第五章 白墨の名前
夜が来なくなって、三日がたった。
冬のはじめだというのに、坂の石畳は春の真昼のように温かい。陽だまりの家の石段に腰を下ろすと、尻の下からぬくもりがじわりと上がってくる。
空は、どこまでも白かった。
川沿いのパン屋のあたりの真上に、白い陽がひとつ、かかっている。息をするように、膨らんでは、しぼむ。ときどき、ふっと翳る。欲張りが北から連れてきた爺さんが、あの店の奥の暗がりで眠っているのだという。
坂の下の通りで、誰かが笑っていた。
誰かが、いつも笑っていた。荷車を引く男も、籠を抱えた女も、すれ違うたびに目を細めて、白い空を見上げる。大聖堂の前の広場は、白陽を拝む人で朝も晩もなく埋まっているという。市場から戻ったヘルミが、そう言っていた。
ヘルミは王都に着いた晩から、この家の台所に立っている。子供たちの鍋を、もう二度、焦がした。ゴドフロワは戸口の石段のいちばん上に、腕を組んで座ったきり動かない。番だ、と本人は言う。寝るのも、そこだった。
石段の下を、子供たちが駆けまわっていた。
いちばん小さな女の子が、石段の角につまずいた。膝から石畳に落ちた。
ガルドは腰を浮かせた。
女の子は、自分で起きあがった。すりむいた膝に、血がにじんでいる。それを見下ろして、笑った。
「……痛くねえのか」
「いたくないよ」
けらけらと笑って、また駆けていった。
ガルドは、浮かせた腰を石段に戻した。
この家のガキどもは、よく泣いた。転んでは泣き、腹が減っては泣き、夜中に目を覚ましては泣いた。泣き声がしないのは、眠っているときくらいのものだった。
白い陽が来てから、泣き声をひとつも聞いていない。
眠っているところも、見ていなかった。
左の手首に、指がいった。
色の褪せた、茜色のリボン。エルナの髪のと、揃いだ。
それは、わかる。
黒い髪。自分と同じ、鋼色の目。濃紺のドレス。言葉なら、いくらでも並べられる。並べた言葉が、ひとつの顔にならない。思い出そうとするたびに、白い霧がかかる。霧の向こうに、誰かが立っている。そこまでだった。
週に一度、伯爵家へ顔を見に行く。次に行く日は、四日あとだった。
門の前で出てきた女を見て、また、あれを言うのではないか。
――どちらさまで。
一度、言ったことがある。浄められたあとで、妹に。
その昼過ぎ、北の門から白い行列が入ってきた。
坂の上からでも、よく見えた。白い衣の列と、白い馬と、白い幟。幟は、一枚もはためいていなかった。風が、なかった。
列のなかほどに、白い輿がひとつまじっていた。窓掛けは、下りたままだった。乗るはずの爺さんは、川沿いのパン屋の奥で寝ている。
行列は大通りをゆっくりと下っていって、大聖堂の門に吸いこまれた。
あくる日、坂を白い衣がふたつ、上がってきた。
前を行く男は、胸の前で手を組んでいた。
白い手袋だった。
――あの、白い手袋の。
この家の台所で、ミレイアがそう言った。灰色の髪の審問官が、二十五年前の記録を読みあげた日だ。北の谷を浄めさせた文を、聖都から携えてきた侍祭。記録のその侍祭のところに、いまの侍祭長の名が書き添えてあったという。
侍祭長は陽だまりの家のまわりをゆっくりと、ひとめぐりした。
二階の窓を見上げ、庇を見上げ、開いた窓の奥の梁をのぞいた。石段のゴドフロワには、深く、頭を下げた。ゴドフロワは腕を組んだまま、顎をわずかに引いただけだった。
見て回る、という歩き方だった。
それから、台所の裏へ回ってきた。
ガルドは物置の戸口に座って、寝台の脚を小刀で削っていた。手は、止めなかった。
白い衣の裾が、目の前で止まった。
侍祭長が膝をついた。白い衣の膝が、土についた。
目の高さが同じになった。五十をいくつも過ぎた顔だった。少しも、笑っていなかった。
