第三章 撫でられた名
涙の落ちたところだけ、雪が溶けた。
白い雪の上に、小さな穴がぽつり、ぽつりと開いていく。穴の底に、黒い土がのぞいていた。
焼け跡のいちばん上の、日の当たる斜面だった。ヘルミは、割れた石板の前に膝をついていた。
父の石板だった。
おとといの晩の初雪が、その上にも、谷じゅうの墓の上にも、やわらかく積もっている。払おうとして手のひらで触れると、春の陽だまりのようにあたたかかった。払っても、払っても、溶けなかった。
二十五年のあいだ、この谷を埋めていた雪と同じあたたかさだった。
それで、泣いた。
――上手に、泣けるようになりました。
夏に、王都へそう書き送った。嘘では、なかった。途中で止めなくなった。しゃくりあげても、肩が震えても、泣き終えるまで泣く。
隣に、ゴドフロワが立っていた。水桶を提げたまま。
毎朝、谷の墓に水をやるのがこの人の日課だった。墓が雪をかぶってからも、桶は峠の井戸で満たして荷車に積んでくる。
灰色の目は、墓の列のほうを向いていた。こちらは、見なかった。
見ないでいてくれるのだと、ヘルミにはわかっていた。
泣き終えて、袖で頬を拭いた。それから、目を上げた。
墓のあいだに、白い衣がひとつ立っていた。
小柄な老人だった。くるぶしまであたたかい雪に沈めた裸足は、骨が浮いて、白い衣とほとんど同じ色をしていた。
十四日前に白い行列が峠を下りてきてから、谷へ来るたびに、墓のあいだにこの方の姿があった。空を見上げていらっしゃることもあった。焼け跡のあいだを、ゆっくりと歩いていらっしゃることもあった。
声をかけられたことは、一度もなかった。
その方が、こちらをご覧になっていた。
めずらしい鳥でも眺めるように。
聖都の祭壇の光の下でも、この目に見られたことがある。
猊下の唇が、動いた。
「……冷たくて」
ヘルミは息を止めた。
「あたたかいもの、か」
泣くとは、どのようなものだ。――あのとき、そう訊かれて、自分が答えた言葉だった。
猊下の目は、ヘルミの膝もとの雪に開いた穴の上で止まっていた。それから、斜面のずっと上のほうへ移っていった。
焼け跡が途切れたあたりから、細い道が上っている。その先に、村のいちばん上の石の祠が小さく見えていた。
斜面の下から、雪を踏む音が上ってきた。
白い衣に、白い手袋。侍祭長だった。猊下の三歩うしろで、足を止めた。
「猊下。麓へ下る支度は、今朝も整っております」
猊下は、振り返られなかった。祠のほうを見上げたまま、仰せになった。
「……ここに、おる」
侍祭長は深く、頭を下げた。
「かしこまりました」
それだけだった。白い手袋の手を胸の前で組んだまま、斜面を下りていった。
その顔は、笑っていなかった。聖都の白い回廊では、いつもにこにこと笑っていた人だった。峠の修道院で行列を迎えた日にも、もう笑ってはいなかった。
帰りの荷車でゴドフロワが手綱を握ったまま、ぽつりと言った。
「衛士どもが、話しておった」
前を向いたままだった。
「猊下は、あの祠を見たいと仰せられたそうだ。侍祭長が、道が崩れておると申しあげると、ならば、ここに、おる、と。……それきり、谷からお動きにならぬ」
荷車が、焼け跡の外れで小さく跳ねた。
「猊下が、かまわぬと仰せにならなんだのは、初めてだそうだ」
ヘルミは、荷台から谷を振り返った。
焼け跡の向こうに、行列の白い幟が何本も垂れていた。風がないので、ひとつもはためかない。その上の空に、白陽がかかっていた。
きのうの夕方、麓の町から男の子がひとり、峠まで駆けあがってきた。墓守のお婆さんの使いだった。
――お弟子さんが、来たよ。
息を切らして、それだけ言った。
鍋は、その晩のうちに竈にかけた。
