第六章 戸口の内側
窓のある部屋だった。
大聖堂の奥の、石の部屋。高いところに窓がひとつ、北を向いて開いている。そこから、白い光が床の上に四角く落ちていた。
白陽は、大聖堂の屋根のすぐ上にかかっている。窓の外で、息をするように、膨らんでは、しぼむ。
降陽の儀まで、三日だった。
猊下は、寝台をお使いにならなかった。窓の下の床に、膝を抱えて座っていらした。白い衣を、お召しになっている。膝の上には、畳んだ黒い外套を抱えていらした。
お召しかえは、なさった。外套だけは、どうしてもお手放しにならなかった。闇司祭の外套だった。焚き火と日なたの匂いが、まだかすかに残っていた。
戸口の外には、灰色の髪の審問官が立っている。
猊下が、お望みになったのだった。――アルバンも。
大聖堂に入られた日に、そう仰せになった。審問官の務めは、とうに終わっている。それでも、戸口に置いた。猊下がご自分から何かをお望みになるのを、二十五年聞いたことがなかったので。
陽だまりの家は、閉じなかった。猊下がお出ましくださったので。それで、よかった。子らの名前の並んだ梁を、壊したかったわけでは、ない。
侍祭長は、猊下の前に膝をついた。
卓の上に銀の鈴があった。その鈴には、手を伸ばさなかった。
右の手袋から外した。指を一本ずつ、抜いていく。それから、左。
焼けた両手を、膝の上に置いた。
猊下の目が、その手の上で止まった。
「焼けておる」
「はい」
それから、侍祭長は話した。
すべてを。
聖都の書庫の古い記録で、北の谷を見つけたこと。白陽の間で、北の谷の、夜の番人の裔を、浄めてよろしいでしょうか、と伺ったこと。猊下がいつものように、かまわぬ、と仰せになったこと。文を携えて、王都へ下ったこと。王都の司教が手巾で額の汗を拭ってから、神殿騎士団を出したこと。
雪の谷。茅葺きの屋根に火を放つ騎士たち。広場の真ん中で、泣き叫ぶ女の子を抱いて歌っていた男。
――ねんね ねんね ひが しずむ
節を口にしかけて、やめた。猊下は、その節をご存じだった。輿の中で、言葉をのせずになぞっていらした。
目の前が白くなって、泣き声がひとつずつやんでいったこと。燃える家の戸口で、笑っていた小さな子。火の中へ両手を突き入れて、その腕をつかんで、振りほどかれたこと。焼けた手の甲に、あたたかい雪がひとひら落ちて、溶けなかったこと。
「その子は」
猊下が口を開かれた。
「名を、持っておったか」
侍祭長の喉が、止まった。
「……存じません」
二十五年、一度も考えたことがなかった。
坂の上の家で、梁に並んだ白い字を見た。寝台の数だけ、名前があった。あの谷の戸口の子にも、名はあったはずだった。誰かが毎晩、その名を呼んでいたはずだった。
聖都へ戻って、白い手袋をはめたこと。白陽のいちばん近くで、二十五年、笑って勤めたこと。悲しいことは、日がたつと遠くなっていったこと。
夏至の夜、大階段の上で星を見上げたこと。何もかもが、一度に戻ってきたこと。
声は、平らなままにしておいた。平らにしておかなければ、途中で止まってしまいそうだった。
猊下は黙って、聞いていらした。一度も、かまわぬ、とは仰せにならなかった。
話し終えると、部屋が静かになった。
窓の白が、床の上で少しだけ、揺れた。
「汝は」
猊下の声は、しわがれていた。
「その日のことを、毎日、思い出すのか」
「夏至の夜から、毎日でございます」
侍祭長は焼けた手を握ろうとした。指の節は、まっすぐには曲がらなかった。
「目を閉じれば、火の音がいたします。目を開けていれば、あの子の笑う顔が、見えます」
顔を、上げた。