その目が、ガルドの左の手首で止まった。
「……お顔が、出てまいりませんか」
小刀が、止まった。
「白陽のお膝もとでは、どなたも、そうなります。悲しいことから、先に、遠くなるのです」
侍祭長は、組んだ手を膝の上に置いた。
「私も、二十五年、そうでございました」
やわらかい声だった。
「お消しなさいませ。忘れてしまえば、もう、痛みませんよ」
何か、言い返そうとした。
口が、動かなかった。
昔、黒い石を袋に詰めて、村々に配らせたことがある。握って、痛え思い出を思い浮かべれば、それをこっちが持っていく。慈悲の石、と手下どもは呼んでいた。
忘れちまえば、痛まねえ。
目の前の男が差しだしているのは、あのとき自分が配ったものと同じだった。
侍祭長は、返事を待たなかった。立ちあがって、深く、頭を下げた。白い衣の膝に、土がついていた。払いもせずに、もうひとりの白い衣を連れて坂を下りていった。
ガルドは、小刀を膝に置いた。
――やった奴は、覚えてねえ、か。
審問官が記録を読んだ日に、台所で自分で言ったことだった。
あの男も、二十五年、覚えていなかったと言う。そうして、忘れろ、と言う。
物置の棚に手を伸ばした。
石板だった。エルナが牢に置いていったものだ。
いちばん上に、欲張りの字があった。
――エルナ。
消えかけるたびに、なぞってきた。線が、ほかの字より太い。
その下に、同じ名前が並んでいる。大きいのも、傾いたのも、ある。毎朝この戸口に座って、自分で書いてきた字だった。石板がいっぱいになると、自分の字だけを消して、また書いた。
浄められた朝にも、この石板を読んだことがある。
こいつは、誰の名前だ、と欲張りに訊いた。字の向こうには、何もなかった。
今は、ある。
白い霧の奥に、誰かが立っている。顔の、輪郭だけが。
――お消しなさいませ。
太い指で、自分の字をなぞった。一度。二度。
「……思い出す」
霧が、ほどけた。
黒い髪に、茜色のリボン。自分と同じ、鋼色の目。泣きそうなのをこらえて、笑っている顔だった。牢へ戻る朝、伯爵家の門の前で手首のリボンをきつく結びなおしてくれた。止めもしないで。――あの朝の、顔だった。
――兄さん。
声まで、した。
ガルドは石板を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「……俺の、字だ」
白墨を、つかんだ。
家に入って、壁に書いた。寝台のわきの壁に、その寝台で眠る子の名前を。寝台の脚にも。梁の名前は、寝転がらなきゃ見えねえ。
子供たちが、何が始まったのかと、集まってきた。
いちばん小さな女の子が、膝に血をにじませたまま、けらけらと笑っていた。
ガルドは、その子を抱きあげた。窓ぎわの寝台の上の梁を、指さした。
「読め。お前の名前だ」
女の子は梁を見上げた。
唇が、ひと文字ずつ動いた。自分の名前を、読んだ。
それから、思い出したように自分の膝を見下ろした。
顔が、くしゃりと歪んだ。
「……いたい」
泣きだした。
「おう。痛えな」
抱いたまま、小さな背中を叩いてやった。泣き声が、家じゅうに響いた。白い陽が来てから、はじめての泣き声だった。
ほかの子供たちも、梁を見上げていた。自分の名前を読んで、泣きだす子がいた。読んで、笑っている子もいた。
台所から、ヘルミが前掛けで手を拭きながら出てきた。泣いている子のそばにしゃがみこんで、背中をさすった。泣きやませようとは、しなかった。
戸口の石段で、ゴドフロワが白い髭をゆっくりとしごいていた。
昼過ぎに、粉袋を担いだ若い男が坂を駆けあがってきた。
「頭!」
ドルフだった。髪から靴の先まで、粉まみれだった。ミルテの水車小屋で挽いた粉を、ときどき王都のパン屋まで届けに来る。そのたびに、この家にもひと袋、置いていくのだ。
