第四章 黒い外套
黒い外套の裾から、裸足の指がのぞいていた。
自分の指だった。
箱馬車が揺れるたびに、黒い裾が指の上でふわりと動く。指はそのたびに、出たり隠れたりした。
外套は、白い闇司祭のものだった。
袖がずいぶん余った。向かいに座った聖女が、それを三つに折りかえしてくれた。折りかえした袖口から、枯れ枝のような手首がのぞいた。裾は、膝の下まであった。
重かった。
白い衣は、何も重くなかった。重いものを着るのは、初めてだった。
外套からは、焚き火と日なたの匂いがした。
箱馬車の中は、輿の中のようには静かでなかった。
車輪が石を踏むたびに、跳ねる。板の壁が、きしむ。そのあいだを、声が行き来していた。
「おねえちゃん、きょうの、おひるは?」
「パンと干したお肉です」
「きのうも、そうだった」
「あしたも、そうですよ」
隣の亜麻色の娘が、足をぶらぶらさせた。
天井で、ごとり、と板が鳴った。銀色の髪の娘が、拳で天井を叩いた。
「屋根で、寝ないでください」
屋根の上から、くぐもった声が降ってきた。
「寝てねえ」
しばらくすると、また板がごとりと鳴った。寝返りの音だった。
教皇は、窓掛けを指で持ち上げてみた。
うしろの空に、白い陽が浮かんでいた。少し遅れて、ついてくる。
振り返るたびに、そこにいた。
窓掛けを下ろした。
昼過ぎに麓の町を通った。
白い陽が町の上の空にかかると、通りの人々が足を止めて、空を見上げた。丘の上で、綿入れを着ぶくれた年寄りが藁で包んだ箱のあいだに立って、こちらを見ていた。
屋根の上で、板がひとつ鳴った。年寄りが片手を、ひょいと上げた。
広場で箱馬車が止まった。銀色の髪の娘が降りていって、しばらくして戻ってきた。
小さな革の靴を、ひと揃い抱えていた。
「猊下。足をお出しください」
教皇は、足を出した。
銀色の髪の娘が膝をついて、靴を履かせた。足の指が、狭いところへ押しこめられた。指と指がくっついて、動かせない。
「……きつい」
教皇は、靴を脱いだ。両方とも。
銀色の髪の娘は、小さく息をついた。脱いだ靴を、膝の上にきちんと揃えて置いた。
御者台のほうから、何かが窓の中へ投げこまれてきた。
毛の、靴下だった。灰色の太い糸で編んだ大きな靴下が、ひと揃い。
「履け」
白い髭の御者の声だった。前を向いたままだった。
履いてみると、つま先が指の先からひとつぶん余った。余ったところが、くたりと垂れた。
亜麻色の娘がそれを見て、くすくすと笑った。
あくる日、箱馬車の中で銀色の髪の娘が小さな帳面に何か書いていた。
揺れるたびに、ペン先が止まり、揺れがおさまると、また動く。
教皇は横から覗きこんだ。
――降陽の儀まで三十二日:教皇を、誘拐。
ペン先が少し止まってから、もう一行書いた。
――共犯。
教皇はその字を眺めた。
「なんと、書いてある」
ペンを止めずに、読みあげてくれた。
「教皇を、誘拐。……共犯」
「……我は、誘拐されたのか」
帳面から、目は上がらなかった。
「されています」
「……そうか」
亜麻色の娘が身を乗り出して、首を少しだけ右にかしげながら、帳面を覗いた。
「わたしも、きょうはん?」
銀色の髪の娘が、ペンを動かしたまま答えた。
「はい」
亜麻色の娘は、なぜだかうれしそうな顔をした。向かいで聖女が、窓のほうへ顔をそむけた。肩が、揺れていた。
その日の昼のことだった。
腹の虫が、鳴いた。
教皇は、自分の腹を見下ろした。黒い外套の、ちょうどまんなかのあたりだった。
もう一度、鳴いた。
「……なにか、おる」
聖女が、両手で口もとを押さえた。銀色の髪の娘の肩が、小刻みに震えだした。屋根の上で、板がごとごとと鳴った。
亜麻色の娘が、膝の上の包みをほどいた。
丸いパンが、ひとつ出てきた。