玉ねぎは、真っ黒になるまで焦がした。煙が目に染みて、何度も袖で拭った。もっと焦がせ、とボルグさんに叱られたとおりに。
黒麦酒を注いで、干し肉と根菜を入れた。煮立ったところで火から下ろして、蓋をした。
ひと晩、寝かせた。
――次は、私が、シチューを作ります。
聖都の門の前で別れるとき、レオニスさんにそう約束した。
日が傾くころ、峠道を白い輿が上ってきた。
白い衣の担ぎ手たちと、槍を立てたひと握りの衛士たち。そのうしろを――
黒い外套が、歩いていた。
寝癖の頭が、ひとつ。好き勝手な方角を向いている。
その隣に、銀色の髪が並んでいた。少しうしろを、灰色の頭が馬の手綱を引いて歩いてくる。馬の背で、亜麻色の髪が揺れていた。
「おねえちゃん!」
亜麻色の髪が、馬の背から転がるように降りてきた。
シエルだった。
門の前の雪を蹴って、駆けてくる。ヘルミはしゃがんで、両手を広げた。胸に、小さな体が飛びこんできた。
あたたかかった。白い雪とは、違うあたたかさだった。
門の前で、黒い外套が足を止めた。
「……よう」
ヘルミはシエルを抱いたまま、見上げた。
「お待ちしていました、レオニスさん」
「……腹、減った」
「はい。ひと晩、寝かせてあります」
レオニスのうしろで、ミレイアが小さく頭を下げた。銀色の髪の下で、目もとが少しだけゆるんでいた。アルバンは門の手前で手綱を握ったまま、深く、礼をした。
輿が、門の前に下ろされた。窓掛けが内側から持ち上がって、猊下が裸足で雪の上に降りてこられた。
レオニスが、肩ごしに親指で輿を指した。
「飯の話をしたら、爺さんも、来るってよ」
食堂の長い卓に、椀が並んだ。
卓の端に院長が座った。ゴドフロワは、その隣で白い髭をしごいていた。戸口には、侍祭長が立っていた。
ヘルミは、鍋から黒い汁をよそっていった。煮崩れた根菜が、とろりと沈んでいる。
それから、卓の真ん中に素焼きの壺を置いた。
厨房のいちばん高い棚に、しまってあった壺だった。オズワルドさまの、壺。
アルバンは、戸口の外の廊下にいた。シエルが椀を運んでいくと、敷居の向こうで両手で受け取った。中へは、入ってこなかった。
ヘルミは壺の蓋を取って、卓を見回した。
「蜂蜜は、鍋にひと匙入っています」
それから、小さく笑って言い足した。
「ふた匙目は、ご自分で」
レオニスが、壺に目をやった。口の端が、少しだけ上がった。
ひと口すくって、口に入れる。
「……焦げてる」
「炭の、手前です」
レオニスは何も言わずに、ふた口目をすくった。三口目も。
ヘルミは、猊下の前にも椀を置いた。
戸口で、侍祭長が何か言いかけた。
「猊下は――」
そこで、声が止まった。
猊下は、椀に目を落としていらした。湯気が、顎のあたりでほどけていく。
それから、隣のシエルをご覧になった。
シエルは両手で匙を握って、ふうふうと吹いていた。
猊下は、ご自分の匙を取られた。袖口から、枯れ枝のような手首がのぞいた。シエルと同じように匙を握って、同じようにふうふうと吹かれた。
ひと口すくって、口に運ばれた。
黒い玉ねぎが、口の中でくしゃりと潰れる音がした。
長いこと噛んでいらした。
「……苦い」
ヘルミは言った。
「炭の、手前です」
猊下は匙を持ったまま、首をかしげられた。
「……手前とは、どこだ」
シエルが、ぷっと噴き出した。卓の向かいで、ミレイアが口もとを押さえた。ゴドフロワが、白い髭の下で咳払いをした。レオニスの肩が、揺れはじめた。
そのとき、猊下の匙が止まった。
椀の中を、じっとご覧になっていた。
「……知っている、味だ」
笑い声が、ふつりとやんだ。
誰も、口を開かなかった。シエルが、ヘルミの顔を見上げた。ヘルミにも、わけはわからなかった。