ドルフは粉袋を石段に下ろすと、壁の白い字に目をまるくした。
「これ、頭が書いたんですか」
「おう」
ドルフは、勢いよく腕まくりをした。
「頭! 俺も、書けます!」
「お前、字、書けたのか」
「頭の名前だけ!」
坂の下の家の戸口から、婆さんが顔を出した。
「あんたたち、何を書いてるんだい」
ドルフが胸を張った。
「名前です! 大事な人の!」
婆さんは、にこにこと手を叩いた。
「じゃあ、うちのにも書いとくれよ。じいさんの名前」
「任せてください!」
止める暇は、なかった。ドルフは婆さんの家の戸口に、白墨で大きく書いた。
――ガルド。
婆さんはにこにこしたまま、首をかしげた。
「うちのじいさん、そんな名前だったかねえ」
「頭の名前です!」
「消せ」
ドルフは粉まみれの袖で、ごしごしとこすった。戸口が、前より白くなった。
婆さんに訊いて、じいさんの名前は、ガルドが書いた。
婆さんは、戸口の字をしばらく見ていた。笑ったまま、前掛けの端で目もとを押さえた。
それから、坂の家を一軒ずつ回った。ガルドが書くたびに、ドルフは同じ字を指で宙に書いた。三軒目で、婆さんのじいさんの名前が書けるようになった。五軒目で、四軒目の娘の名前が書けるようになった。
白い陽は、沈まない。やめどきが、なかった。
イルザに会いに行ったのは、その晩だった。
王都の牢は、自分がいたころと何も変わっていなかった。湿った石の匂い。鉄の格子。違うのは、格子の向こうで囚人たちが笑っていることだった。牢番まで、格子の前の椅子でにこにこしていた。
いちばん奥の牢で、イルザが寝台の端に腰かけていた。
笑っていなかった。
鋭い目が、格子ごしにこちらを見上げた。
「頭じゃないか」
「おう」
ガルドは、格子の前にしゃがみこんだ。
「お前は、笑わねえんだな」
イルザは鼻を鳴らした。
「……あたしは、渡さないよ」
何を、とは訊かなかった。
格子の向こうで、ほかの囚人が何かに笑いころげていた。イルザは、そちらを見もしなかった。
「頭は」
「……あやうく、渡しかけた」
左の手首のリボンを、親指でなぞった。
「エルナの顔をな」
イルザの目が、ガルドの手もとに落ちた。指に、白墨の粉がこびりついていた。
「……頭が、字なんか書いてんのかい」
「悪いか」
イルザはしばらく、ガルドの指を見ていた。
「……悪かないよ」
◆
裁きの日の朝も、ミレイアは罪状帳の頁のいちばん上に、ふたつの名前を書いた。
書いているあいだは、父の大きな笑い声がする。ペンを置くと、また少し、遠くなる。聖都の白い通りで、毎朝そうだったように。
その下に、一行、足した。
――降陽の儀まで九日:屋根裏の寝床、三晩つづけて、からっぽ。
監視対象は、どこかの屋根の下で子供たちに夜を配って歩いているらしい。粉屋の裏で見た、とドルフが言っていた。
裁きの間の白い石は、壁と床の境目もわからないほど、白かった。高い窓から、光が差しこんでいる。磨かれた床に落ちる影は、どれも淡くにじんでいた。
壇の上の判事は、白い髭をたくわえた年老いた男だった。
ボルグの裁きのときと、同じ人だ。あのときは、乾いた声の人だと思った。
今日は、にこにこと笑っていた。
壇の下に、イルザが立っていた。枷は両の手首にはまっている。腰には、何も巻いていなかった。
傍聴の席も、笑っている人ばかりだった。いちばんうしろの壁に、ガルドが腕を組んでもたれていた。判事の脇の席には、ルカーシュがいた。王家の使いとして、座っているのだという。
ミレイアは証人の席で、胸もとの聖印に触れた。
ぬるかった。
罪状が、読みあげられた。黒狼の里の闇司祭。ミルテ村をはじめ、いくつもの村の人々を、黒い鎖で繋いだこと。
読みあげが終わると、判事の向かいの席で白い法衣の男が立ちあがった。