娘はそれを、両手でふたつに割った。
「はんぶんこ」
割れた片方を、こちらへ差し出してくる。
「はんぶんこ、とは」
娘は、ぱちりとまばたきをした。
「こうするの」
手に残ったほうの半分を、持ち上げてみせた。
「ひとつを、ふたりで。……レオにいちゃんに、おしえてもらったの」
教皇は、受けとった半分を眺めた。
割れたところから、白い、やわらかいものがのぞいている。娘の手に残った半分より、少しだけ大きかった。
長いこと眺めてから、ひと口、かじった。
苦くは、なかった。ほんのりと、しょっぱかった。
腹の中のなにかが、静かになった。
日が落ちても、空は白いままだった。
街道から外れた林のはずれで、白い髭の御者が火を起こした。
教皇は火の前に、膝を抱えて座った。
火はひとつところに、じっとしていなかった。赤いところと、黄色いところと、芯の白いところがあった。ぱちり、と爆ぜては、また揺れる。
ずっと、見ていた。
「……ひを だいて」
口から、こぼれていた。
向かいで聖女が、顔を上げた。口は、開かなかった。
火を見ていると、谷のことが浮かんできた。
白い手袋の、平らな声。――猊下は、いつものように。
かまわぬ、と言うたのは、この口だという。
何度思い返してみても、その日は、どこにもなかった。
悲しい、とはどのようなものか。探してみた。
白い広間の、白い床があるだけだった。
横になっても、眠れなかった。
空が、白すぎた。
亜麻色の娘がそばへ来て、膝をついた。
両手を、器のように丸めた。それを教皇の顔の上へ持ってきて、まぶたの上にそっとかざした。
「……くらい」
「うん。よるだよ」
小さな手のひらの下に、小さな暗がりができていた。
指のすきまから、白い空がほんの少しのぞいていた。娘が指を、ぴたりと閉じた。パンの匂いがした。
教皇は、膝を胸のほうへ寄せた。
すぐに、眠った。
目を開けると、白い闇司祭がこちらを見下ろしていた。
「寝癖、ついてんぞ」
教皇は頭に手をやった。
てっぺんで、髪がひと房立っていた。押さえても、手を離すと、また立った。
白い闇司祭の頭を、見上げた。
黒い髪が、好き勝手な方角を向いている。
「……揃いだな」
白い闇司祭は自分の頭に手をやって、黙った。うしろで亜麻色の娘が、噴き出した。
はんぶんこ。誘拐。揃い。
覚えた言葉を、教皇は口の中で数えてみた。
◆
泣き声は、町に入る手前から聞こえていた。
峠を発って、八日目だった。街道ぞいの小さな町だった。
町はずれの墓地に、黒い服の人々が集まっていた。
アルバンは、馬の背からそれを見ていた。
掘ったばかりの穴の脇に、棺が下ろしてあった。その前で、まだ若い女がひとり膝をついていた。土くれを握りしめたまま、肩を震わせている。まわりの人々もうつむいて、泣いていた。
うしろの空が、明るくなった。
振り返るまでも、なかった。
白い光が、墓地の上にかかった。
泣き声が、ひとつ、やんだ。
また、ひとつ。
うつむいていた顔が、ひとつずつ上がっていく。
女が、顔を上げた。濡れた頬のまま空を見上げて、笑った。
穏やかに、どこまでも優しく。
女は笑いながら、握っていた土くれを棺の上に落とした。ぱらぱらと、乾いた音がした。まわりの人々も、笑っていた。誰かが女の肩を、そっと叩いた。
聖都では、見慣れた顔だった。白い通りを行く人々は、誰もがそういう顔をしていた。
箱馬車の窓に、白い横顔があった。
猊下が窓掛けを指でつまんで、墓地をご覧になっていた。
唇が、動いた。
「……我の、せいか」
アルバンは、答えられなかった。
右手がひとりでに、ランタンの提げ手を探した。
握るものは、どこにもなかった。
猊下の向かいの席で、ヘルミが目を伏せていた。頬に涙のすじがあった。笑っている女のかわりに、泣いているようだった。
