エピローグ おはよう
猊下は、まだ眠っていらした。
ミレイアは、戸口で足を止めた。何度上がってきても、ここでつい、息をひそめてしまう。
陽だまりの家の、二階だった。いちばん小さな女の子の寝台の隣に、寝台をもうひとつ入れてある。窓のそばのその寝台で、猊下は黒い外套を肩までかけて、横になっていらした。膝を胸のほうへ寄せて。
新月の晩から、十一日になる。
そのあいだ、一度も目をお開けにならなかった。
地の底から上がったのは、夜明けだった。
大聖堂の身廊は、静かだった。長椅子で眠っている人がいた。泣いている人もいた。祭壇の脇に、新しい司教がひとりで立っていた。口は、ひらかなかった。開け放した扉の向こうで、雨が上がっていた。空が、白みはじめていた。白陽の白では、なかった。
アルバンが猊下を背負って、坂を上った。この家の、この寝台まで。
ヘルミは寝台の脇に膝をついて、長いこと寝顔を見ていた。それから、ひと言だけ言った。
「三百年ぶんの、眠りですから」
急かしては、いけないのだという。
寝台の脇の椅子に、アルバンが座っていた。
戸口の外ではなく、寝台に手の届くところに、椅子をひとつ。十一日、そこからほとんど動いていない。食事はシエルが運んでいく。
膝の上に白い革の帳面が開いてあった。
そばへ寄って覗きこむと、同じ字が並んでいた。
――猊下、眠る。
――猊下、眠る。
――猊下、眠る。寝返り、一度。
「十一行、同じですね」
「記録ですので」
アルバンは、平らな声で答えた。
そのうちの一行だけが、少し長かった。
――猊下、眠る。寝言、ひとこと。
「なんと、仰ったのですか」
アルバンは、帳面から目を上げなかった。
「記録しておりません」
耳が、赤くなっていた。
ミレイアはそれ以上、訊かなかった。
子供たちは代わるがわる、寝台を覗きに上がってくる。まだ、ねてる、と言っては、つまらなそうに下りていく。いちばん小さな女の子だけは、隣の寝台からずっと動かなかった。
ときどき、眠ったまま猊下の唇が動く。節をなぞっていらっしゃるのだと思う。言葉は、のっていない。
窓の外では、冬の陽がもう傾きかけていた。今日は、冬至だった。一年でいちばん、昼が短い。
三日前の夜明けに、侍祭長が北へ発った。
発つ前の晩、侍祭長はこの部屋に上がってきた。寝台の枕もとに、膝をついた。手袋は、していなかった。焼けた両の手を、膝の上で組んでいた。
ひと言も、口をきかなかった。
長いこと、猊下の寝顔を見ていた。
二十五年、いちばん近くにいて、猊下が一度もご覧にならなかった顔だった。いまは、その顔が猊下の寝顔を見ていた。
あくる朝、坂の下に、ゴドフロワの古びた箱馬車が待っていた。
侍祭長は箱の扉に手をかけた。
御者台のゴドフロワが、前を見たまま言った。
「隣だ」
侍祭長はしばらく、扉に手をかけたまま立っていた。それから、御者台に上がってゴドフロワの隣に腰を下ろした。白い髭の大男と、手袋をしていない男。御者台は、少し狭そうだった。
北の谷で、毎朝、墓に水をやるのだという。
坂の下で、ヘルミがふたりを見送った。ミレイアはその少しうしろに立っていた。
ゴドフロワが、手綱を取った。
手綱を握ったまま、動かなかった。
白い髭が、震えていた。灰色の目から、涙が落ちた。ひと粒落ちると、止まらなかった。大きな肩が、揺れた。御者台の上で、ゴドフロワは声を殺して、泣いた。涙を、拭おうともしなかった。
ヘルミは、目を逸らさなかった。
片手を、上げた。
振った。箱馬車が坂の下の角を曲がって、見えなくなるまで。
侍祭長は一度だけ振り返って、頭を下げた。それからは、前だけを見ていた。
角の向こうへ車輪の音が遠ざかっていった。
