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光の闇司祭④ 黒夜の教皇  作者: parupuntist


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第六章 戸口の内側

 窓のある部屋だった。


 大聖堂の奥の、石の部屋。高いところに窓がひとつ、北を向いて開いている。そこから、白い光が床の上に四角く落ちていた。


 白陽は、大聖堂の屋根のすぐ上にかかっている。窓の外で、息をするように、膨らんでは、しぼむ。


 降陽の儀まで、三日だった。


 猊下は、寝台をお使いにならなかった。窓の下の床に、膝を抱えて座っていらした。白い衣を、お召しになっている。膝の上には、畳んだ黒い外套を抱えていらした。


 お召しかえは、なさった。外套だけは、どうしてもお手放しにならなかった。闇司祭の外套だった。焚き火と日なたの匂いが、まだかすかに残っていた。


 戸口の外には、灰色の髪の審問官が立っている。


 猊下が、お望みになったのだった。――アルバンも。


 大聖堂に入られた日に、そう仰せになった。審問官の務めは、とうに終わっている。それでも、戸口に置いた。猊下がご自分から何かをお望みになるのを、二十五年聞いたことがなかったので。


 陽だまりの家は、閉じなかった。猊下がお出ましくださったので。それで、よかった。子らの名前の並んだ梁を、壊したかったわけでは、ない。


 侍祭長は、猊下の前に膝をついた。


 卓の上に銀の鈴があった。その鈴には、手を伸ばさなかった。


 右の手袋から外した。指を一本ずつ、抜いていく。それから、左。


 焼けた両手を、膝の上に置いた。


 猊下の目が、その手の上で止まった。


「焼けておる」


「はい」


 それから、侍祭長は話した。


 すべてを。


 聖都の書庫の古い記録で、北の谷を見つけたこと。白陽の間で、北の谷の、夜の番人の裔(すえ)を、浄めてよろしいでしょうか、と伺ったこと。猊下がいつものように、かまわぬ、と仰せになったこと。文を携えて、王都へ下ったこと。王都の司教が手巾(ハンカチ)で額の汗を拭ってから、神殿騎士団を出したこと。


 雪の谷。茅葺(かやぶ)きの屋根に火を放つ騎士たち。広場の真ん中で、泣き叫ぶ女の子を抱いて歌っていた男。


 ――ねんね ねんね ひが しずむ


 節を口にしかけて、やめた。猊下は、その節をご存じだった。輿の中で、言葉をのせずになぞっていらした。


 目の前が白くなって、泣き声がひとつずつやんでいったこと。燃える家の戸口で、笑っていた小さな子。火の中へ両手を突き入れて、その腕をつかんで、振りほどかれたこと。焼けた手の甲に、あたたかい雪がひとひら落ちて、溶けなかったこと。