卓の端で、院長が胸の前でそっと手を組んでいた。
猊下はそれきり何も仰せにならずに、椀の底まで召しあがった。
食事が済むと、猊下は長椅子の脇の床に膝を抱えて座られた。
窓のほうをご覧になっていた。日が沈んでも、空は乳色に白んだまま、暮れようとしなかった。
それから、ヘルミを見上げられた。
「……汝。あの唄を、歌うてくれぬか」
夏至の夜、聖都の白陽の間で歌った唄だった。
ヘルミは、猊下の前の床に膝をついた。
息を、吸った。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
声は、まっすぐに出た。
「よるの かあさま ひを だいて」
猊下のまぶたが、ゆっくりと下りてきた。
「ないても いいよ よるの なか」
細い体が横に傾いだ。床の上に横になられた。膝が、胸のほうへ寄っていった。
眠っていらした。
ヘルミは、歌いやめなかった。
「おいで おいで なけない こ」
閉じたまぶたの際が、濡れていた。
光るものが、目のふちに溜まっている。こぼれは、しなかった。
窓の外で、白陽がひと息に膨らんだ。
あたたかい雪が、急に濃くなった。窓の向こうが、降りしきる白で見えなくなるほどに。
猊下の目のふちは、すぐに乾いた。
ヘルミは、その白を知っていた。
二十五年前、父の白は、泣いている人から覆っていった。ひとり、またひとりと、泣きやませて。いちばんおしまいまで泣いていたのが、自分だった。
窓の外の白に向かって、ヘルミは小さく言った。
「……離さないのですね」
どれほどそうしていたのか。猊下が、目を開けられた。
床の上にいることに、少し驚かれたようだった。
ヘルミはそのそばに膝をついたまま、言った。
「父が、言っていました」
猊下の目が、こちらを向いた。
「これはね、泣きやませる歌じゃないんだ。泣き疲れて眠るまで、そばにいてやる歌なんだよ、と」
夜ごと、泣き虫だった自分を抱いて、父はこの唄を歌ってくれた。
猊下は、しばらく黙っていらした。
「……眠るまで、そばに」
それから、ヘルミの顔を見上げられた。
「では、汝は、我が眠るまで、おったのか」
「……はい」
猊下は、また窓のほうへ顔を向けられた。白い雪が、まだ降りしきっていた。
眠りの中でしか、泣けない方なのだ。目のふちを濡らしても、白がすぐに乾かしてしまう。
四行目で、猊下が、起きたまま、泣けるまで。
歌おう、と思った。この方の、そばで。
◆
峠の修道院の屋根は、昼寝にちょうどよかった。
いつもなら、北の山から吹き下ろす風がひっきりなしに鳴っている屋根だ。白陽の下では、その風もぬるかった。鳴りもしない。
夜が来ないのだから、寝るなら昼だった。昼寝なら、慣れている。日が沈んでも、空は白んだきりで、星ひとつ出ない。あの明るさのほうが、よほど眠れたものじゃない。
レオニスは鉄剣を枕に、屋根の板の上で大の字になっていた。
きのう、谷の墓のあいだで爺さんに声をかけた。
爺さんは空を見上げるのをやめて、振り返った。
「……白い闇司祭か。……来たか」
それだけだった。峠にシチューがある、と言ってやると、黙って輿のほうへ歩きだした。
それで、峠まで上ってきたのだ。あの晩から、爺さんは修道院に居ついている。寝台は使わずに、床で丸くなって寝ているらしい。
苦い、と言った。知っている味だ、とも言った。
何を知っているのかは、言わなかった。
レオニスにとっては、師匠の鍋と同じ味だった。
梯子が、きしんだ。
屋根のふちから、白い頭がのぞいた。骨の浮いた手が、屋根の板をつかむ。裸足の足が、梯子の最後の段から上がってきた。
下から、アルバンの声がした。
「猊下、お足もとに、お気をつけください」