「猊下。どうか、もう一度、覆ってくださいませ」
猊下は、お答えにならなかった。
「猊下は、開祖さまの御子にございます。書庫の、いちばん古い棚の記録で、存じあげておりました」
膝の上の黒い外套に、骨の浮いた指がかかっていた。
「父君は、泣く子のために、白くなられました。猊下が祭壇でお祈りになれば、父君の願いは、叶います。もう、誰も泣かずにすみます」
声が、そこで少しだけ揺れた。
「……私も」
侍祭長は焼けた手を床についた。
「二十五年、お仕えしてまいりました。猊下は、ずっと、仰せでございました。泣かずとも、よい、と」
猊下が身を乗りだされた。
侍祭長の顔を、覗きこまれた。めずらしい鳥でも眺めるように。
二十五年、おそばにいた。猊下がこうしてこの顔をご覧になるのは、初めてだった。
「汝は、笑うておらぬな」
「笑い方を、忘れました」
「聖都では、笑うておったのだという」
猊下は顔をご覧になったまま、仰った。
「我は、見て、おらなんだ」
侍祭長は目を伏せた。
「猊下は、いつも白陽ばかりを、ご覧になっていましたので」
責めるつもりは、なかった。そういうものだと、思っていた。白陽のいちばん近くにいる方は、白陽を見る。その足もとに膝をつく者は、その方の背中を見る。二十五年、それで何も困らなかった。
猊下はしばらく、その顔をご覧になっていた。
それから、膝の上の外套に目を落とされた。
かまわぬ、と。
いつものように、仰せになるのだと思った。二十五年、ずっとそうだったように。
「……考える」
侍祭長は息を呑んだ。
初めて、聞く言葉だった。
部屋を下がるとき、戸口で一度だけ振り返った。
猊下は、膝の上の黒い外套に顔をうずめていらした。焚き火の匂いを確かめていらっしゃるようにも、見えた。
石の廊下に出てから、手袋をはめなおした。右から。一本ずつ、指を元のとおりに。
考える、と仰せになった。
それが何を考えるという意味なのか、わからなかった。わからないまま、胸の奥がひどくざわついた。覆われていた二十五年のあいだ、ざわつくことなど、なかったのに。
戸口の脇で、審問官はこちらを見なかった。背筋を伸ばして、閉じた戸の前に立っていた。
猊下は、お祈りになるだろうか。
力ずくでは、祈っていただけない。祈りは、本心の欲だ。祭壇で口にされるものは、口にされる方の胸の底にあるものでなければならない。だから、待つ。猊下が、ご自分でお祈りになるのを。
もし、猊下がお祈りにならなければ。
三百年前の書の、一行を思った。
――いちばん短き夜の真夜中、白き者、白陽へ歩み入らば、白陽は、地の果てまで昇らん。
いちばん短き夜は、過ぎた。けれど、白陽が生まれたのは、地の底の祭壇だ。黒い扉の開く、新月の晩。そこでなら、と思う。
白い闇司祭さまを、白陽へ歩み入らせればよい。
白は、白を呼ぶ。あの方は、呼ばれれば来られる。
猊下が、白い闇司祭さまに文を、と仰せになったとき、止めなかった。審問官が書いた文を、侍祭に届けさせた。
――新月の晩、地の底にて、待つ。
来るかどうかは、あの方がお決めになる。
来られる、と知っていた。
新しい司教は、神殿騎士に闇司祭を捕らえさせるつもりでいる。布告を出したのは、王都の教会だった。それは、司教の務めだ。止めはしない。
白い闇司祭さまだけは、通す。
廊下の窓から、白い光がまっすぐに差していた。手袋の下で、古い痕が引きつれた。
名を、持っておったか。
しわがれた声が、耳の奥に残っていた。
◆
戸の外に、立っていた。
大聖堂の奥の、石の廊下だった。窓という窓から、白い光が床に落ちている。ときどき、白い衣の侍祭が盆を捧げて通りすぎる。こちらに目をやる者は、いなかった。