金糸の縁取り。広場で布告を読みあげた、新しい司教だった。
「教会より、浄化の赦しを申し出ます」
よく通る声だった。
「白陽のお膝もとでございます。いまなら、司祭の浄めも、罪の記憶まで届きましょう。罪を覆えば、罪人はおりません。裁くまでも、ございません」
傍聴の席から、ため息のような声が上がった。
判事が目を細めて、うなずいた。
「それは、よい。それは、よいな」
イルザは司教のほうを、見なかった。
枷のはまった手を、腹の前で組んだ。
「……あたしが何をしたか、あたしが覚えてなきゃ、誰が鎖の村の連中に詫びるんだい」
裁きの間が、静かになった。
ミレイアは、北の鉱山の熊のような背中を思った。空っぽの右袖を腰紐に留めて、笑っている男たちのあいだを、ひとりだけ籠を担いで歩いていた背中を。
判事が、ゆっくりとまばたきをした。
「証人。前へ」
ミレイアは、証言台へ進み出た。
息を、吸った。
「ミルテ村で、村の人たちの足首に黒い鎖が巻かれているのを、見ました。巻いたのは、この人です」
イルザは、目を伏せなかった。
「鎖のついた女の子を見せしめに、引きずっていこうとしたのも、この人です」
唇を噛んで、この人を睨みあげていた、ユナの顔が浮かんだ。
「負けたあと、井戸の縁で縛られたまま、この人は言いました。……最低だよね、と」
イルザの口の端が、ほんの少し動いた。
「それから、黒狼の里の炊事場で、この人が前掛けをして、子供たちの鍋を見ているのを、見ました」
息をひとつ、吸いなおした。
「私が見たのは、それで、全部です」
足しも、削りも、しなかった。
判事が口を開きかけた。
その脇で、ルカーシュが立ちあがった。
「王家より、申しあげます」
ルカーシュの声は、穏やかだった。
「陛下は、白陽をお迎えになるそうです。……裁きは、そのあとで、と」
判事は笑ったまま、うなずいた。司教は黙って、席に戻った。
イルザは牢番に連れられて、出ていった。扉のところで、一度だけ振り返った。傍聴の席の、いちばんうしろを見ていた。
廊下に出ると、ルカーシュがガルドの前で足を止めていた。
「エルナが、窓にあなたの名前を書いていました。白陽が来た、次の朝に」
ガルドは、しばらく黙っていた。太い指が、左の手首のリボンに触れた。
「……おう」
それだけ言って、ガルドは伯爵家のほうへ、大股に歩いていった。週に一度の日では、なかった。
大聖堂の前の広場は、人で埋まっていた。
誰もが手を組んで、白い空を見上げていた。笑っていた。石段の脇の掲示板には、紙が一枚増えていた。
――白き闇司祭、猊下を、かどわかす。見つけし者は、聖都の衛士へ、届け出よ。
寝癖のある黒髪。琥珀色の目。外套なし。足を止めて読む者は、いなかった。
人のあいだを抜けていこうとして、足が止まった。
若い女が、立っていた。
布告の朝、この掲示板の前で枯れた花の束を抱えていた人だ。もう、泣かずにすむのですか、と誰にともなく訊いていた。坊やを亡くした人なのだと、あとでユナから聞いた。
腕の中に花の束は、なかった。
女のほうも、ミレイアに気づいた。小さく、頭を下げた。パン屋の紙の包みを、ひとつ提げていた。
笑っていた。口もとだけでは、なかった。目も、頬も、やわらかくほどけていた。
ミレイアの目が、からっぽの腕にいった。
女は自分の腕を見下ろして、それからまた笑った。
「……もう、いいんです」
それだけ言って、人のあいだにまぎれていった。
ミレイアは、何も言えなかった。
思い出してください、とは言えなかった。それは、もう一度、泣いてください、と言うのと同じだった。
パン屋に戻ると、ユナが店先の窓の前に立っていた。
白墨を、握っていた。
ミレイアに気づくと、ユナは窓の木枠を見て、それからミレイアを見た。