梯子を押さえているのだろう。レオニスは、首だけ屋根のふちへ向けた。
「お前も、上がってこいよ」
「いえ。ここで、お待ちします」
そう言うと思った。
爺さんは四つん這いで、屋根の上をこちらへ寄ってきた。レオニスの隣で止まる。それから、じっとこちらの頭を眺めた。
「……汝の頭は、なぜ、そうなっておる」
「寝癖だ」
「……ねぐせ」
爺さんは、確かめるようにもう一度言った。
「ねぐせ」
納得したのか、しないのか。レオニスの隣に、膝を抱えて座った。
屋根からは、峠道の先に谷が見えた。焼け跡も、斜面の墓も、行列の白い幟も、あたたかい雪の下で白く霞んでいる。
爺さんは、谷ではなく、白い空を見上げていた。
やがて、その口からかすかな節がこぼれてきた。
言葉のない声だった。きのう、谷の墓のあいだで聞いた節だ。きのうの晩、食堂でヘルミが歌った唄でもあった。
節が、途切れた。
「汝は、あの唄を、歌えるか」
「歌わねえ」
「なぜだ」
「下手なんだよ」
爺さんは、少し首をかしげた。
「……そうか」
それで、済んだらしい。また、節をなぞりはじめた。三行目のところで、ほんの少し音が外れた。
人のことは、言えねえじゃねえか。
また、節が途切れた。爺さんは、白い空を見上げたまま言った。
「汝は、なぜ、夜に眠らぬ」
レオニスは、空を見たまま答えた。
「夜が、ねえからだ」
爺さんは、真上を見上げた。白陽が、そこにあった。
「……我のせいか」
レオニスは、口を開かなかった。
そうだ、と言ってしまえば、それで済む話だった。
下から声がした。
「白い闇司祭さま」
丁寧な声だった。レオニスは、屋根のふちから下を覗いた。
中庭に、白い手袋の男が立っていた。胸の前で、手を組んでいる。
「猊下の御幸を、お妨げになりませぬよう」
聖都では、いつ見てもにこにこと笑っていた男だ。書庫の記録で、侍祭、とあるところに名を書き添えられていた男でもある。
「あんた、笑わなくなったな」
侍祭長は、答えなかった。
組んだ手をほどきもしないで、深く、頭を下げた。それから、回廊のほうへ戻っていった。
爺さんが、レオニスの肩ごしに中庭を見下ろしていた。
「……あの者は、笑うておったか」
レオニスは、爺さんの横顔を見た。
「聖都じゃ、いつもな」
爺さんは、白い手袋の消えた回廊を見ていた。
「……見て、おらなんだ」
レオニスは、また仰向けになった。
◆
鉱山は谷の外れの岩肌に、黒い口を開けていた。
谷までは、ゴドフロワの荷車に乗せてもらった。そこから先は、ひとりで歩いた。いっしょに行く、と言ったシエルには、首を振った。
胸の聖印が、ぬるかった。
坑道の口の前に、囚人たちが座りこんでいた。つるはしを足もとに置いて、あたたかい雪の上で目を細めている。寝そべって、白い空を見上げている者もいた。見張りの兵も槍を雪に突き立てて、いっしょに笑っていた。
ひとりだけ、動いている男がいた。
鉱石を詰めた籠を、肩に担いでいる。坑道の口から、荷車のところまで。籠を下ろすと、また坑道へ戻っていく。
熊のような背中だった。空っぽの右袖が、腰紐に留めてある。籠の縄を握る左手には、ぼろ布がぐるぐると巻きつけてあった。
ボルグだった。
ボルグが、こちらに気づいて足を止めた。肩の籠を、雪の上に下ろした。
「……嬢ちゃんか」
それきり、どちらも口を開かなかった。
やがて、ボルグが白い空を見上げた。
「また、白いのが、来た」
ミレイアは、坑道の口で笑っている男たちに目をやった。
「覆われないのですか」
ボルグは、ぼろ布を巻いた手を握りしめた。
「渡さねえよ」
低い声だった。
「忘れたら、あの二人に、詫びることもできなくなる」
あの二人。
ミレイアは懐の罪状帳に、服の上から手を当てた。