ヘルミは、手を下ろした。目のふちが、赤くなっていた。
「団長さまが泣くところを、初めて、見ました」
ヘルミは春まで、陽だまりの家に残る。子供たちにシチューを作るのだという。
イルザの裁きは、その四日前にあった。
王家の裁きだった。白い髭の判事は、もうにこにこしてはいなかった。
黒狼の里で、子供たちの世話を続けること。鎖の村とミルテに、麦を納めること。
イルザは、枷の外れた手首をさすっていた。それから、判事のほうを見ずに言った。
「ああ。納めるよ」
あくる日、ガルドが荷馬車の御者台で、黒狼の里まで送っていった。荷台のイルザは、坂のほうを一度も見なかった。
ガルドだけが、御者台から振り返った。
「ガキどもを、頼む」
庇の上で、寝転んだままの片手が、ひらりと上がった。
ガルドは、まだ戻ってこない。
教会は、降陽の儀のことをまだ何も言ってこない。新しい司教も、何も言わない。白い衣の侍祭たちは、儀から三日して聖都へ戻っていった。
きのう、聖都の書庫番からアルバンに、短い文が届いた。
――白陽の間は、まっくらでございます。
――聖都にも、夜が参り、朝が参ります。
――書に、一行、書き足しました。
何と書いたのかは、書いてなかった。
教会が何と言ってくるかは、まだ、わからない。
ミレイアは籠を腕にかけて、階段を下りた。今朝の丸パンの籠を返しにいくのだった。
王都には、夜が戻っていた。
日が暮れると、空がちゃんと、暗くなる。星が出る。晩ごとに、坂のどこかで子供が泣いて、やがて泣きやんで、眠る。陽だまりの家の子供たちも、晩になると、ちゃんとあくびをする。
坂の途中で戸口の柱を見上げた。
白墨の名前は、あの晩の雨に流れてしまった。
それでも、書きなおした戸口が坂にいくつかあった。
年寄りの戸口の柱にも、白い字がひとつ、戻っていた。白陽の下で柱に額をつけて、動かなかった人だった。
年寄りは戸口に立って、その字を指でなぞっていた。
「読まんでも、覚えとるよ」
ミレイアのほうは、見なかった。
「見ていたいだけさ」
坂の下のパン屋の、表の窓は、開いたままだった。窓の木枠に、ユナの字がまた並んでいた。前より線が震えていなかった。
毎朝、ユナが丸パンを五つ籠に入れて、坂を上がってくる。親父が焼いておくのだという。猊下のぶんは窓辺に置いておいて、夕方、シエルが子供たちと、はんぶんこにする。
焼き場の奥から親父が顔を出した。
「起きたか」
「まだです」
親父は太い眉を片方だけ上げた。
「起きたら、焼きたてを持ってけ」
それだけ言って、奥へ引っこんだ。
店先で若い母親が紙の包みを受けとっていた。聖都から戻った、あの人だった。
ユナが小さな丸パンをふたつ包んでいた。
ミレイアは、何も訊かなかった。
母親は包みを胸に抱えて、坂を下りていった。
空の裾が、茜に染まっていた。茜が少しずつ、藍に溶けていく。
日が、暮れた。
ちゃんと。
冬至の晩だった。
台所の卓で、蝋燭が一本、燃えていた。竈の前で、ヘルミがあしたのぶんの玉ねぎを炒めていた。ときどき鍋を覗きこんでは、首をかしげている。炭の手前がどこなのか、まだよくわからないのだという。
ミレイアは、罪状帳を開いた。
今日の頁のいちばん上に、ふたつの名前が並んでいる。今朝、書いたものだった。
他人の字のようには、もう見えなかった。
白陽が去ってからも、毎朝書いている。忘れないためでは、もう、なかった。
その下に、ペン先を下ろした。
――世界を救った件(四度目)については、保留とする。
しばらく、その一行を見ていた。
地の底の雨を、思った。霧の中から出てきた人の、濡れた頬を。背を向けなかった人を。
少し、迷った。
それから、もう一行、書き足した。