「お母さんの名前、書きたい」
小さな声で名を言った。
ミレイアは作業台に打ち粉を広げて、指でその名を書いた。ユナが首をのばして、覗きこんだ。
それから、窓の木枠に白墨を当てた。粉の上の字を見ては、ひと文字ずつ書き写した。線が、震えた。
書き終えても、ユナは白墨を握ったまま、自分の字をじっと見ていた。
はじめて字になった、母の名だった。娘の足首の鎖に、何度も、何度も、鉈を振りおろした人の、名だった。
焼き場の戸口で、親父が腕を組んでそれを見ていた。
親父は、何も書かなかった。表の窓は、開けはなしたままだった。
あくる日から、ミレイアは坂を上った。
ガルドとドルフが書いて回った戸口の前に、人が集まっていた。うちのも書いてくれ、と口々に言う。
ミレイアは、白墨をひとりずつの手に握らせた。
「ご自分で書いてください。書いているあいだは、少し、近くなります」
聖都で、毎朝そうだった。
字を知らない人には、ミレイアが戸口に薄く書いた。その上を、本人になぞってもらった。
年寄りの男が戸口の柱に、震える手で名前をひとつ書いた。書き終えると、柱に額をつけて、しばらく動かなかった。赤ん坊を抱いた若い母親が、窓の下に名前をふたつ並べた。ひとつは、腕の中の子の名だった。
日がたつにつれて、戸口という戸口に、窓という窓に、白い字の名前が増えていった。
白い都に、白い字で、名前。
書かない人も、いた。書いて、自分で消してしまう人も、いた。
◆
暗かった。
鎧戸の、板と板の合わせめから、白い光が一本だけ、細く床に落ちている。そのほかは、何もかもが暗かった。
教皇は床の上で、膝を胸のほうへ寄せたまま、目を開けた。
よく、眠った。
どれほど眠ったのかは、わからない。ここでは、白い光が刻を教えない。
王都に着いた晩、粉だらけの前掛けの男がこの窓の前に立った。
川に面した、奥の窓だった。外側に、板の戸がついていた。男は窓から身を乗りだして、その留め金を外した。留め金が、きしんだ。長いこと誰も動かしたことのない音だった。
「……奥は、閉める」
板の戸が、閉まった。食堂が、暗くなった。
うしろで、白い闇司祭が口を開いた。
男は振り向かずに、言った。
「表は、閉めねえ」
鎧戸、というのだと、あとで頬に粉をつけた娘が教えてくれた。
教皇は、覚えた言葉を数えてみた。
はんぶんこ。誘拐。揃い。鎧戸。
アルバン。
遠くなっていなかった。白い野では、二日で落とした名が、この暗がりでは落ちない。
戸の向こうの廊下に、アルバンが座っているはずだった。戸口の外の床の上に、背筋を伸ばして。
朝が来ると、焼き場のほうから声がする。おはようございます、と。銀色の髪の娘の声だ。それから、竈の火のはぜる音。それから、戸が開いて前掛けの男が籠を置いていく。
はじめの朝、籠には丸パンが五つ入っていた。
教皇はそれを数えた。
「五つ、ある」
「五人前だろ、どうせ」
「……我は、ひとりだ」
男はもう、戸口まで戻っていた。
「足りなきゃ、言え」
戸が、閉まった。
教皇はひとつを両手で持って、ちぎって食べた。まだ、あたたかかった。
残りの四つは、卓の上に残った。
あくる朝も、五つだった。その次の朝も、五つだった。
卓の端に、丸パンが山になった。
頬に粉をつけた娘がそれを見て、黙って籠を取りに走った。昼過ぎに亜麻色の娘がその籠を抱えて、坂の上の家へ運んでいった。
次の朝も、五つだった。
ある朝、前掛けの男は籠を置いても、出ていかなかった。
向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。籠からひとつ取って、黙って食べはじめた。
年寄りがふたり、暗い食堂で丸パンを食べた。