今朝も、新しい頁の頭にふたりの名を書いてきた。父と、母の名を。
――許しません。
――一生。……一生、許しません。
あの日、石畳に剣を突き立てて、そう言った。
この春、雪を掘る列の端で深く頭を下げられたときも、下げ返さなかった。会ったら、どうするのか。あのときは、決められなかった。
いまは、わかる気がした。
ミレイアは、ボルグの顔をまっすぐに見た。
「許しません」
ボルグは、目を伏せなかった。
「ああ」
「でも」
ミレイアは、息をひとつ吸った。
「一生、覚えていてください」
ボルグの目が、わずかに見開かれた。
「私も、一生、覚えています」
父の焼くパンの匂いを。麦の穂の束を直す、母の指を。
床下で聞いた、あの日の、音も。
ボルグは、長いこと黙っていた。
「……ああ」
少しして、かすれた声が続いた。
「……ありがとよ」
「お礼を、言われることでは、ありません」
ボルグは、籠を肩に担ぎなおした。
坑道の口へ歩いていった。笑っている男たちのあいだを、ひとりだけ、まっすぐに。
明くる朝、ゴドフロワの荷車は、いつもより重かった。
水桶のあいだに、ヘルミと、シエルと、ミレイア。荷台のいちばんうしろに、猊下が膝を抱えて座っていらした。アルバンは馬の手綱を引いて、荷車の脇を歩いた。
レオニスは、修道院の屋根から下りてこなかった。罪状帳には、もう書いてある。
きのう、アルバンがひとりで祠への道を上ってみたのだという。崩れているのは、途中のひと所だけだった。手を引けば、お通りになれます、とアルバンは猊下に申しあげた。
それを聞いて、猊下はご自分から荷車にお乗りになった。
谷の墓は、あたたかい雪の下で静まりかえっていた。
アルバンとシエルが猊下の手を引いて、祠へ上る道のほうへ歩いていく。ヘルミは、父の石板のほうへ。ゴドフロワは水桶を提げて、墓の列のほうへ。
ミレイアは、墓の列のはずれに立っていた。
列のなかほどで、白い衣が膝をついていた。
侍祭長だった。
石を積んだだけの、小さな墓の前だった。誰の墓なのかは、わからない。どの石の下に誰が眠っているのか、もう誰にもわからないのだ。
白い手袋の指先が、墓の上の雪を払おうとして、止まった。
侍祭長は、その手から手袋を外した。
ゆっくりとした手つきだった。自分が何をしているのか、わかっていないようにも見えた。
素手で雪を払った。
手の甲が、見えた。
指の先から手首のほうまで、古い火傷の痕が引きつれていた。
水桶の取っ手が、きしんだ。
墓の列のあいだで、ゴドフロワが足を止めていた。灰色の目が、侍祭長の手の上で動かなくなっていた。
「……あの日」
低い声だった。
「燃える家の戸口で、笑っている子の腕を引いて、手を焼いた侍祭が、いた」
侍祭長の手が、雪の上で止まった。
振り返りは、しなかった。素手を墓の上に置いたまま、言った。
「……覚えて、おいででしたか」
ゴドフロワは、水桶を雪の上に置いた。
「私は、あの日のことを、何ひとつ、忘れておらぬ」
侍祭長は、焼けた手の上に顔を伏せていた。
「……私は、二十五年、忘れておりました」
――忘れたら、あの二人に、詫びることもできなくなる。
きのう鉱山で聞いた声が、耳の奥でした。
それから、侍祭長は、隠さなかった。
墓の前に膝をついたまま、ひとつずつ話した。聖都の書庫の古い記録で、この谷のことを知ったこと。北の谷の、夜の番人の裔を、浄めてよろしいでしょうか、と猊下に伺ったこと。自分が文を携えて、王都へ下ったこと。王都の司教が、騎士団を北へ出したこと。
「猊下は、かまわぬ、と、仰せになりました」
アルバンが陽だまりの家の台所で読みあげた記録と、ひとつも違わなかった。
侍祭、とあるところに書き添えてあった名が、いま、目の前で膝をついていた。
