↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の闇司祭④ 黒夜の教皇  作者: parupuntist


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/9

エピローグ おはよう

 猊下は、まだ眠っていらした。


 ミレイアは、戸口で足を止めた。何度上がってきても、ここでつい、息をひそめてしまう。


 陽だまりの家の、二階だった。いちばん小さな女の子の寝台の隣に、寝台をもうひとつ入れてある。窓のそばのその寝台で、猊下は黒い外套を肩までかけて、横になっていらした。膝を胸のほうへ寄せて。


 新月の晩から、十一日になる。


 そのあいだ、一度も目をお開けにならなかった。


 地の底から上がったのは、夜明けだった。


 大聖堂の身廊は、静かだった。長椅子で眠っている人がいた。泣いている人もいた。祭壇の脇に、新しい司教がひとりで立っていた。口は、ひらかなかった。開け放した扉の向こうで、雨が上がっていた。空が、白みはじめていた。白陽の白では、なかった。


 アルバンが猊下を背負って、坂を上った。この家の、この寝台まで。


 ヘルミは寝台の脇に膝をついて、長いこと寝顔を見ていた。それから、ひと言だけ言った。


「三百年ぶんの、眠りですから」


 急かしては、いけないのだという。


 寝台の脇の椅子に、アルバンが座っていた。


 戸口の外ではなく、寝台に手の届くところに、椅子をひとつ。十一日、そこからほとんど動いていない。食事はシエルが運んでいく。


 膝の上に白い革の帳面が開いてあった。


 そばへ寄って覗きこむと、同じ字が並んでいた。


 ――猊下、眠る。


 ――猊下、眠る。


 ――猊下、眠る。寝返り、一度。


「十一行、同じですね」


「記録ですので」


 アルバンは、平らな声で答えた。


 そのうちの一行だけが、少し長かった。


 ――猊下、眠る。寝言、ひとこと。


「なんと、仰ったのですか」


 アルバンは、帳面から目を上げなかった。


「記録しておりません」


 耳が、赤くなっていた。


 ミレイアはそれ以上、訊かなかった。


 子供たちは代わるがわる、寝台を覗きに上がってくる。まだ、ねてる、と言っては、つまらなそうに下りていく。いちばん小さな女の子だけは、隣の寝台からずっと動かなかった。


 ときどき、眠ったまま猊下の唇が動く。節をなぞっていらっしゃるのだと思う。言葉は、のっていない。


 窓の外では、冬の陽がもう傾きかけていた。今日は、冬至だった。一年でいちばん、昼が短い。


 三日前の夜明けに、侍祭長が北へ発った。


 発つ前の晩、侍祭長はこの部屋に上がってきた。寝台の枕もとに、膝をついた。手袋は、していなかった。焼けた両の手を、膝の上で組んでいた。


 ひと言も、口をきかなかった。


 長いこと、猊下の寝顔を見ていた。


 二十五年、いちばん近くにいて、猊下が一度もご覧にならなかった顔だった。いまは、その顔が猊下の寝顔を見ていた。


 あくる朝、坂の下に、ゴドフロワの古びた箱馬車が待っていた。


 侍祭長は箱の扉に手をかけた。


 御者台のゴドフロワが、前を見たまま言った。


「隣だ」


 侍祭長はしばらく、扉に手をかけたまま立っていた。それから、御者台に上がってゴドフロワの隣に腰を下ろした。白い髭の大男と、手袋をしていない男。御者台は、少し狭そうだった。


 北の谷で、毎朝、墓に水をやるのだという。


 坂の下で、ヘルミがふたりを見送った。ミレイアはその少しうしろに立っていた。


 ゴドフロワが、手綱を取った。


 手綱を握ったまま、動かなかった。


 白い髭が、震えていた。灰色の目から、涙が落ちた。ひと粒落ちると、止まらなかった。大きな肩が、揺れた。御者台の上で、ゴドフロワは声を殺して、泣いた。涙を、拭おうともしなかった。