猊下が、アルバンも、とお望みになったのだと、侍祭長さまは仰った。それきり、ここにいる。四日になる。
務めでは、なかった。
朝になると、戸の内側から名を呼ばれる。
……アルバン。
はい、と答えると、それきりだった。日に三度も、四度も。白陽の、こんなに近くで。忘れないように呼んでいらっしゃるのだと、三日目にわかった。
降陽の儀まで、あと二日。
戸の内側から声がした。
「……アルバン」
「はい」
ひと呼吸ぶんの、間があった。
「入れ」
アルバンは、動けなかった。
白陽の間の入り口で、毎日膝をついた。入っては、いかなかった。声も、かけなかった。入れ、と言われたことは、一度もなかった。
白い野で、入れば、よかったのだ、と仰った。あのときも、入れ、とは仰らなかった。
戸の取っ手に手をかけた。
右の手だった。ランタンの提げ手を、ときどきまだ探す手だった。
戸を、開けた。
一歩、入った。
敷居の、内側だった。
足の裏が、少しだけふわふわした。石の床なのに。
部屋の真ん中に、白い卓があった。白い布がかけられて、銀の皿と銀の水差しが並んでいる。侍祭たちが毎朝、整えていくのだという。皿の上には、白いパンがいくつもきちんと積まれていた。聖都から行列が運んできたパンだった。
猊下は、卓の前の椅子に座っていらした。白い衣の膝に、畳んだ黒い外套。椅子が高すぎて、毛の靴下の足が床に届いていなかった。
猊下が、パンをひとつお取りになった。
両手で持って、ふたつにお割りになった。
「……はんぶんこ」
片方を、こちらへ差しだされた。
受けとった半分のほうが、少しだけ大きかった。
シエルさんが、そうしていた。猊下は、それを覚えていらしたのだ。
「……いただきます」
猊下が、ご自分の半分を口に運ばれた。
ずいぶん長く、噛んでいらした。
「……かたいな」
「聖都のパンですので」
アルバンもかじった。かたかった。聖都の白いパンは、いつもこうだった。噛んでも、噛んでも、なかなか味がしない。
「川沿いのは、やわらかかった」
「はい」
猊下は半分のパンを膝の上の外套に置いて、しばらくご覧になっていた。
「足りぬ、とは、一度も、言わなんだ」
アルバンは、パンを喉に詰まらせかけた。
五つ、だった。毎朝。戸の外の廊下で、あの籠の匂いを何度もかいだ。
咳をひとつ、こらえた。猊下は、何もお気づきにならなかった。
食べ終えると、猊下は椅子を下りて、窓の下の床にお座りになった。膝を胸のほうへ寄せて。
アルバンはその隣に膝をついた。
窓の外は、あいかわらず白かった。
「アルバン」
「はい」
「……とうさまの、名を、聞いてよいか」
懐の白い革の帳面が、重くなった気がした。
お預かりしているもの、だった。北の祠でそう申しあげた。猊下は、そのことも覚えていらした。
「……新月の晩に」
声は、平らなままにしておいた。
「猊下がお呼びになるときに、お返しします」
猊下は、首を少しだけかしげられた。
「……そうか」
それから、窓のほうを見たまま、仰った。
「汝は、とうさまを、呼んだことがあるか」
「……覚えておりません」
雪の路地裏で、湯気の立つ椀を差しだされた。ひび割れた唇が、痛かった。それが、いちばん古いことだった。その前に、誰かを呼んだのかどうか。誰かに呼ばれたのかどうか。何も、残っていない。
「そうか」
猊下は、膝をもう少し引き寄せられた。
「……汝も、か」
アルバンは、何も申しあげなかった。申しあげなくてもいい、と思った。
猊下も、覚えていらっしゃらないのだ。とうさまを呼んだのかどうか。呼ばれたのかどうか。