祠へ上る道の手前で、猊下が足を止めていらした。
こちらをご覧になっていた。右の手をアルバンに、左の手をシエルに、握られたまま。
「……我が」
しわがれた声だった。
「かまわぬと、申したのか」
侍祭長が膝をついたまま、そちらへ向きなおった。
「はい」
平らな声だった。
「猊下は、いつものように」
老人の顔は、何も変わらなかった。
覚えておいでではないのだ、とミレイアは思った。
アルバンが何か言いかけて、やめた。シエルが、握った手を少しだけ引いた。三人は祠へ上る細い道を、ゆっくりと上っていった。
墓の列のあいだを、ヘルミが歩いてきた。
侍祭長の前で、足を止めた。
「……あの日、谷で」
侍祭長が顔を上げた。
「女の子を、ご覧になりましたか」
侍祭長は、すぐには答えなかった。
焼けた手が、雪の上で握られた。
「……はい」
かすれた声だった。
「泣いて、おいででした」
白い髭の下で、ゴドフロワの口が引き結ばれた。
「……最後には、笑って」
ヘルミはそれ以上、何も言わなかった。
侍祭長の前に立ったまま、雪の上の焼けた手を見ていた。
侍祭長は外した手袋を、もう一方の手に握っていた。
はめなおそうとは、しなかった。
◆
両の手が、ふさがっていた。
右の手を、灰色の頭が。左の手を、亜麻色の娘が握っている。
手を引かれて歩くのは、覚えているかぎり、初めてだった。
灰色の頭の手は、乾いていた。握る、というより、添えている手だった。割れものでも、運ぶように。
亜麻色の娘の手は、小さくて、少し湿っていた。ときどき思い出したように、ぎゅっと握る。
焼け跡の上の、細い道だった。裸足の裏に、あたたかい雪が、やわらかい。
――猊下は、いつものように。
白い手袋の声が、耳に残っていた。
かまわぬ、と言うたのだという。この谷を浄めてよいかと、訊かれて。
覚えて、おらぬ。
日に何度、そう言うてきたのかも、覚えておらぬ。
見上げると、白陽が真上にあった。いつものように。
道は半ばで崩れていた。
斜面の土が、ひと所えぐれて落ちている。灰色の頭が、先に崩れたところへ足をかけた。振り返って、手を引いた。
「ここだけ、お気をつけください」
亜麻色の娘が手をほどいて、うしろから背中を押した。
「そこ、すべるよ」
言ったとたんに、娘のほうが足を滑らせた。
灰色の頭が空いたほうの手で、娘の襟首をつかんだ。
娘は、宙に浮いたまま目をぱちぱちとさせた。
「……すべったね」
灰色の頭は、娘を道の上に下ろした。
「滑りましたね」
道の行きどまりに、石を積んだ小さな祠があった。
片側の屋根が、落ちていた。奥に、女の像が立っていた。
女には、顔がなかった。胸に、小さなランタンを抱いていた。
教皇は、像の前で足を止めた。
「……よるの、かあさま」
白い手袋に聞いたかたちと、同じだった。顔のない女。胸に、ひを。
抱いているランタンは、石だった。中に、火は、なかった。
背丈は、亜麻色の娘の肩ほどしか、ない。
娘が、像の前にしゃがみこんだ。像の頭に積もった雪を、袖でそっと払う。それから、両手を胸の前で合わせた。
灰色の頭は、像のうしろへ回った。教皇も手を引かれて、回りこんだ。
台座の裏いちめんに、字が並んでいた。
浅い溝だった。苔と雪の跡に埋もれて、形にならない。白陽の光の下では、溝の影さえほとんど見えなかった。
教皇は、溝に目を近づけた。
「読めぬ」
灰色の頭が、懐から、白い革の帳面を出した。頁を、めくる。
「写しが、ございます」
それから、読みはじめた。抑揚のない声だった。字を、そのまま声に置きかえていくような。
「――我ら夜の番人、最後の欲をもて、女神の灯に火をともし、夜を取り戻せり」
ひと息おいて、次の行。