「その子は」


 猊下が口を開かれた。


「名を、持っておったか」


 侍祭長の喉が、止まった。


「……存じません」


 二十五年、一度も考えたことがなかった。


 坂の上の家で、梁に並んだ白い字を見た。寝台の数だけ、名前があった。あの谷の戸口の子にも、名はあったはずだった。誰かが毎晩、その名を呼んでいたはずだった。


 聖都へ戻って、白い手袋をはめたこと。白陽のいちばん近くで、二十五年、笑って勤めたこと。悲しいことは、日がたつと遠くなっていったこと。


 夏至の夜、大階段の上で星を見上げたこと。何もかもが、一度に戻ってきたこと。


 声は、平らなままにしておいた。平らにしておかなければ、途中で止まってしまいそうだった。


 猊下は黙って、聞いていらした。一度も、かまわぬ、とは仰せにならなかった。


 話し終えると、部屋が静かになった。


 窓の白が、床の上で少しだけ、揺れた。


「汝は」


 猊下の声は、しわがれていた。


「その日のことを、毎日、思い出すのか」


「夏至の夜から、毎日でございます」


 侍祭長は焼けた手を握ろうとした。指の節は、まっすぐには曲がらなかった。


「目を閉じれば、火の音がいたします。目を開けていれば、あの子の笑う顔が、見えます」


 顔を、上げた。


「猊下。どうか、もう一度、覆ってくださいませ」


 猊下は、お答えにならなかった。


「猊下は、開祖さまの御子にございます。書庫の、いちばん古い棚の記録で、存じあげておりました」


 膝の上の黒い外套に、骨の浮いた指がかかっていた。


「父君は、泣く子のために、白くなられました。猊下が祭壇でお祈りになれば、父君の願いは、叶います。もう、誰も泣かずにすみます」


 声が、そこで少しだけ揺れた。


「……私も」


 侍祭長は焼けた手を床についた。


「二十五年、お仕えしてまいりました。猊下は、ずっと、仰せでございました。泣かずとも、よい、と」


 猊下が身を乗りだされた。


 侍祭長の顔を、覗きこまれた。めずらしい鳥でも眺めるように。


 二十五年、おそばにいた。猊下がこうしてこの顔をご覧になるのは、初めてだった。


「汝は、笑うておらぬな」


「笑い方を、忘れました」


「聖都では、笑うておったのだという」


 猊下は顔をご覧になったまま、仰った。


「我は、見て、おらなんだ」


 侍祭長は目を伏せた。


「猊下は、いつも白陽ばかりを、ご覧になっていましたので」


 責めるつもりは、なかった。そういうものだと、思っていた。白陽のいちばん近くにいる方は、白陽を見る。その足もとに膝をつく者は、その方の背中を見る。二十五年、それで何も困らなかった。


 猊下はしばらく、その顔をご覧になっていた。


 それから、膝の上の外套に目を落とされた。


 かまわぬ、と。


 いつものように、仰せになるのだと思った。二十五年、ずっとそうだったように。


「……考える」


 侍祭長は息を呑んだ。


 初めて、聞く言葉だった。


 部屋を下がるとき、戸口で一度だけ振り返った。


 猊下は、膝の上の黒い外套に顔をうずめていらした。焚き火の匂いを確かめていらっしゃるようにも、見えた。


 石の廊下に出てから、手袋をはめなおした。右から。一本ずつ、指を元のとおりに。


 考える、と仰せになった。


 それが何を考えるという意味なのか、わからなかった。わからないまま、胸の奥がひどくざわついた。覆われていた二十五年のあいだ、ざわつくことなど、なかったのに。


 戸口の脇で、審問官はこちらを見なかった。背筋を伸ばして、閉じた戸の前に立っていた。


 猊下は、お祈りになるだろうか。


 力ずくでは、祈っていただけない。祈りは、本心の欲だ。祭壇で口にされるものは、口にされる方の胸の底にあるものでなければならない。だから、待つ。猊下が、ご自分でお祈りになるのを。