表の店のほうからは、いつも白い光が廊下を伝ってくる。戸の下から、細く入ってくる。表の窓は、一度も閉まったことがないのだという。
「……汝は、なぜ、表の窓を閉めぬ」
男の口が、止まった。
「……閉めたら、帰ってこられねえだろ」
「誰が」
男は、残りのパンを口に押しこんだ。立ちあがって、戸口へ向かった。
「……さあな」
戸が、閉まった。
籠の中のパンが、ひとつ、減っていた。
王都に着いて、十日あまりが過ぎた晩だった。
からっぽの籠を抱えて、亜麻色の娘が戸を開けた。
暗がりの中の教皇を見つけると、首を、少しだけ、右にかしげた。
「みんな、ねむれないの」
籠を胸に抱きなおした。
「わらってるのに、ねむれないの」
教皇は、床から身を起こした。
「……見に、行く」
戸口を出ると、廊下でアルバンが立ちあがった。何も、訊かなかった。
表へ出ると、白かった。
毛の靴下で石畳を踏んだ。温かかった。
白い陽が川の上から、少し遅れてついてきた。坂を上るあいだ、頭の上でずっと白く光っていた。
通りの人々が黒い外套の老人に、にこにこと道をあけた。猊下、と呼ぶ者は、いなかった。
隣を、アルバンが歩いた。
坂の上の家は、窓が大きかった。
戸口の石段に、白い髭の御者が腕を組んで座っていた。教皇を見ると、黙って脇へ寄った。アルバンは、その隣で足を止めた。戸口の外に立ったまま、入ってはこなかった。
二階に寝台が並んでいた。
寝台の上で、子供たちが目を開けていた。
笑っていた。
誰も、眠っていなかった。
「眠らぬのか」
いちばん手前の寝台の子が、くすくすと笑った。
「ねむくないの」
教皇は、その子の顔を見ていた。
白陽の間で、眠くなったことは、なかった。この夏まで、一度も。
どの寝台の上の梁にも、白い字が書いてあった。寝台のわきの壁にも。寝台の脚にも。白い光の中でも、白い字は白いまま、そこにあった。
亜麻色の娘が、寝台から寝台へ回りはじめた。
ひとりの枕もとに、膝をつく。両手を、器のように丸めて、その子のまぶたの上にかざす。指のすきまを、ぴたりと閉じて。
しばらくすると、笑い声が止まった。寝息に、変わった。
娘は次の寝台へ移った。
眠った子のまつげの先が、少しだけ、濡れていた。
教皇は、自分の目のふちに指を当ててみた。
乾いていた。
窓の下の床に、膝を抱えて座った。そこから、ひと晩じゅう娘の背中を見ていた。娘はときどき、膝の上で自分の手のひらを開いたり閉じたりした。それから、また次の寝台へ行った。
階段がきしんで、大きな男が上がってきた。手に白墨を持っていた。寝台の脚の、かすれかけた字を一本ずつ、なぞりなおしていく。教皇に気づくと、手を止めた。それから、黙って次の脚へ移った。
黒い外套の裾が、引かれた。
この家の、いちばん小さな女の子だった。寝台を抜けだして、裸足でそこに立っていた。膝に、小さなかさぶたがあった。
「……おじいちゃんも、よるが、こわいの?」
教皇は女の子を見上げた。
「……夜を、知らぬ」
女の子は、少し考える顔をした。
「じゃあ、みせてあげる」
窓ぎわの寝台に、よじのぼった。窓掛けの紐を、両手でつかんだ。新しい麻紐だった。端の結び目が、二重になっていた。
紐を、引いた。
窓掛けが、手のひらひとつぶんだけ、開いた。
外は、白かった。
女の子は、すきまに顔を寄せた。しばらく、そうしていた。
「……ほし、ないね」
笑っていた。
教皇は、すきまの白を見ていた。
白い陽は、この家の真上にかかっているのだろう。教皇が、ここにいるのだから。
女の子は寝台にもぐりこんで、梁を指さした。
「あれ、わたしの、なまえ」
教皇は梁を見上げた。白い字が、並んでいた。
女の子が、自分の名を言った。
亜麻色の娘が寝台のそばへ来て、膝をついた。丸めた両手を、女の子のまぶたの上にかざした。