白い光が床の上を、少しずつ動いていく。
「暗いのは、好きか」
「……好きでは、ありません」
本当のことだった。路地の暗がりは、冷たかった。誰も、来なかった。だから、ずっと照らしてきた。暗がりに、誰も置き去りにされないように。
少し黙ってから、言った。
「でも、新月の晩は、明かりを持たずに参ります」
「なぜだ」
「猊下の手が、空いていなければ、困りますので」
猊下が、こちらをご覧になった。
それから、手を伸ばされた。
骨の浮いた、小さな手だった。袖口から、枯れ枝のような手首がのぞいていた。その手が、アルバンの手を取った。
冷たかった。
握る、というより、つかまる、という手だった。
猊下はそのまま、窓の下の壁にもたれられた。まぶたが、ゆっくりと下りていく。
お眠りになった。
窓の外の白が、ほんの少し薄くなった。
アルバンは、手をほどかなかった。
寝顔を、見た。白い眉。薄いまぶた。こけた頬。
顔も、見ておく、と白い野で仰った。今は、こちらが見ていた。
懐の帳面を出そうとして、やめた。審問録は、片手では書けない。
――猊下、お眠りになる。手を、つないだまま。
書かなくても、覚えていられる、と思った。
うしろで、戸が少しだけ開いた。
白い手袋が、戸の縁にかかっていた。それきり、入ってはこなかった。しばらくして、戸は音を立てずに閉まった。
アルバンは、振り返らなかった。
白い光が床の上で、少しずつ薄くなっていった。つないだ手が、ゆっくりとあたたまっていった。
◆
――降陽の儀まで一日:屋根裏の寝床に、帰ってきた。
新月の前の朝、罪状帳にはそれだけを書いた。
書いてから、少し考えた。罪状では、なかった。
消さなかった。書きまちがえた行には、線を引く。これは、まちがえていない。
その晩、陽だまりの家の二階に子供たちが集まっていた。
白い夜だった。窓掛けを閉めても、布の目から白い光がにじんでくる。寝台の上で、床の上で、子供たちは膝を抱えて目を開けていた。眠くない、と言って笑っていた。
まんなかに、ヘルミが座っていた。隣に、シエル。
「一行ずつ、いきますね」
ヘルミが、息を吸った。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
子供たちがまねをした。ばらばらの声だった。シエルの声が、いちばんはっきりしていた。
「よるの かあさま ひを だいて」
二行目。三行目。
「ないても いいよ よるの なか」
シエルは、三行目までは知っている。ずっと前にヘルミに歌ってもらって、覚えたのだという。
ヘルミがもう一度、息を吸った。
「おいで おいで なけない こ」
四行目で、子供たちの声が、ずれた。
知らない行だった。早く出る子と、遅れる子と。いちばん小さな女の子は、「おいで」を三回言った。
くすくすと、笑い声があがった。笑いながら、もう一度歌った。二度目も、ずれた。三度目は、少しだけそろった。
歌い終わると、いちばん小さな女の子が窓ぎわの寝台によじのぼった。窓掛けの紐を、両手で引いた。手のひらひとつぶん。
外は、白かった。
「……まだ、ないね」
シエルが、寝台の脇にしゃがみこんだ。
「あしたの、よるね」
女の子はしばらく、すきまの白を見ていた。それから、紐をそっと戻した。
ミレイアは戸口の柱にもたれて、それを聞いていた。
「四行目も、教えるのですか」
ヘルミが振り返った。
「もう、隠しておく行では、ありませんから」
淡い金色の目が、少しだけ笑っていた。
開け放した窓の外の庇で、板がぎしりと鳴った。
ヘルミは、窓のほうへ声をかけた。