 もし、猊下がお祈りにならなければ。


 三百年前の書の、一行を思った。


 ――いちばん短き夜の真夜中、白き者、白陽へ歩み入らば、白陽は、地の果てまで昇らん。


 いちばん短き夜は、過ぎた。けれど、白陽が生まれたのは、地の底の祭壇だ。黒い扉の開く、新月の晩。そこでなら、と思う。


 白い闇司祭さまを、白陽へ歩み入らせればよい。


 白は、白を呼ぶ。あの方は、呼ばれれば来られる。


 猊下が、白い闇司祭さまに文を、と仰せになったとき、止めなかった。審問官が書いた文を、侍祭に届けさせた。


 ――新月の晩、地の底にて、待つ。


 来るかどうかは、あの方がお決めになる。


 来られる、と知っていた。


 新しい司教は、神殿騎士に闇司祭を捕らえさせるつもりでいる。布告を出したのは、王都の教会だった。それは、司教の務めだ。止めはしない。


 白い闇司祭さまだけは、通す。


 廊下の窓から、白い光がまっすぐに差していた。手袋の下で、古い痕が引きつれた。


 名を、持っておったか。


 しわがれた声が、耳の奥に残っていた。


◆


 戸の外に、立っていた。


 大聖堂の奥の、石の廊下だった。窓という窓から、白い光が床に落ちている。ときどき、白い衣の侍祭が盆を捧げて通りすぎる。こちらに目をやる者は、いなかった。


 猊下が、アルバンも、とお望みになったのだと、侍祭長さまは仰った。それきり、ここにいる。四日になる。


 務めでは、なかった。


 朝になると、戸の内側から名を呼ばれる。


 ……アルバン。


 はい、と答えると、それきりだった。日に三度も、四度も。白陽の、こんなに近くで。忘れないように呼んでいらっしゃるのだと、三日目にわかった。


 降陽の儀まで、あと二日。


 戸の内側から声がした。


「……アルバン」


「はい」


 ひと呼吸ぶんの、間があった。


「入れ」


 アルバンは、動けなかった。


 白陽の間の入り口で、毎日膝をついた。入っては、いかなかった。声も、かけなかった。入れ、と言われたことは、一度もなかった。


 白い野で、入れば、よかったのだ、と仰った。あのときも、入れ、とは仰らなかった。


 戸の取っ手に手をかけた。


 右の手だった。ランタンの提げ手を、ときどきまだ探す手だった。


 戸を、開けた。


 一歩、入った。


 敷居の、内側だった。


 足の裏が、少しだけふわふわした。石の床なのに。


 部屋の真ん中に、白い卓があった。白い布がかけられて、銀の皿と銀の水差しが並んでいる。侍祭たちが毎朝、整えていくのだという。皿の上には、白いパンがいくつもきちんと積まれていた。聖都から行列が運んできたパンだった。


 猊下は、卓の前の椅子に座っていらした。白い衣の膝に、畳んだ黒い外套。椅子が高すぎて、毛の靴下の足が床に届いていなかった。


 猊下が、パンをひとつお取りになった。


 両手で持って、ふたつにお割りになった。


「……はんぶんこ」


 片方を、こちらへ差しだされた。


 受けとった半分のほうが、少しだけ大きかった。


 シエルさんが、そうしていた。猊下は、それを覚えていらしたのだ。


「……いただきます」


 猊下が、ご自分の半分を口に運ばれた。


 ずいぶん長く、噛んでいらした。


「……かたいな」


「聖都のパンですので」


 アルバンもかじった。かたかった。聖都の白いパンは、いつもこうだった。噛んでも、噛んでも、なかなか味がしない。


「川沿いのは、やわらかかった」


「はい」


 猊下は半分のパンを膝の上の外套に置いて、しばらくご覧になっていた。


「足りぬ、とは、一度も、言わなんだ」


 アルバンは、パンを喉に詰まらせかけた。


 五つ、だった。毎朝。戸の外の廊下で、あの籠の匂いを何度もかいだ。


 咳をひとつ、こらえた。猊下は、何もお気づきにならなかった。


 食べ終えると、猊下は椅子を下りて、窓の下の床にお座りになった。膝を胸のほうへ寄せて。


 アルバンはその隣に膝をついた。


 窓の外は、あいかわらず白かった。


「アルバン」


「はい」


「……とうさまの、名を、聞いてよいか」


 懐の白い革の帳面が、重くなった気がした。


 お預かりしているもの、だった。北の祠(ほこら)でそう申しあげた。猊下は、そのことも覚えていらした。


「……新月の晩に」


 声は、平らなままにしておいた。


「猊下がお呼びになるときに、お返しします」


 猊下は、首を少しだけかしげられた。


「……そうか」


 それから、窓のほうを見たまま、仰った。


「汝は、とうさまを、呼んだことがあるか」


「……覚えておりません」


 雪の路地裏で、湯気の立つ椀(わん)を差しだされた。ひび割れた唇が、痛かった。それが、いちばん古いことだった。その前に、誰かを呼んだのかどうか。誰かに呼ばれたのかどうか。何も、残っていない。