その晩は、町はずれの宿に泊まった。馬がもう、歩けなかった。
日が沈んでも、町の空は乳色のまま、暮れなかった。どこかの家から、笑い声が聞こえていた。弔いの家だろうか、と思った。
アルバンは、宿の戸口の外に腰を下ろしていた。
中へは、入らなかった。いつも、そうしてきた。
戸が、きしんだ。
猊下だった。
裸足だった。黒い外套の裾が、戸口の石段を擦った。
猊下はこちらには目を向けずに、宿の前の街道へ下りていかれた。北のほうへ。来た道を、戻るように。
見上げると、白陽が動いていた。猊下の歩みに、少し遅れて。
アルバンは、立ちあがった。
街道は、白く、ほの明るかった。
黒い外套の背中は、小さかった。裾が、土の上を引きずっていた。
白陽が、その頭の上にあった。猊下の足もとには、影が落ちていなかった。
アルバンは、その十歩うしろを歩いた。
白い闇司祭を見届けていたころと、同じ間だった。
町の家々が、うしろへ遠ざかっていく。
猊下が、足を止められた。振り返らずに、仰せになった。
「……戻れ」
アルバンも、足を止めた。十歩うしろで。
「どちらへ、いらっしゃるのですか」
「白い野へ。あそこには、泣く者がおらぬ」
猊下は肩ごしに、うしろの町をご覧になった。乳色の空の下で、屋根が白く光っていた。
「我がおらねば、あの者らは、泣ける」
聖都では、誰も泣かなかった。白陽の、いちばん近くでは。
アルバンは、十歩を詰めた。
猊下の隣に、立った。
「……ひとりには、させません」
かすれた声に、なった。
照らすものは、もう持っていない。
照らさなくても、隣には立てる。
猊下が、こちらを見上げられた。
「……汝がおると、汝も、白くなる」
「……白くなっても、隣におります」
猊下は黙って、アルバンの顔をご覧になっていた。
長い、あいだだった。
「……汝の名は」
アルバンは息を吸った。
聖都でこの方の前に何度膝をついたか、わからない。名を訊かれたことは、一度もなかった。名乗ったことも、なかった。
「……アルバン、と申します」
「……アルバン」
猊下は口の中で、もう一度なぞられた。
「アルバン」
「はい」
「顔も、見ておく」
猊下は背伸びをなさるようにして、アルバンの顔を覗きこまれた。白い眉の下の目が、まっすぐにこちらを向いていた。
アルバンは、目を逸らさなかった。
「汝は、なぜ、戸口におった」
「見届けると、決めましたので」
猊下は、少し首をかしげられた。
「……入れば、よかったのだ」
アルバンは、何も言えなかった。
入れ、と言われたことは、一度もない。――そう、思ってきた。
入ってきてほしかったのか、と訊くことは、できなかった。
猊下は、来た道のほうへお向きになった。
「戻る」
ご自分で、そう仰せになった。
見上げると、白陽も向きを変えていた。
宿の前まで戻ると、箱馬車の御者台の上でゴドフロワが腕を組んで眠っていた。
いびきが、ふたりが前を通りすぎたところで、ひとつ途切れた。それから、思い出したようにまた始まった。
猊下が宿の中へお入りになるのを見届けてから、アルバンは戸口の外に腰を下ろした。懐から、白い革の帳面を出した。
務めは、もう終わっている。それでも、書くのはやめていなかった。
――猊下、夜歩き。半刻。……戻られた。
帳面を閉じて、町のほうを見た。空は、白いままだった。弔いの家の窓に、明かりがひとつ灯っていた。
それから、白い夜の野宿が続いた。町には、泊まらなかった。
二日のあいだ、猊下は何度か、アルバン、とお呼びになった。そのたびに、はい、と答えた。
晩ごとに、シエルが猊下のまぶたの上に両手をかざした。猊下は、すぐにお眠りになる。けれど、先に寝入ってしまうのは、たいていシエルのほうだった。朝になると、小さな手は猊下の頬の脇の毛布の上に落ちていた。