「……四行目は、あなたが」
庇から返事は、来なかった。板がもう一度、鳴っただけだった。
「お師匠さまの、宿題ですから」
しばらくして、庇の上から声が降ってきた。
「……下手なんだよ」
「上手でなくて、いいんです」
ヘルミは、膝の上で、両手を組んだ。
「泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌ですから」
板は、もう鳴らなかった。
ヘルミは、子供たちのほうへ向きなおった。
「私は外から、一行目から三行目を歌います。……シエルと、ふたりで」
シエルが、首を少しだけ右にかしげて、うなずいた。
「わたしも、うたう」
それから、自分の手のひらを膝の上でそっと丸めた。
台所の卓を皆で囲んだのは、子供たちがシエルの手でひとりずつ眠ってからだった。
ミレイアは、卓の上に指で大聖堂の形を描いた。
「新月の晩、日が沈むと、祭壇の足もとの床が裂けます」
黒い扉の開く晩には、いつもそうなった。
ガルドが、勝手口の柱から背を起こした。
「侍祭長は、欲張りを通すんだろ。文で呼んだんだからな」
「はい。……ですが、新しい司教は、別です」
ミレイアは、指を卓の端へ動かした。
「神殿騎士が出ます。闇司祭と、それを匿った者を捕らえる、と広場で触れていました」
ゴドフロワが、白い髭をしごいた。
「階段の口は、私が、守ろう」
ガルドが、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺もだ。ガキどもは、ドルフとパン屋に頼んである」
ゴドフロワが、ガルドを横目で見た。
「剣は」
「要らねえ。あんたもだろ」
「持たぬ」
ふたりはそれきり、黙って腕を組んだ。卓の向こうで、ヘルミが口もとをそっと押さえた。
「団長さまは、唄は」
ヘルミが訊くと、ゴドフロワは白い髭の下で口をへの字にした。
「……知らぬ」
少しして、言い足した。
「聞いて、おる」
ヘルミが、ほんの少し笑った。目のふちが、赤かった。
ミレイアは、卓の上の見えない階段を見下ろした。
それから、口を開いた。
「……書には、白き者が白陽へ歩み入れば、白陽は、地の果てまで昇る、と」
聖都の書庫で、読みあげられたのを聞いた。書いてあることは、書いてあるとおりになる。そう思って、ずっと罪状帳を書いてきた。
勝手口の外で声がした。庇の下の柱に、いつのまにかレオニスがもたれていた。
「書いた奴は、続きを知らねえだろ」
それだけ言って、また梯子を上がっていった。
ミレイアは少しのあいだ、卓の上の自分の指を見ていた。
それから、二階の窓から庇へ出た。
板の上に、レオニスが寝転がっていた。外套は、ない。師匠の鉄剣を枕にしていた。
空は、白かった。星は、どこにもなかった。
ミレイアは少し間をあけて、腰を下ろした。
胸もとの聖印は、ここでもぬるかった。
板の上に落ちたふたりぶんの影は、ひとつが、もうひとつより、淡かった。
「罪状帳に、書きました」
「……何を」
「屋根裏の寝床に、帰ってきた、と」
レオニスが、片目だけこちらへ向けた。
「罪状かよ、それ」
「罪状では、ありません」
「じゃあ、なんで書いた」
「書いておきたかったので」
レオニスは何も言わずに、また空を見た。
しばらくして、ミレイアは言った。
「パン」
「……ん」
「食べました。半分」
レオニスは白い空を見たまま、口の端だけで少し、笑った。
「そうかよ」
しばらく、どちらも黙っていた。
ミレイアは、板の上の淡いほうの影を見た。
「怖くは、ないのですか」
「俺がか」
レオニスは鼻で笑った。