 ヘルミは、目を逸らさなかった。


 片手を、上げた。


 振った。箱馬車が坂の下の角を曲がって、見えなくなるまで。


 侍祭長は一度だけ振り返って、頭を下げた。それからは、前だけを見ていた。


 角の向こうへ車輪の音が遠ざかっていった。


 ヘルミは、手を下ろした。目のふちが、赤くなっていた。


「団長さまが泣くところを、初めて、見ました」


 ヘルミは春まで、陽だまりの家に残る。子供たちにシチューを作るのだという。


 イルザの裁きは、その四日前にあった。


 王家の裁きだった。白い髭の判事は、もうにこにこしてはいなかった。


 黒狼(こくろう)の里で、子供たちの世話を続けること。鎖の村とミルテに、麦を納めること。


 イルザは、枷(かせ)の外れた手首をさすっていた。それから、判事のほうを見ずに言った。


「ああ。納めるよ」


 あくる日、ガルドが荷馬車の御者台で、黒狼の里まで送っていった。荷台のイルザは、坂のほうを一度も見なかった。


 ガルドだけが、御者台から振り返った。


「ガキどもを、頼む」


 庇の上で、寝転んだままの片手が、ひらりと上がった。


 ガルドは、まだ戻ってこない。


 教会は、降陽の儀のことをまだ何も言ってこない。新しい司教も、何も言わない。白い衣の侍祭たちは、儀から三日して聖都へ戻っていった。


 きのう、聖都の書庫番からアルバンに、短い文が届いた。


 ――白陽の間は、まっくらでございます。


 ――聖都にも、夜が参り、朝が参ります。


 ――書に、一行、書き足しました。


 何と書いたのかは、書いてなかった。


 教会が何と言ってくるかは、まだ、わからない。


 ミレイアは籠を腕にかけて、階段を下りた。今朝の丸パンの籠を返しにいくのだった。


 王都には、夜が戻っていた。


 日が暮れると、空がちゃんと、暗くなる。星が出る。晩ごとに、坂のどこかで子供が泣いて、やがて泣きやんで、眠る。陽だまりの家の子供たちも、晩になると、ちゃんとあくびをする。


 坂の途中で戸口の柱を見上げた。


 白墨の名前は、あの晩の雨に流れてしまった。


 それでも、書きなおした戸口が坂にいくつかあった。


 年寄りの戸口の柱にも、白い字がひとつ、戻っていた。白陽の下で柱に額をつけて、動かなかった人だった。


 年寄りは戸口に立って、その字を指でなぞっていた。


「読まんでも、覚えとるよ」


 ミレイアのほうは、見なかった。


「見ていたいだけさ」


 坂の下のパン屋の、表の窓は、開いたままだった。窓の木枠に、ユナの字がまた並んでいた。前より線が震えていなかった。


 毎朝、ユナが丸パンを五つ籠に入れて、坂を上がってくる。親父が焼いておくのだという。猊下のぶんは窓辺に置いておいて、夕方、シエルが子供たちと、はんぶんこにする。


 焼き場の奥から親父が顔を出した。


「起きたか」


「まだです」


 親父は太い眉を片方だけ上げた。


「起きたら、焼きたてを持ってけ」


 それだけ言って、奥へ引っこんだ。


 店先で若い母親が紙の包みを受けとっていた。聖都から戻った、あの人だった。


 ユナが小さな丸パンをふたつ包んでいた。


 ミレイアは、何も訊かなかった。


 母親は包みを胸に抱えて、坂を下りていった。


 空の裾が、茜(あかね)に染まっていた。茜が少しずつ、藍に溶けていく。


 日が、暮れた。


 ちゃんと。


 冬至の晩だった。


 台所の卓で、蝋燭が一本、燃えていた。竈(かまど)の前で、ヘルミがあしたのぶんの玉ねぎを炒めていた。ときどき鍋を覗きこんでは、首をかしげている。炭の手前がどこなのか、まだよくわからないのだという。