「そうか」


 猊下は、膝をもう少し引き寄せられた。


「……汝も、か」


 アルバンは、何も申しあげなかった。申しあげなくてもいい、と思った。


 猊下も、覚えていらっしゃらないのだ。とうさまを呼んだのかどうか。呼ばれたのかどうか。


 白い光が床の上を、少しずつ動いていく。


「暗いのは、好きか」


「……好きでは、ありません」


 本当のことだった。路地の暗がりは、冷たかった。誰も、来なかった。だから、ずっと照らしてきた。暗がりに、誰も置き去りにされないように。


 少し黙ってから、言った。


「でも、新月の晩は、明かりを持たずに参ります」


「なぜだ」


「猊下の手が、空いていなければ、困りますので」


 猊下が、こちらをご覧になった。


 それから、手を伸ばされた。


 骨の浮いた、小さな手だった。袖口から、枯れ枝のような手首がのぞいていた。その手が、アルバンの手を取った。


 冷たかった。


 握る、というより、つかまる、という手だった。


 猊下はそのまま、窓の下の壁にもたれられた。まぶたが、ゆっくりと下りていく。


 お眠りになった。


 窓の外の白が、ほんの少し薄くなった。


 アルバンは、手をほどかなかった。


 寝顔を、見た。白い眉。薄いまぶた。こけた頬。


 顔も、見ておく、と白い野で仰った。今は、こちらが見ていた。


 懐の帳面を出そうとして、やめた。審問録は、片手では書けない。


 ――猊下、お眠りになる。手を、つないだまま。


 書かなくても、覚えていられる、と思った。


 うしろで、戸が少しだけ開いた。


 白い手袋が、戸の縁にかかっていた。それきり、入ってはこなかった。しばらくして、戸は音を立てずに閉まった。


 アルバンは、振り返らなかった。


 白い光が床の上で、少しずつ薄くなっていった。つないだ手が、ゆっくりとあたたまっていった。


◆


 ――降陽の儀まで一日:屋根裏の寝床に、帰ってきた。


 新月の前の朝、罪状帳にはそれだけを書いた。


 書いてから、少し考えた。罪状では、なかった。


 消さなかった。書きまちがえた行には、線を引く。これは、まちがえていない。


 その晩、陽だまりの家の二階に子供たちが集まっていた。


 白い夜だった。窓掛けを閉めても、布の目から白い光がにじんでくる。寝台の上で、床の上で、子供たちは膝を抱えて目を開けていた。眠くない、と言って笑っていた。


 まんなかに、ヘルミが座っていた。隣に、シエル。


「一行ずつ、いきますね」


 ヘルミが、息を吸った。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 子供たちがまねをした。ばらばらの声だった。シエルの声が、いちばんはっきりしていた。