「怖えのは、爺さんのほうだろ。顔も知らねえ親父に、会いに行くんだぞ。三百年ぶりに」
少しだけ、声が低くなった。
「……泣かせてやるって、言っちまったしな」
ミレイアは、黙っていた。言わなくても、聞いていることは、わかっているはずだった。
坂の下から、どこかの家の笑い声が上がってくる。戸口という戸口に、白い字の名前が並んでいるはずだった。
聖都では、回廊に、残った。
衛士たちの槍の前で剣を抜いて、ここを、自分で選ぶ、と決めた。あの人は、白陽の間の、そのまた奥にいた。隣には、いられなかった。
帰ってきて、とは言わなかった。
前に一度だけ、言った。あなたが帰ってくるのが、私の欲です、と。言葉は、本当だった。けれど、待っているあいだ、隣は、空いていた。
「……今度は、待ちません」
レオニスの顔が、こちらを向きかけた。
「隣に、います」
レオニスは、また空のほうを見た。
「……来んなって言っても、来んだろ」
「はい」
目のふちが、熱くなった。
白い光の中で、それが光ったのだと思う。
レオニスが、寝返りを打った。背中を、こちらへ向けた。いつもの、癖だ。
「……見ねえから」
ミレイアは膝を抱えた。
「……見ないで、ください」
声が、少しふるえた。
しばらくして、ミレイアも背中を向けた。
庇の板の上で、背中と背中が、触れた。
背中は、あたたかかった。白い光の、ぬるいあたたかさとは、違った。
ふたりはそのまま、白い夜を過ごした。
◆
新月の日の、夕方だった。
パン屋の前を通ると、表の窓は、開いていた。木枠に、白い字がひとつ残っていた。ユナの字だった。焼き場の奥で親父が何か焼いていた。五人前の匂いがした。
大聖堂の前の広場は、人で埋まっていた。
誰もが白い空を見上げて、笑っていた。手を組んで。肩を並べて。籠を抱えた女も、荷車を引く男も、屋台の前の子供たちも。坂の家々の戸口にも、通りの窓という窓にも、白い字の名前が並んでいた。書いてあるもの。消えかけたもの。消されたあとの、白いかすれ。
レオニスは人のあいだを抜けて、開け放した大聖堂の扉をくぐった。
身廊も、人でいっぱいだった。
祭壇の脇に、新しい司教が立っていた。金糸の縁取りの法衣。その隣に、白い衣の侍祭たち。壁ぎわには、白銀の鎧の神殿騎士がずらりと並んでいた。
前のほうの席に、ルカーシュが座っていた。王家の使いだという。こちらに気づいて、ほんのわずか顎を引いた。
隣で、ミレイアが胸もとの聖印に触れた。
「熱いです」
「ぬるいんじゃなかったのか」
「近づくほど、熱くなります」
うしろに、シエルとヘルミがいた。シエルは、ヘルミの袖を握っていた。ゴドフロワとガルドは、身廊の右の壁ぎわにふたり並んで立っていた。熊がふたり、並んでいるようだった。まわりの人々が少しずつ、そこだけ間をあけていた。
自分の足もとを、見下ろした。
影は、あるのかないのか、わからないほど、淡かった。
鐘が、鳴った。
扉のほうから、白い衣の列が入ってきた。
先頭に、白い手袋の侍祭長。そのうしろに、爺さんがいた。
白い衣だった。裸足だった。胸に、畳んだ黒い外套を片腕で抱えていた。
隣に、アルバンがいた。
ランタンを、持っていなかった。右の手は、空いていた。その手で、爺さんの空いたほうの手を握っていた。
身廊の人々が手を組んで、頭を下げた。
白い衣は、似合っていなかった。黒い外套を抱えている腕のほうが、ずっとしっくりきていた。
爺さんは、レオニスの前で足を止めた。
黒い外套を、少しだけ持ちあげてみせた。
「……借りておる」
「おう。そのうち、返せ」
爺さんはうなずいた。それから、また歩いていった。祭壇のほうへ。
