の夜の行に来るたびに、声がふるえた。
待たない、と言った。
待っては、いなかった。読んでいた。
隣で、ヘルミとシエルが唄っていた。三行目まで。四行目は、白の奥から聞こえてきた。下手な唄だった。
白陽のあったところに、白い霧がほどけていく。
雨に打たれて、薄く、薄く。
唄が、止んだ。
読むのは、やめなかった。
霧の中から人影が出てきた。
レオニスだった。
腕に猊下を抱えていた。黒い外套ごと。
猊下は、眠っていらした。膝を胸のほうへ寄せて。頬に、涙のすじがいくつも残っていた。
レオニスの頬も、濡れていた。
雨なのか、そうでないのか、わからなかった。
泣いているんですか、とは訊かなかった。
シエルが、駆けだした。レオニスの脚にしがみついた。ヘルミはその場に立ったまま、両手で口もとを押さえていた。
レオニスの目が、こちらを向いた。
「……うるせえ。全部、読むな」
レオニスの声も、ひどくかすれていた。
口を、開いた。
言葉のかわりに、目から落ちた。
ひと粒。それから、続けて。
罪状帳を胸に抱えた。顔の前には、上げなかった。
「……見ないで、ください」
レオニスは、背を向けなかった。
「……見てる」
雨の音が、した。
見られていた。泣いている顔を、まっすぐに。
隠そうとは、思わなかった。
庇の上の、白い夜を思った。背中と背中が、触れていた。あのとき、この人はこちらを見なかった。
「……ずるいです」
レオニスは、少しだけ口の端を上げた。
「……腹、減った」
◆
レオニスが、猊下をこちらへ差しだした。
「……ほらよ。見届けろ」
アルバンは、両の腕で受けとった。
思っていたより、重かった。眠っている人の、重さだった。
務めは、夏に終わっていた。それでも、見届けろ、と言われた。
濡れた石の床に座った。膝の上に猊下を抱いた。
戸口の外では、なかった。
懐の白い革の帳面が、軽かった。
猊下の寝息が、膝にあたたかかった。濡れたまつげが、ときどき震えた。
扉のほうで、重い足音がふたつ、した。
ゴドフロワが段を下りてきた。そのうしろから、ガルドが首をすくめて扉をくぐった。
「上は」
レオニスが、訊いた。
「泣いてる。騎士どもも、槍を放りだしてな」
ガルドは、自分の袖をつまんでみせた。
「ひとり、俺の袖で、鼻をかみやがった」
それから、天井を見上げて雨に顔をしかめた。レオニスの顔を見た。
「濡れてんな」
「雨だ」
「おう。雨だな」
ガルドは扉の内側の床に、どかりと腰を下ろした。膝の上の猊下に目をやった。
「……寝てやがる」
それきり、鼻をすすった。
レオニスも、濡れた床に仰向けに寝転がった。
ミレイアが、言った。
「濡れます」
「もう、濡れてる」
ミレイアは少し考えてから、その隣に腰を下ろした。
ゴドフロワは、祭壇の前までまっすぐに歩いた。
祭壇の前に、侍祭長さまが膝をついていらした。
手袋を、外していらした。焼けた両の手を、胸の前で上に向けて。古い痕の上に、雨が溜まっていた。
ゴドフロワは、その隣に腰を下ろした。黙っていた。白い髭の先から、雨がぽたぽたと落ちていた。
ヘルミがふたりの前に立った。
こちらからは、背中しか見えなかった。
「……私も、たくさんの人を、覆いました」
落ちついた声だった。
許す、とは言わなかった。
侍祭長さまが、顔をお上げになった。
「……ヘルミ、さま」
その名をお呼びになるのを、アルバンは初めて聞いた。
ヘルミの声が、答えた。
「はい」
侍祭長さまの頬を、雨が伝っていた。泣いていらっしゃるのかどうかは、雨でわからなかった。
ヘルミは、ふたりの前に膝をついた。それきり、三人とも黙って、雨に打たれていた。
シエルが隣に来て、しゃがんだ。猊下の額に張りついた髪を、指でそっとよけた。
天井を、見上げた。
黒硝子に、星が灯っていた。ふた筋の亀裂の、あいだにも。
その中にひとつ、さっきまでなかった星があった。
小さな星だった。小さすぎて、何色なのかは、わからなかった。
明かりは、女神の胸の火だけだった。
ランタンは、聖都の書庫に置いてきた。
暗いのは、好きではない。
膝の上で、猊下の指がアルバンの指を握っていらした。眠ったまま。
アルバンは、その手をほどかなかった。
雨が、降っていた。
その子は、泣き疲れて、眠っていた。