「よるの かあさま ひを だいて」


 二行目。三行目。


「ないても いいよ よるの なか」


 シエルは、三行目までは知っている。ずっと前にヘルミに歌ってもらって、覚えたのだという。


 ヘルミがもう一度、息を吸った。


「おいで おいで なけない こ」


 四行目で、子供たちの声が、ずれた。


 知らない行だった。早く出る子と、遅れる子と。いちばん小さな女の子は、「おいで」を三回言った。


 くすくすと、笑い声があがった。笑いながら、もう一度歌った。二度目も、ずれた。三度目は、少しだけそろった。


 歌い終わると、いちばん小さな女の子が窓ぎわの寝台によじのぼった。窓掛けの紐を、両手で引いた。手のひらひとつぶん。


 外は、白かった。


「……まだ、ないね」


 シエルが、寝台の脇にしゃがみこんだ。


「あしたの、よるね」


 女の子はしばらく、すきまの白を見ていた。それから、紐をそっと戻した。


 ミレイアは戸口の柱にもたれて、それを聞いていた。


「四行目も、教えるのですか」


 ヘルミが振り返った。


「もう、隠しておく行では、ありませんから」


 淡い金色の目が、少しだけ笑っていた。


 開け放した窓の外の庇で、板がぎしりと鳴った。


 ヘルミは、窓のほうへ声をかけた。


「……四行目は、あなたが」


 庇から返事は、来なかった。板がもう一度、鳴っただけだった。


「お師匠さまの、宿題ですから」


 しばらくして、庇の上から声が降ってきた。


「……下手なんだよ」


「上手でなくて、いいんです」


 ヘルミは、膝の上で、両手を組んだ。


「泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌ですから」


 板は、もう鳴らなかった。


 ヘルミは、子供たちのほうへ向きなおった。


「私は外から、一行目から三行目を歌います。……シエルと、ふたりで」


 シエルが、首を少しだけ右にかしげて、うなずいた。


「わたしも、うたう」


 それから、自分の手のひらを膝の上でそっと丸めた。


 台所の卓を皆で囲んだのは、子供たちがシエルの手でひとりずつ眠ってからだった。


 ミレイアは、卓の上に指で大聖堂の形を描いた。


「新月の晩、日が沈むと、祭壇の足もとの床が裂けます」


 黒い扉の開く晩には、いつもそうなった。


 ガルドが、勝手口の柱から背を起こした。


「侍祭長は、欲張りを通すんだろ。文で呼んだんだからな」


「はい。……ですが、新しい司教は、別です」


 ミレイアは、指を卓の端へ動かした。


「神殿騎士が出ます。闇司祭と、それを匿った者を捕らえる、と広場で触れていました」


 ゴドフロワが、白い髭をしごいた。


「階段の口は、私が、守ろう」


 ガルドが、ふん、と鼻を鳴らした。


「俺もだ。ガキどもは、ドルフとパン屋に頼んである」


 ゴドフロワが、ガルドを横目で見た。


「剣は」


「要らねえ。あんたもだろ」


「持たぬ」


 ふたりはそれきり、黙って腕を組んだ。卓の向こうで、ヘルミが口もとをそっと押さえた。


「団長さまは、唄は」


 ヘルミが訊くと、ゴドフロワは白い髭の下で口をへの字にした。


「……知らぬ」


 少しして、言い足した。


「聞いて、おる」


 ヘルミが、ほんの少し笑った。目のふちが、赤かった。


 ミレイアは、卓の上の見えない階段を見下ろした。


 それから、口を開いた。


「……書には、白き者が白陽へ歩み入れば、白陽は、地の果てまで昇る、と」


 聖都の書庫で、読みあげられたのを聞いた。書いてあることは、書いてあるとおりになる。そう思って、ずっと罪状帳を書いてきた。


 勝手口の外で声がした。庇の下の柱に、いつのまにかレオニスがもたれていた。


「書いた奴は、続きを知らねえだろ」


 それだけ言って、また梯子を上がっていった。


 ミレイアは少しのあいだ、卓の上の自分の指を見ていた。


 それから、二階の窓から庇へ出た。