何日か、そうして過ぎた朝だった。
焚き火の跡のそばで、猊下がこちらを見上げられた。
「……灰色の頭」
アルバンは馬の手綱を握ったまま、止まった。
「汝、馬は、もう、よいのか」
いつもの、しわがれた声だった。何ひとつ変わらない声だった。
灰色の頭。
聖都で、初めて声をかけられたときと、同じ呼び方だった。
名で呼ばれるようになって、まだいくらもたっていなかった。
毛布を畳んでいたシエルが、手を止めた。首を、少しだけ、右にかしげた。
「……しろいと、わすれちゃうの」
猊下はきょとんとして、ふたりの顔をかわるがわるご覧になった。
アルバンは、手綱を木の枝に掛けた。猊下の前に、膝をついた。
「アルバン、と申します」
猊下は少しのあいだ、アルバンの顔をじっと見つめられた。
「……アルバン」
「はい」
二度目の、名乗りだった。
何度でも、名乗ろう、と思った。
箱馬車の屋根の上で、レオニスが寝転がっていた。
「猊下が、私の名をお忘れになりました」
レオニスが、片目を開けた。
「白の、せいか」
「シエルさんは、そう言っています」
レオニスは、北の空を見上げた。白陽が、そこにいた。
それから、身を起こした。
「王都まで、あと何日だ」
◆
川の渡しは、灰色の水の上に太い縄を一本張っただけのものだった。
平たい舟がその縄をたぐって、こちら岸と向こう岸を行き来する。渡し守の年寄りは、白い空の下でにこにこしていた。
降陽の儀まで、二十日。
舟には先に、箱馬車と馬を乗せた。ゴドフロワが、馬の頭のそばに立った。ヘルミとシエルも、馬車の脇に乗りこんだ。
残りの者は、次の舟を待つことになった。
猊下は、岸の石の上にしゃがみこんでいらした。毛の靴下を脱いで膝の上に揃え、川の流れをじっとご覧になっていた。
蹄の音が、うしろから聞こえた。
ミレイアは、街道を振り返った。
白い外套の騎馬が、街道を駆けてくる。十騎ほど。先頭の馬に、見覚えのある男が乗っていた。
聖都の衛士たちを束ねる男だった。
行列の先頭で、いつも馬に乗っていた男だ。
男は馬を下りると、レオニスをにらみすえた。
「白い闇司祭。猊下は、聖都の御方だ」
「本人に、訊けよ」
男は、猊下の前に膝をついた。
「猊下。お迎えに、あがりました」
猊下はしゃがんだまま、男をご覧になった。
めずらしい鳥でも眺めるように。
何も、お答えにならなかった。
男の顔が、こわばった。
立ちあがって、うしろの衛士たちに手を振った。
「お連れしろ。……舟も、止めろ」
衛士たちが馬を下りた。剣を、抜いた。
笑っていた。
白陽の下だった。衛士たちの顔は、どれも笑っていた。春の野にでも出てきたような顔で、剣を抜いてこちらへ歩いてくる。
笑っていないのは、先頭の男だけだった。
ミレイアも剣を抜いた。胸の聖印が服の下で、ぬるかった。
うしろで、レオニスが猊下を背中に担ぎあげていた。背中の上で猊下が仰った。
「……汝、重くはないか」
「外套のぶんだけな」
レオニスは、川下のほうへ顎をしゃくった。
「下手に、浅瀬がある。……行くぞ、爺さん」
アルバンが石の上の毛の靴下を拾いあげて、懐に押しこんだ。馬の手綱を取って、レオニスのあとを追った。
衛士がふたり、舟のほうへ駆けていった。舟はまだ、岸からいくらも出ていなかった。
ひとり目が、舟べりに飛びついた。
ゴドフロワが、その襟首と帯をつかんだ。
持ちあげた。
川へ、放った。
白い水柱が、あがった。
ふたり目も、同じだった。ゴドフロワは、剣を持っていなかった。素手のまま、揺れる舟の上に立っていた。そのうしろで、シエルがヘルミの腰にしがみついていた。