女の子はすぐに、眠った。
朝の鐘が、鳴った。
空の白さは、少しも変わらなかった。けれど、鐘は朝だと言った。
亜麻色の娘は最後の寝台のそばに膝をついたまま、自分の手のひらを見下ろしていた。
「……もっと、くらく、できたらいいのに」
ひとりごとのような声だった。
亜麻色の娘に手を引かれて、坂を下りた。隣を、アルバンが歩いた。
川沿いの店の前に、白い衣が立っていた。
若い侍祭だった。台を挟んで、前掛けの男と向きあっていた。竈の前で、頬に粉をつけた娘が手を止めていた。
侍祭は教皇に気づくと、石畳に膝をついた。
「猊下」
うつむいたまま、平らな声で続けた。
「侍祭長さまより、申しあげます。――闇司祭を、匿うなかれ。布告の、とおりにございます」
顔は、上げなかった。
「猊下をかどわかした白い闇司祭さまの出入りする家を、閉じさせていただきます。坂の上の、陽だまりの家を」
亜麻色の娘の手が、教皇の指をきゅっと握った。
「子供らは、大聖堂の宿舎にてお預かりいたします。泣く子は、浄めて差しあげます、と」
侍祭は、そこで言葉を切った。
「猊下が儀にお出ましくださいますなら、そのようにはいたしませぬ、と」
教皇は、坂の上を振り返った。
家の屋根は、ここからは見えなかった。窓の大きな家。梁の白い字。寝台から寝台へ回っていった、娘の背中。ほし、ないね、と笑っていた声。
「……かまわぬ」
白陽の間で、日に何度も口にしてきた言葉だった。
今朝は、それが口の中で、重かった。
侍祭が、顔を上げた。教皇の肩の黒い外套に、目をとめた。
「では、お召しかえを」
「……借りておく」
教皇は、外套の前を両手で合わせた。
亜麻色の娘が、握っていた手を、そっとほどいた。
アルバンが、隣に並んだ。
「……ひとりには、させません」
教皇は、灰色の頭を見上げた。
「……アルバン」
名は、まだ遠くなかった。
前掛けの男は台の向こうで、何も言わなかった。丸パンを紙に包む手だけが、止まっていた。
大聖堂のほうへ、歩きだした。頭の上で、白い陽もゆっくりと動きはじめた。
角を曲がる前に、一度だけ、振り返った。
店先に、亜麻色の娘が立っていた。両手を胸の前で、器のように丸めていた。
その脇で、表の窓は、開いたままだった。
◆
毛布を、頭からかぶった。
ガキと、ふたりで。狭い。
坂の途中の家の、二階だった。母親が戸口で、にこにこと見ていた。
毛布の中は、暗い。けれど、まだ白い。毛の織り目のすきまから、白い光がにじんでくる。
「我、欲す」
両の手のひらを、ガキの顔の前で丸めた。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
手のひらの中に、夜が、落ちた。
星が、ひとつ、光った。
ガキが息を呑んだ。笑っていた口が、ゆっくりと閉じた。
「おれの?」
「お前のだ」
ガキが、泣きだした。泣きながら、星をずっと見ていた。そのうちに、泣き声が寝息に変わった。
毛布から這いだした。
次の家へ行く。
大聖堂の宿舎の窓から、小さな手が伸びてきた。聖都から行列といっしょに下ってきた、巡礼の子だった。丸めた手のひらを、窓の内側へ差し入れてやった。その子は、長いこと黙っていた。
「……ほし」
「ああ」
粉屋の裏の物置では、兄と妹が寝起きしていた。妹のほうが先に泣いた。
兄は、泣かなかった。手のひらの星を見ながら、妹の頭をずっと撫でていた。
「お前も、泣いていいんだぞ」
兄は、こちらを見た。それから、星に目を戻して、顔をくしゃくしゃにした。
人には、泣けって言っといて。
その先は、考えなかった。
白い夜も、昼も、屋根裏にはもう何日も戻っていなかった。外套は、爺さんに貸したままだ。毛布なら、どこの家にもあった。