 板の上に、レオニスが寝転がっていた。外套は、ない。師匠の鉄剣を枕にしていた。


 空は、白かった。星は、どこにもなかった。


 ミレイアは少し間をあけて、腰を下ろした。


 胸もとの聖印は、ここでもぬるかった。


 板の上に落ちたふたりぶんの影は、ひとつが、もうひとつより、淡かった。


「罪状帳に、書きました」


「……何を」


「屋根裏の寝床に、帰ってきた、と」


 レオニスが、片目だけこちらへ向けた。


「罪状かよ、それ」


「罪状では、ありません」


「じゃあ、なんで書いた」


「書いておきたかったので」


 レオニスは何も言わずに、また空を見た。


 しばらくして、ミレイアは言った。


「パン」


「……ん」


「食べました。半分」


 レオニスは白い空を見たまま、口の端だけで少し、笑った。


「そうかよ」


 しばらく、どちらも黙っていた。


 ミレイアは、板の上の淡いほうの影を見た。


「怖くは、ないのですか」


「俺がか」


 レオニスは鼻で笑った。


「怖えのは、爺さんのほうだろ。顔も知らねえ親父に、会いに行くんだぞ。三百年ぶりに」


 少しだけ、声が低くなった。


「……泣かせてやるって、言っちまったしな」


 ミレイアは、黙っていた。言わなくても、聞いていることは、わかっているはずだった。


 坂の下から、どこかの家の笑い声が上がってくる。戸口という戸口に、白い字の名前が並んでいるはずだった。


 聖都では、回廊に、残った。


 衛士たちの槍の前で剣を抜いて、ここを、自分で選ぶ、と決めた。あの人は、白陽の間の、そのまた奥にいた。隣には、いられなかった。


 帰ってきて、とは言わなかった。


 前に一度だけ、言った。あなたが帰ってくるのが、私の欲です、と。言葉は、本当だった。けれど、待っているあいだ、隣は、空いていた。


「……今度は、待ちません」


 レオニスの顔が、こちらを向きかけた。


「隣に、います」


 レオニスは、また空のほうを見た。


「……来んなって言っても、来んだろ」


「はい」


 目のふちが、熱くなった。


 白い光の中で、それが光ったのだと思う。


 レオニスが、寝返りを打った。背中を、こちらへ向けた。いつもの、癖だ。


「……見ねえから」


 ミレイアは膝を抱えた。


「……見ないで、ください」


 声が、少しふるえた。


 しばらくして、ミレイアも背中を向けた。


 庇の板の上で、背中と背中が、触れた。


 背中は、あたたかかった。白い光の、ぬるいあたたかさとは、違った。


 ふたりはそのまま、白い夜を過ごした。


◆


 新月の日の、夕方だった。


 パン屋の前を通ると、表の窓は、開いていた。木枠に、白い字がひとつ残っていた。ユナの字だった。焼き場の奥で親父が何か焼いていた。五人前の匂いがした。


 大聖堂の前の広場は、人で埋まっていた。


 誰もが白い空を見上げて、笑っていた。手を組んで。肩を並べて。籠を抱えた女も、荷車を引く男も、屋台の前の子供たちも。坂の家々の戸口にも、通りの窓という窓にも、白い字の名前が並んでいた。書いてあるもの。消えかけたもの。消されたあとの、白いかすれ。


 レオニスは人のあいだを抜けて、開け放した大聖堂の扉をくぐった。


 身廊も、人でいっぱいだった。


 祭壇の脇に、新しい司教が立っていた。金糸の縁取りの法衣。その隣に、白い衣の侍祭たち。壁ぎわには、白銀の鎧の神殿騎士がずらりと並んでいた。


 前のほうの席に、ルカーシュが座っていた。王家の使いだという。こちらに気づいて、ほんのわずか顎を引いた。


 隣で、ミレイアが胸もとの聖印に触れた。


「熱いです」


「ぬるいんじゃなかったのか」


「近づくほど、熱くなります」


 うしろに、シエルとヘルミがいた。シエルは、ヘルミの袖を握っていた。ゴドフロワとガルドは、身廊の右の壁ぎわにふたり並んで立っていた。熊がふたり、並んでいるようだった。まわりの人々が少しずつ、そこだけ間をあけていた。