三人の衛士がレオニスの背中を追って、川べりを駆けてきた。ミレイアは、そのあいだに割って入った。
ひとり目の剣を、払った。手首を返して、相手の手もとを打つ。剣が石の上に落ちて、跳ねた。
ふたり目。
笑った顔が目の前に来た。歯を見せて笑っていた。剣だけが本気で、振りおろされてくる。
受けた。払った。剣が、川のほうへ飛んでいった。
怖かった。
斬りかかってくる顔が、笑っている。それが、いちばん怖かった。
三人目の剣先が、止まった。ミレイアの剣が、その剣の根もとにからんでいた。
「私は、斬りません」
ひねった。剣が男の手から抜けた。
三人は、自分の空っぽの手を見下ろしていた。それから、顔を見合わせて笑った。
ミレイアは、川のほうを振り返った。
浅瀬の中ほどを、レオニスが膝まで水に浸かって渡っていた。黒い外套の背中から、白い頭がのぞいている。そのうしろを、アルバンが馬を引いて歩いていた。
水音にまじって、しわがれた声が聞こえた。
「……水は、冷たいな」
「冬、だからな」
ミレイアは剣を収めて、川に入った。
冷たかった。白陽の下なのに、水だけが、冷たかった。北の山の雪が溶けて、流れてくるのだろう。
向こう岸に上がると、アルバンが懐から毛の靴下を出して、猊下の濡れた足に履かせているところだった。
渡りきって振り返ると、衛士たちが川から這いあがってくるところだった。濡れた髪から水を垂らして、震えながら笑っていた。剣を落とした三人も、岸の石に腰を下ろして笑っていた。
「追え」
向こう岸で、衛士たちを束ねる男が声を張りあげた。衛士たちは笑いながら、うなずいた。誰も、立ちあがらなかった。
男だけが、こちら岸を見ていた。笑っていない顔で。
あくる日の昼、次の町の広場に手配書が貼ってあった。
白い紙だった。白銀の太陽の紋章の下に、黒い字が並んでいる。
――白き闇司祭、猊下を、かどわかす。見つけし者は、聖都の衛士へ、届け出よ。
――寝癖のある黒髪。琥珀色の目。外套なし。
白い外套の早馬が、先に来ていたのだろう。
広場の人々は、誰も手配書を見ていなかった。白い空の下で、のんびりと笑っていた。
レオニスが隣で、手配書を覗きこんだ。
「また、寝癖かよ」
「人相書き、『寝癖』。正確です」
レオニスは、自分の頭に手をやった。押さえても、また、はねた。
箱馬車の窓から、猊下がこちらをご覧になっていた。
「あの紙には、なんと書いてある」
ミレイアは読みあげた。猊下は少し考えてから、仰った。
「……かどわかす、とは、誘拐のことか」
「はい」
「覚えておる」
どこか、得意そうな声だった。
その晩は、町の宿に泊まった。手配書が貼ってあっても、白陽の下の町では、誰もこちらを見なかった。
宿の食堂の隅の卓で、ミレイアは罪状帳を開いた。
頁の頭には、今朝も父と母の名を書いた。白陽の下を旅して、二週間になる。書かずにいたら、名前のほうから少しずつ、遠くなっていく気がした。
ペンを取った。きのうの分が、まだだった。
――降陽の儀まで二十日:御者、衛士を、ふたり、川へ。
これは、まちがいなく罪状だった。
――同日:猊下を、背負って、川を渡る。
罪状かどうかは、わからなかった。書いておきたかった。
階段が、きしんだ。
猊下が下りていらした。黒い外套に、毛の靴下。つま先が、ひとつぶん余っている。
「……眠れぬ」
猊下は向かいの椅子によじ登るようにして、お座りになった。
「亜麻色の娘が、先に眠ってしもうた」
ミレイアは、口もとがゆるみそうになった。こらえた。
猊下は、卓の上の帳面に目を落としていらした。
「それは、なんだ」
「罪状帳です」
「罪状とは、なんだ」
ミレイアは、少し考えた。
「その人がしたことです。……忘れないように、書きます」
猊下は黙って、帳面をご覧になっていた。