――罪状、追加:じっと、見ていた。
線は、引かなかった。
頬が、少し熱かった。竈の火のせいだと、思うことにした。
竈の前で、ヘルミが小さく声を上げた。
木べらを持ったまま、鍋を覗きこんでいた。
「……手前、でした」
◆
冬至の夕方だった。
いちばん長い夜が、始まろうとしていた。
陽だまりの家の、庇の上。レオニスは毛布にくるまって、刃のない鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。
外套は、ない。爺さんに貸したままだ。そのうち、返せ、とは言った。返しに起きてくる気配は、まだなかった。
東の空の高いところに、月が出ていた。ふくらみかけた、明るい月だった。星は、まだ薄い。
坂の下の家々の窓に、灯りがひとつ、またひとつ、灯っていく。川の音がした。どこかで、子供が泣いていた。しばらくして、泣き声はやんだ。
坂の下から、足音が上がってきた。
栗色のおさげが、揺れていた。腕に布の包みを抱えている。仕立て屋の、使いの帰りらしかった。
リラは庇の下で足を止めた。毛布の塊を、見上げた。
「レオニスさん?」
「おう」
「外套は?」
「……貸してる」
リラの目が、丸くなった。
「今度は、誰に!?」
坂じゅうに、声が響いた。
レオニスは白い息を吐いた。
「……教皇」
「……は?」
リラは口を開けたまま、しばらく庇を見上げていた。
「教皇って、あの」
「ほかに、いんのか」
「いない、けど。……なんで?」
「寒そうだったから」
リラは二階の窓を見上げた。紺の窓掛けに、白い糸の星が刺してある。
「あの窓掛け、まだ、使ってるんだ」
「毎晩な」
リラは毛布の塊を上から下まで眺めた。それから、何か考えるような顔をして、坂を上っていった。首を何度も、ひねりながら。
頭の上の窓が、開いた。
シエルが窓枠をまたいで、庇へ出てきた。毛布の端を、少しだけ持ちあげる。レオニスは黙って、半分空けてやった。
シエルは隣にもぐりこんだ。膝を抱えて、しばらく月を見ていた。
「あのこ、まいばん、あけてるよ」
「何を」
「まどかけ。おじいちゃんの、となりで。てのひら、ひとつぶん」
秋に、すり切れかけた紐を麻紐で結びなおしてやった。
「……毎晩でもな、って、言っちまったからな」
シエルは、くすりと笑った。
それから、少し黙った。
「……レオにいちゃん。わたしも、なりたい。よるの、ひと」
レオニスは月を見たまま、すぐには答えなかった。
地の底で、崩れていく夜の下に黙って差し入れられた、小さな両手を思った。白陽の下で、子供たちのまぶたにかざして回っていた手を。
「……決めるのは、お前だ」
シエルは膝の上で、両手を、丸めた。指のすきまを、ぴたりと閉じて。
手のひらの中が、少しだけ暗かった。
「……うん。きめた」
それきり、シエルは毛布からもぞもぞと抜けだした。窓枠をまたいで、部屋の中へ戻っていった。
レオニスは、毛布の中で腕を組んだ。
まだ、腕に残っていた。
白の中で受けとった、眠った爺さんの軽さ。外套の背を、一度だけ叩いていった、若い手。
爺さんの親父の、泣き顔も。
師匠の泣き顔は、一度も見なかった。泣いたことは、手紙に書いてあった。
窓が、また開いた。
今度は、銀色の髪だった。ミレイアが窓枠から、半分だけ身を乗りだした。腕に、毛布をもう一枚、抱えていた。
「冷えますので」
毛布が、上から降ってきた。顔に、かぶさった。
「……投げんなよ」
「投げていません。落としました」
レオニスは毛布を顔からどけた。
ミレイアは窓枠に肘をついて、こちらを見下ろしていた。
「罪状帳に、書きました」
「……何を」
「秘密です」
「罪状かよ、それ」