 ミレイアは、罪状帳を開いた。


 今日の頁のいちばん上に、ふたつの名前が並んでいる。今朝、書いたものだった。


 他人の字のようには、もう見えなかった。


 白陽が去ってからも、毎朝書いている。忘れないためでは、もう、なかった。


 その下に、ペン先を下ろした。


 ――世界を救った件(四度目)については、保留とする。


 しばらく、その一行を見ていた。


 地の底の雨を、思った。霧の中から出てきた人の、濡れた頬を。背を向けなかった人を。


 少し、迷った。


 それから、もう一行、書き足した。


 ――罪状、追加:じっと、見ていた。


 線は、引かなかった。


 頬が、少し熱かった。竈の火のせいだと、思うことにした。


 竈の前で、ヘルミが小さく声を上げた。


 木べらを持ったまま、鍋を覗きこんでいた。


「……手前、でした」


◆


 冬至の夕方だった。


 いちばん長い夜が、始まろうとしていた。


 陽だまりの家の、庇の上。レオニスは毛布にくるまって、刃のない鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。


 外套は、ない。爺さんに貸したままだ。そのうち、返せ、とは言った。返しに起きてくる気配は、まだなかった。


 東の空の高いところに、月が出ていた。ふくらみかけた、明るい月だった。星は、まだ薄い。


 坂の下の家々の窓に、灯りがひとつ、またひとつ、灯っていく。川の音がした。どこかで、子供が泣いていた。しばらくして、泣き声はやんだ。


 坂の下から、足音が上がってきた。


 栗色のおさげが、揺れていた。腕に布の包みを抱えている。仕立て屋の、使いの帰りらしかった。


 リラは庇の下で足を止めた。毛布の塊を、見上げた。


「レオニスさん?」


「おう」


「外套は?」


「……貸してる」


 リラの目が、丸くなった。


「今度は、誰に!?」


 坂じゅうに、声が響いた。


 レオニスは白い息を吐いた。


「……教皇」


「……は?」


 リラは口を開けたまま、しばらく庇を見上げていた。


「教皇って、あの」


「ほかに、いんのか」


「いない、けど。……なんで?」


「寒そうだったから」


 リラは二階の窓を見上げた。紺の窓掛けに、白い糸の星が刺してある。


「あの窓掛け、まだ、使ってるんだ」


「毎晩な」


 リラは毛布の塊を上から下まで眺めた。それから、何か考えるような顔をして、坂を上っていった。首を何度も、ひねりながら。


 頭の上の窓が、開いた。


 シエルが窓枠をまたいで、庇へ出てきた。毛布の端を、少しだけ持ちあげる。レオニスは黙って、半分空けてやった。


 シエルは隣にもぐりこんだ。膝を抱えて、しばらく月を見ていた。


「あのこ、まいばん、あけてるよ」


「何を」


「まどかけ。おじいちゃんの、となりで。てのひら、ひとつぶん」


 秋に、すり切れかけた紐を麻紐で結びなおしてやった。


「……毎晩でもな、って、言っちまったからな」


 シエルは、くすりと笑った。


 それから、少し黙った。


「……レオにいちゃん。わたしも、なりたい。よるの、ひと」


 レオニスは月を見たまま、すぐには答えなかった。


 地の底で、崩れていく夜の下に黙って差し入れられた、小さな両手を思った。白陽の下で、子供たちのまぶたにかざして回っていた手を。


「……決めるのは、お前だ」


 シエルは膝の上で、両手を、丸めた。指のすきまを、ぴたりと閉じて。


 手のひらの中が、少しだけ暗かった。


「……うん。きめた」


 それきり、シエルは毛布からもぞもぞと抜けだした。窓枠をまたいで、部屋の中へ戻っていった。


 レオニスは、毛布の中で腕を組んだ。


 まだ、腕に残っていた。


 白の中で受けとった、眠った爺さんの軽さ。外套の背を、一度だけ叩いていった、若い手。


 爺さんの親父の、泣き顔も。


 師匠の泣き顔は、一度も見なかった。泣いたことは、手紙に書いてあった。


 窓が、また開いた。


 今度は、銀色の髪だった。ミレイアが窓枠から、半分だけ身を乗りだした。腕に、毛布をもう一枚、抱えていた。


「冷えますので」


 毛布が、上から降ってきた。顔に、かぶさった。


「……投げんなよ」


「投げていません。落としました」