「誰の罪状を、書いておる」
「監視対象の、です」
「……白い闇司祭か」
「はい。昼寝の数なら、いくらでも」
猊下は帳面の頁を、指で一枚めくられた。昼寝。昼寝。腹が減ったと言う。昼寝。
やがて、仰った。
「……我は、アルバンの名を一度、忘れた」
しわがれた声が、少し低くなった。
「白の下では、覚えたことから遠くなるのだという」
ミレイアは、ペンを置いた。
猊下が、顔を上げられた。
「……我の罪状も、書いてくれぬか」
卓の上で、蝋燭の火が揺れていた。白い夜には、要らない明かりだった。それでも、宿の主人は灯していった。
ミレイアは、しばらく黙っていた。
それから、新しい行に書いた。
――二十五年前:かまわぬ、と言った。
猊下はその字を、長いことご覧になっていた。唇が、ひと文字ずつなぞるように動いた。声は、出ていなかった。
「……これで、忘れぬな」
「はい。書いておけば、読めますから」
読んで、思い出す、と決めれば。
そう思ったが、言わなかった。
「書きまちがえた行には、線を引いて消します」
猊下は、帳面から目をお上げにならなかった。
「……これは、まちがえて、おらぬ」
骨の浮いた指が、その行の端にそっと触れた。
「引かずに、おいてくれぬか」
ミレイアは、その行に線を引かなかった。
引かないでくれ、と言われたから。
◆
王都まで、あと一日の平野だった。
枯れ草のあいだに、焚き火を起こした。日は、とうに落ちていた。空だけが、白かった。
北の空に、白陽がいた。息をするように、膨らんでは、しぼむ。
南の地平のきわにだけ、夜が、あった。
白い空の裾に、藍色の帯が細く伸びている。その中に、星がひとつ、ふたつ。王都の空だった。
あの夜を、明日、自分が消しにいく。
爺さんは焚き火の向こうで、膝を抱えて北の空を見上げていた。毛の靴下のつま先が、火のほうへ垂れている。隣でシエルが、爺さんの肩に頭をあずけていた。
「……あの光は、なぜ、我を離さぬ」
レオニスは、薪をひとつ火にくべた。
火の粉が、白い空へのぼっていった。
「……知りてえか」
「……知りたい」
「決めるのは、あんただ」
「知りたい」
二度目は、すぐだった。
レオニスは、焚き火の向こうのアルバンを見た。
アルバンは背筋を伸ばして、座っていた。白い革の帳面を、膝の上で開いた。
「北の谷の祠の碑文に、こうございました」
抑揚のない声で、読みあげた。
「――その子を抱きて、北の白き野へ去れり」
「――泣けずして、白の奥に眠る」
頁を、めくる。
「聖都の書庫の三百年前の書にも、一行、ございます」
「――開祖の子、白陽の間に入りて、父の光を守る。以後、出でず」
アルバンは帳面を閉じて、膝の上に置いた。
「夏至の夜、白陽の間で、私は光の奥に、顔のない白いものを見ました。北の谷で、ヘルミさんのお父上の白も見ております」
ひと息、ためた。
「同じ、姿でした」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「猊下は、たぶん、開祖さまのお子です」
アルバンの声が、少しだけ平らでなくなった。
「あの白陽は、たぶん――」
そこで、止まった。
爺さんは、北の空を見上げたままだった。
「……とうさま、か」
その言葉を、口の中で転がしていた。何度も。覚えたばかりの言葉を、確かめるように。
泣いては、いなかった。
「……とうさまは、我の名を知っておるか」
アルバンが、口を開きかけて、閉じた。
レオニスは、火から目を上げなかった。
「知ってんだろ。親父なんだから」
爺さんは黙って、自分の指先を眺めていた。
ヘルミが、組んだ両手を膝の上で握りしめた。
「……父の白も、私を離しませんでした。二十五年」