アルバンが、すれ違いざまにこちらを見た。口は、開かなかった。目だけで小さく、頭を下げた。
侍祭長が、ふとこちらを振り返った。その顔に笑みは、なかった。それきり、前を向いた。
司教が、よく通る声で読みあげはじめた。白陽を迎える言葉らしかった。身廊の人々が、口々にそれをなぞった。泣く者なき昼を、と。
高い窓の外で、陽が沈んでいく刻だった。
窓の外の空は、まだ白かった。
新月だ。月の出は、ない。
足もとがかすかに震えた。
祭壇の足もとの床が、黒く、裂けた。
身廊じゅうが、どよめいた。どよめいて、それから、笑った。
うしろでシエルが、両手を胸の前で、器のように丸めた。指のすきまを、ぴたりと閉じて。
裂け目の下から、石の階段が闇の底へと続いている。
何度も、見た。あの晩も、冬至の晩も。
侍祭長が先に立って、階段へ下りていった。白い衣の侍祭たちが、続いた。
爺さんは裂け目の縁で、一度だけ立ちどまった。アルバンの手を、握りなおした。
それから、下りていった。灰色の頭も、明かりを持たずに。
扉のほうから、光が、来た。
白陽だった。空から降りてきた。開け放した扉をくぐって、身廊の上をゆっくりと渡ってくる。人々の顔が白く照らされて、いっせいに笑み崩れた。誰かが、ありがたや、と言った。
まぶしくは、なかった。白い、だけだった。
胸の底が、ぬるく、動いた。
白陽は、祭壇の上で少し、とどまった。
それから、裂け目へ沈みはじめた。
裂け目の縁に、侍祭長がひとり残っていた。
振り返って、身廊の、こちらを見た。
深々と、頭を下げた。
「お待ちしておりました、白い闇司祭さま」
よく通る声では、なかった。それでも、聞こえた。
わなだ。わかっていた。
決めて、行くさ。
レオニスは、前へ出た。ミレイアが、隣に並んだ。シエルとヘルミが、うしろに続いた。
司教の声が身廊に響いた。
「闇司祭を、捕らえよ。匿った者も、ともに」
壁ぎわの神殿騎士たちが、動いた。白銀の鎧が、いっせいに鳴った。身廊の人々が笑いながら、道をあけた。何が起きているのか、誰も気にしていないようだった。
その前に、ふたつの大きな背中が、立った。
ゴドフロワと、ガルドだった。裂け目の縁の、階段の口に。
ガルドが肩ごしに、裂け目の下を覗きこんだ。
「……また、階段か」
先頭の騎士が、槍を突きだした。ゴドフロワが、その柄を素手でつかんだ。引いても、押しても、穂先は少しも動かなかった。
年かさの騎士が白い髭を見て、目を見開いた。
「……団長、どの」
「元、だ」
ゴドフロワは柄をつかんだまま、肩ごしに言った。
「行け」
ガルドが飛びかかってきた騎士の襟首を片手でつかんで、うしろの騎士の上へ放りだした。鎧と鎧が、派手な音を立てた。
「階段は、通さねえ」
ミレイアが、剣を抜いた。抜いただけで、構えはしなかった。
「私は、斬りません。……罪状帳も、持ってきました」
「何に使うんだよ、こんなとこで」
「書きます」
当たり前のような顔だった。
レオニスは、階段に足をかけた。
白陽が、裂け目の奥へ沈んでいく。階段を、白く照らしながら。
下から、白い光が上がってくる。その奥に、爺さんと灰色の頭がいる。ひを抱いた、かあさまも。
三段下りたところで、振り返った。
ガルドの背中とゴドフロワの背中のあいだから、開け放した扉の向こうの広場の空が見えた。
白くなかった。
茜色だった。それが、ゆっくりと藍に沈んでいく。広場の人々が笑うのをやめて、空を見上げていた。籠を抱えた女が。荷車を引く男が。屋台の前の子供たちが。
十六日ぶりに、王都に日が暮れた。