 レオニスは毛布を顔からどけた。


 ミレイアは窓枠に肘をついて、こちらを見下ろしていた。


「罪状帳に、書きました」


「……何を」


「秘密です」


「罪状かよ、それ」


「罪状です」


 それだけ言って、ミレイアは、窓を閉めた。


 レオニスは、閉まった窓をしばらく見上げていた。


 地の底で、自分が何と言ったのかを、思い出した。


 毛布を二枚とも、頭まで引きあげた。


 いつのまにか、うとうとしていた。


 目を開けると、月が西の屋根の向こうへ、沈んだところだった。


 空いっぱいに、星が灯っていた。


 頭の上で、かすかに音がした。


 窓掛けの紐を、引く音だった。


 窓掛けが、手のひらひとつぶんだけ、開いた。


 隙間に、小さな顔が、のぞいた。いちばん小さな女の子だった。まるい目が、星を見上げていた。


 それから、部屋の奥を振り返った。


 寝台のほうを。


「……ほし、あるね」


 息のような、小さな声だった。


 答える声は、なかった。寝息がひとつ、聞こえるだけだった。


 レオニスは星を見上げたまま、口の中で言った。


「ああ。あるな」


 女の子には、聞こえなかったのだろう。小さな顔は、また窓の外の空に戻った。


 窓掛けは、手のひらひとつぶん、開いたままだった。


 いちばん長い夜は、まだ明けていなかった。


◆


 目を開けると、光が、あった。


 窓掛けの、手のひらひとつぶんの隙間から、細い光が床に落ちていた。白くは、なかった。冬の朝の、淡い金色だった。


 アルバンは、椅子の上で身じろぎした。


 眠っていた。


 いつ眠ったのか、覚えていない。眠りは、いつも浅かった。路地の暗がりで、物音ひとつで目を覚ましていたころから、ずっと。


 ゆうべ、窓掛けの紐が鳴るのを、聞いた気がする。女の子の、小さな声も。庇の上で、誰かが何か言ったのも。


 そこから先を、覚えていなかった。


 膝の上に白い革の帳面が開いたままだった。ペンが、頁の上に転がっていた。


 ――猊下、眠る。


 ゆうべ、そこまで書いて、眠ってしまったらしい。


 寝台のほうで、衣ずれの音がした。


「……朝、か」


 猊下が、目を開けていらした。


 黒い外套を、顎のところまで引きあげて。窓掛けの隙間の光を、ご覧になっていた。


 アルバンは、立ちあがろうとした。


 足が、しびれていた。


 椅子が、傾いた。


 かろうじて、寝台の端に手をついた。


 猊下はその一部始終を、めずらしい鳥でも眺めるように、ご覧になっていた。


 アルバンは、背筋を伸ばした。


「おはようございます」


 猊下は少しのあいだ、何もお答えにならなかった。


 それから、仰った。


「……おはよう、と、言うのだったな」


 街道の宿でも、パン屋の奥でも、王都の坂でも、誰かが誰かに、朝ごとにそう言うのを、猊下は聞いていらした。


 ご自分で仰るのは、初めてだった。


「はい」


 猊下の目が、こちらへ向いた。


「……おはよう、アルバン」


 白い野で、名を忘れられた朝があった。何度でも、名乗ろう、と思った。


 もう、名乗らなくても、よかった。


 喉の奥に、何かがつかえた。窓掛けの隙間の光が、少しにじんだ。


 猊下の頭のてっぺんで、髪がひと房、はねていた。


 寝癖だった。十一日ぶんの。


 猊下はアルバンの頭のほうへ目をお上げになった。


「……揃いだな」


 アルバンは、自分の頭に手をやった。


 椅子の背にもたれて眠っていたほうの髪が、ひと房立っていた。押さえても、手をどけると、また立った。


 ぐう、と腹の虫が、鳴いた。


 猊下がご自分のお腹を見下ろされた。


「鳴いた」


「はい。鳴きました」


 猊下は、少し考えていらした。


「……腹、減った」


 どこで覚えていらしたのかは、訊くまでもなかった。


 窓の外の庇の上で、誰かが噴き出した。


 猊下は窓掛けの隙間のほうへお顔を向けられた。


「……おはよう」


 庇の上で、少し間があった。


「……おう」


 階下から、匂いが上がってきた。


 焦がした、玉ねぎの匂いだった。


 それが、三百年眠らなかった子の、最初の朝だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。