爺さんの目が、ヘルミのほうへ動いた。
「父は、私が泣いたら戻ってきてくれました。……雨に、なって」
ヘルミは、笑ってみせた。目のふちが、赤かった。
北の谷の冷たい雨を、思い出した。暗がりの中で白い獣がほどけて、降ってきた雨だ。
レオニスは火を見たまま、言った。
「先生は――ヘルミの親父さんは、白くなった谷で泣いて、雨になった」
爺さんが、こちらを見た。
「あんたの親父さんも、白くなった場所でなきゃ、泣けねえのかもしれねえ」
白くなった場所。
三百年前、白い者が、泣く者のない昼を祈った祭壇。王都の地の底だ。黒い扉が開くのは、新月の夜だけ。
侍祭長が儀を組んだ夜と、同じだった。
爺さんは、しばらく火を見ていた。
「……とうさまは、泣くのか」
「……泣かせてやりてえ」
口に出してから、それがずっと腹の底にあった言葉だと、わかった。
爺さんが、こちらを見た。それから、また火に目を戻した。
爺さんは、膝をもう少し胸のほうへ寄せた。
「……とうさまが泣いたら、我は、見てよいのか」
レオニスは、いつものように言いかけた。
「……泣いてる奴の顔は、見ないで――」
その先が、出てこなかった。
昼寝から覚めたら、師匠は、いなかった。泣き顔どころか、顔ひとつ見せずに。
言いきれなかった。
爺さんは、レオニスの顔をまっすぐに見ていた。
「……我は、見たい」
レオニスには、返す言葉がなかった。
焚き火だけが、鳴っていた。
アルバンから、聞いていた。白陽の下の野では、爺さんは覚えたそばから、遠くなっていく。アルバンの名も、一度落とした。シエルの手は、ひと晩はもたない。外套の中の夜も、ひと晩はもたない。
白の届かない暗がりで、眠らせなきゃならねえ。
王都の、川沿いのパン屋。奥の食堂の川に面した窓には、鎧戸がある。親父は、表の窓は閉めない。けれど、奥なら。
新月まで、十七日。明日、王都に入れば、十六日のあいだ王都の空に白陽がかかる。
親父も、ユナも、ガルドも。陽だまりの家のガキどもも。泣いていた奴から、順に笑いだす。
わかっていた。
「明日、王都に入る」
ミレイアが、罪状帳から顔を上げた。
「……王都の人たちも、遠くなります」
「ああ」
「わかっていて、ですか」
「わかってて、だ」
ミレイアはそれ以上、何も言わなかった。膝の上の罪状帳を、両手で押さえていた。
爺さんが、白い空を見上げた。
「……王都へ、行く」
少し間をおいて、言い足した。
「……ひを、だいた、かあさまに、会いたい」
決めたのは、爺さんだ。
連れていくのは、俺だ。
レオニスは、薪をもうひとつ火にくべた。
その晩は、眠らなかった。南の地平の藍色の帯を、ずっと見ていた。星がひとつ、ふたつ。明日には、あれもなくなる。
翌日の夕方、王都の北の門が見えた。
うしろの空から、白陽が平野を渡ってきた。少し遅れて、箱馬車のあとをついてくる。
門をくぐった。
白い光が、門の上の空にかかった。それから、屋根という屋根の上にひろがっていった。
ゆうべ、南の地平のきわに見えていた藍色の帯は、もう、どこにもなかった。
西の空で陽が沈んでいく。けれど、王都の空は茜にも藍にも、ならなかった。
夕暮れが、来なかった。
通りの人々が足を止めて、空を見上げた。籠を抱えた女が。荷車を引く男が。屋台の前の子供たちが。
誰かが石畳に膝をついた。
「……白陽さまだ」
大聖堂の鐘が、鳴りはじめた。
朝の祈りとも、布告のときとも、違う打ち方だった。
レオニスは、馬車の屋根の上から川のほうを見た。パン屋の煙突が、白い空に細い煙をのぼらせていた。
坂の上に、陽だまりの家の庇が小さく見えた。あの家の窓掛けを手のひらひとつぶん開けても、もう、星は見えない。
その晩、王都の空は、暮れなかった。