配るたびに、影が淡くなった。
物置を出て、石畳の上の自分の影を見下ろした。戸口まで見送りに出てきた兄の影より、淡かった。薄めた墨の、そのまた、もう少し薄い色だった。
王都を、白陽の下に置いたのは、俺だ。
通りで、誰もが笑っている。ガルドが、妹の顔を忘れかけた。ガキどもが、転んでも泣かない。
泣いている暇は、なかった。
泣きたいのに泣かなかった涙は、胸の底で、白になる。それは、もう知っていた。
胸の底が、ぬるい。
――おいで。
ひどく優しい声が、どこかで、した。
聞こえなかったことにした。
「レオニス」
水路のほうから声がした。
振り返ると、ミレイアが立っていた。息を切らして、胸もとの聖印を片手で押さえていた。
「八晩です」
「……何が」
「屋根裏の寝床が、からっぽの晩です。罪状帳に、書いてあります」
ミレイアは、聖印を押さえた手に力をこめた。
「聖印が、ぬるいです。あなたの、そばだと」
その目が、石畳に落ちた。並んで落ちた、ふたつの影に。
「……影が、薄いです」
レオニスは、首のうしろに手をやった。
「……ガキどもが、星、見てえってよ」
ミレイアの返事は、なかった。
レオニスの袖を、つかんだ。
「帰ります」
「……腹、減った」
ミレイアが、ほんの少しだけこちらの顔を見た。
「五人前、あります」
袖を引かれたまま、川沿いを歩いた。
パン屋の前で、足が止まった。
見上げた。
川の上の空に、白陽が、なかった。
大聖堂の屋根の上に、かかっていた。
店に駆けこんだ。奥の食堂の戸を、開けた。
暗かった。鎧戸は、閉まったままだった。板の合わせめから、細い白が一本、床に落ちている。
誰も、いなかった。
卓の上に、籠がひとつ。丸パンが、五つ。
うしろで床板が鳴った。
親父が、戸口に立っていた。
「……かまわぬ、ってよ」
卓の脇の椅子に、シエルが座っていた。からっぽの籠を、膝に抱えていた。
「おうち、しめるって。みんな、だいせいどうに、つれてくって」
籠の縁を両手で握った。
「……アルも、いった」
シエルは籠の上で、自分の手のひらを見下ろしていた。
かまわぬ。
白陽の間で、何を言われても、そう答えていた爺さんだという。日に何度も。
今度のは、違う。
決めたのは、爺さんだった。
レオニスは、籠から丸パンをひとつ取った。
ふたつに割った。片方を差しだしかけて、手が、止まった。
受けとる手が、なかった。
戸口で親父が背を向けた。
「明日も、五人前、焼いとくからな」
焼き場のほうへ、戻っていった。
ミレイアが卓の端で、罪状帳を開いた。
ペン先がしばらく、頁の上で迷っていた。
――降陽の儀まで四日:教皇を、取り返された。
誘拐、と書いた頁の、ずっと先だった。
夕方の鐘が鳴っても、空は、暮れなかった。
レオニスは、暗い食堂の床に座っていた。爺さんが膝を寄せて眠っていたあたりだった。
店先の鈴が、鳴った。しばらくして、親父が畳んだ紙を持って入ってきた。
「大聖堂の坊主が、置いてった」
紙を開いた。鎧戸の合わせめから落ちる、細い白の上にかざした。
几帳面な字だった。一字一字、角をそろえて並んでいる。アルバンの手だった。
――新月の晩、地の底にて、待つ。
その下に、もう一行。
――来るかどうかは、汝が決めよ。
白陽の間で、聞いた言葉だった。
あの爺さんの、声で。
あのときは、行かねえよ、と答えた。
紙を畳んで、外套の内側へしまおうとした。手が、空を切った。外套は、爺さんが着ていったのだった。
シエルが、籠の縁から顔を上げた。
「……かりておく、って」
口の端が、勝手に上がった。
ミレイアが、こちらを見ていた。
卓の上に、割ったパンの片方が残っていた。
レオニスはそれを取って、ミレイアの手に押しつけた。
「……決めて、行くさ」