 自分の足もとを、見下ろした。


 影は、あるのかないのか、わからないほど、淡かった。


 鐘が、鳴った。


 扉のほうから、白い衣の列が入ってきた。


 先頭に、白い手袋の侍祭長。そのうしろに、爺さんがいた。


 白い衣だった。裸足だった。胸に、畳んだ黒い外套を片腕で抱えていた。


 隣に、アルバンがいた。


 ランタンを、持っていなかった。右の手は、空いていた。その手で、爺さんの空いたほうの手を握っていた。


 身廊の人々が手を組んで、頭を下げた。


 白い衣は、似合っていなかった。黒い外套を抱えている腕のほうが、ずっとしっくりきていた。


 爺さんは、レオニスの前で足を止めた。


 黒い外套を、少しだけ持ちあげてみせた。


「……借りておる」


「おう。そのうち、返せ」


 爺さんはうなずいた。それから、また歩いていった。祭壇のほうへ。


 アルバンが、すれ違いざまにこちらを見た。口は、開かなかった。目だけで小さく、頭を下げた。


 侍祭長が、ふとこちらを振り返った。その顔に笑みは、なかった。それきり、前を向いた。


 司教が、よく通る声で読みあげはじめた。白陽を迎える言葉らしかった。身廊の人々が、口々にそれをなぞった。泣く者なき昼を、と。


 高い窓の外で、陽が沈んでいく刻だった。


 窓の外の空は、まだ白かった。


 新月だ。月の出は、ない。


 足もとがかすかに震えた。


 祭壇の足もとの床が、黒く、裂けた。


 身廊じゅうが、どよめいた。どよめいて、それから、笑った。


 うしろでシエルが、両手を胸の前で、器のように丸めた。指のすきまを、ぴたりと閉じて。


 裂け目の下から、石の階段が闇の底へと続いている。


 何度も、見た。あの晩も、冬至の晩も。


 侍祭長が先に立って、階段へ下りていった。白い衣の侍祭たちが、続いた。


 爺さんは裂け目の縁で、一度だけ立ちどまった。アルバンの手を、握りなおした。


 それから、下りていった。灰色の頭も、明かりを持たずに。


 扉のほうから、光が、来た。


 白陽だった。空から降りてきた。開け放した扉をくぐって、身廊の上をゆっくりと渡ってくる。人々の顔が白く照らされて、いっせいに笑み崩れた。誰かが、ありがたや、と言った。


 まぶしくは、なかった。白い、だけだった。


 胸の底が、ぬるく、動いた。


 白陽は、祭壇の上で少し、とどまった。


 それから、裂け目へ沈みはじめた。


 裂け目の縁に、侍祭長がひとり残っていた。


 振り返って、身廊の、こちらを見た。


 深々と、頭を下げた。


「お待ちしておりました、白い闇司祭さま」


 よく通る声では、なかった。それでも、聞こえた。


 わなだ。わかっていた。


 決めて、行くさ。


 レオニスは、前へ出た。ミレイアが、隣に並んだ。シエルとヘルミが、うしろに続いた。


 司教の声が身廊に響いた。


「闇司祭を、捕らえよ。匿った者も、ともに」


 壁ぎわの神殿騎士たちが、動いた。白銀の鎧が、いっせいに鳴った。身廊の人々が笑いながら、道をあけた。何が起きているのか、誰も気にしていないようだった。


 その前に、ふたつの大きな背中が、立った。


 ゴドフロワと、ガルドだった。裂け目の縁の、階段の口に。


 ガルドが肩ごしに、裂け目の下を覗きこんだ。


「……また、階段か」


 先頭の騎士が、槍を突きだした。ゴドフロワが、その柄(え)を素手でつかんだ。引いても、押しても、穂先は少しも動かなかった。


 年かさの騎士が白い髭を見て、目を見開いた。


「……団長、どの」


「元、だ」


 ゴドフロワは柄をつかんだまま、肩ごしに言った。


「行け」


 ガルドが飛びかかってきた騎士の襟首を片手でつかんで、うしろの騎士の上へ放りだした。鎧と鎧が、派手な音を立てた。


「階段は、通さねえ」


 ミレイアが、剣を抜いた。抜いただけで、構えはしなかった。


「私は、斬りません。……罪状帳も、持ってきました」


「何に使うんだよ、こんなとこで」


「書きます」


 当たり前のような顔だった。


 レオニスは、階段に足をかけた。


 白陽が、裂け目の奥へ沈んでいく。階段を、白く照らしながら。


 下から、白い光が上がってくる。その奥に、爺さんと灰色の頭がいる。ひを抱いた、かあさまも。


 三段下りたところで、振り返った。


 ガルドの背中とゴドフロワの背中のあいだから、開け放した扉の向こうの広場の空が見えた。


 白くなかった。


 茜色だった。それが、ゆっくりと藍に沈んでいく。広場の人々が笑うのをやめて、空を見上げていた。籠を抱えた女が。荷車を引く男が。屋台の前の子供たちが。


 十六日ぶりに、王都に日が暮れた。

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