「罪状です」
それだけ言って、ミレイアは、窓を閉めた。
レオニスは、閉まった窓をしばらく見上げていた。
地の底で、自分が何と言ったのかを、思い出した。
毛布を二枚とも、頭まで引きあげた。
いつのまにか、うとうとしていた。
目を開けると、月が西の屋根の向こうへ、沈んだところだった。
空いっぱいに、星が灯っていた。
頭の上で、かすかに音がした。
窓掛けの紐を、引く音だった。
窓掛けが、手のひらひとつぶんだけ、開いた。
隙間に、小さな顔が、のぞいた。いちばん小さな女の子だった。まるい目が、星を見上げていた。
それから、部屋の奥を振り返った。
寝台のほうを。
「……ほし、あるね」
息のような、小さな声だった。
答える声は、なかった。寝息がひとつ、聞こえるだけだった。
レオニスは星を見上げたまま、口の中で言った。
「ああ。あるな」
女の子には、聞こえなかったのだろう。小さな顔は、また窓の外の空に戻った。
窓掛けは、手のひらひとつぶん、開いたままだった。
いちばん長い夜は、まだ明けていなかった。
◆
目を開けると、光が、あった。
窓掛けの、手のひらひとつぶんの隙間から、細い光が床に落ちていた。白くは、なかった。冬の朝の、淡い金色だった。
アルバンは、椅子の上で身じろぎした。
眠っていた。
いつ眠ったのか、覚えていない。眠りは、いつも浅かった。路地の暗がりで、物音ひとつで目を覚ましていたころから、ずっと。
ゆうべ、窓掛けの紐が鳴るのを、聞いた気がする。女の子の、小さな声も。庇の上で、誰かが何か言ったのも。
そこから先を、覚えていなかった。
膝の上に白い革の帳面が開いたままだった。ペンが、頁の上に転がっていた。
――猊下、眠る。
ゆうべ、そこまで書いて、眠ってしまったらしい。
寝台のほうで、衣ずれの音がした。
「……朝、か」
猊下が、目を開けていらした。
黒い外套を、顎のところまで引きあげて。窓掛けの隙間の光を、ご覧になっていた。
アルバンは、立ちあがろうとした。
足が、しびれていた。
椅子が、傾いた。
かろうじて、寝台の端に手をついた。
猊下はその一部始終を、めずらしい鳥でも眺めるように、ご覧になっていた。
アルバンは、背筋を伸ばした。
「おはようございます」
猊下は少しのあいだ、何もお答えにならなかった。
それから、仰った。
「……おはよう、と、言うのだったな」
街道の宿でも、パン屋の奥でも、王都の坂でも、誰かが誰かに、朝ごとにそう言うのを、猊下は聞いていらした。
ご自分で仰るのは、初めてだった。
「はい」
猊下の目が、こちらへ向いた。
「……おはよう、アルバン」
白い野で、名を忘れられた朝があった。何度でも、名乗ろう、と思った。
もう、名乗らなくても、よかった。
喉の奥に、何かがつかえた。窓掛けの隙間の光が、少しにじんだ。
猊下の頭のてっぺんで、髪がひと房、はねていた。
寝癖だった。十一日ぶんの。
猊下はアルバンの頭のほうへ目をお上げになった。
「……揃いだな」
アルバンは、自分の頭に手をやった。
椅子の背にもたれて眠っていたほうの髪が、ひと房立っていた。押さえても、手をどけると、また立った。
ぐう、と腹の虫が、鳴いた。
猊下がご自分のお腹を見下ろされた。
「鳴いた」
「はい。鳴きました」
猊下は、少し考えていらした。
「……腹、減った」
どこで覚えていらしたのかは、訊くまでもなかった。
窓の外の庇の上で、誰かが噴き出した。
猊下は窓掛けの隙間のほうへお顔を向けられた。
「……おはよう」
庇の上で、少し間があった。
「……おう」
階下から、匂いが上がってきた。
焦がした、玉ねぎの匂いだった。
それが、三百年眠らなかった子の、最初の朝だった。