「――我らが友、白き」
そこで、声が途切れた。灰色の頭の指が頁の上の一か所を、声にせずに通りすぎた。
「――その子を抱きて、北の白き野へ去れり」
北の白き野。
輿の窓から七日、見てきた野だった。草も、石も、空も、白かった。
「――その子」
また、声が途切れた。
「……ここは、読めませんでした」
指が行をひとつ下りた。
「――泣けずして、白の奥に眠る」
灰色の頭は、そのまま読みつづけた。
「――我ら、この谷に住まい、唄を伝う。いつの日か、白の奥の泣けぬ子に、届けんがため」
ひと息、ためて。
「――おいで おいで なけない こ」
その一行は、知っていた。
夏至の夜、白陽の間で、聖女が歌った。夢の中でも、聞いた。おととい、食堂の床の上でも聞いた気がする。
教皇は、台座の裏に手を当ててみた。
ざらついた、石の肌だった。
灰色の頭が、その子、と読んだあたり。そこだけ、石がすり減っていた。指の先ほどの、浅いくぼみになっている。
撫でてみると、つるりと、なめらかだった。
「……なぜ、ここだけ、すり減っておる」
灰色の頭が、帳面から目を上げた。
「三百年、村の者が拝むたびに、撫でてきたところです」
教皇は、くぼみをもう一度撫でた。
「……なぜ、撫でる」
像の前から、亜麻色の娘が顔をのぞかせた。首が、少しだけ、右にかしいでいる。
「……あいたかったんじゃ、ないかな」
教皇は、くぼみに指を当てた。
指は、くぼみに少し小さかった。
それでも、指をどけなかった。
「……我にも、名が、あったのか」
灰色の頭が、帳面を胸に引き寄せた。
「……お預かりしているものが、ございます」
声が、少しだけ平らでなくなった。
「いずれ、お返しします」
何を、とは言わなかった。
教皇はくぼみに指を当てたまま、言った。
「……その、我ら、という者たちの名を、読んでくれぬか」
灰色の頭は、頁をめくった。
ひとつずつ読みあげていった。名をひとつ読むたびに、ひと息ぶん、間をおいた。誰かが返事をするための間を、あけておくように。
知らない名ばかりだった。
知っている、気がした。
◆
谷に来て、五つ目の白い夜だった。
日はとうに沈んだのに、空は乳色のまま、暮れなかった。修道院の屋根の上で、レオニスは膝を抱えていた。
隣で、爺さんが真上を見上げていた。
「……星が、ない」
白陽が、爺さんの頭の真上にあった。息をするように、膨らんでは、しぼむ。
祠から戻ってきてから、爺さんはときどき自分の指先を眺めている。何かの形を、確かめるように。
王都の陽だまりの家なら、星の窓掛けを手のひらひとつぶん、開けてやればすむ。ここには、入れてやる夜がなかった。
レオニスは、黙って外套を脱いだ。
爺さんの頭から、ばさりとかぶせた。
「何をする」
「動くな」
自分も、外套の中に頭を突っこんだ。爺さんの白い頭が、顎の下にごつりと当たった。
「……狭い」
「我慢しろ」
暗かった。
白い光が、黒い布にさえぎられていた。外套の中にだけ、白陽が届かない。爺さんの細い息の音が、すぐそばで聞こえた。
レオニスはふたりのあいだで右の手を開いて、上に向けた。
「我、欲す」
声を、外套の中に落とした。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
手のひらの上が、いっそう暗くなった。
暗さが、溜まっていく。崩れなかった。白に削られることも、なかった。
丸めた手のひらを、爺さんの胸の前にそっと差し出した。
小さな暗さの底に、光がひとつ、灯っていた。
白いものが、厚く積もっていた。何重にも、何重にも。その奥の光が何色なのかは、わからなかった。
それでも、星だった。
「あんたのだ」
爺さんは、長いことそれを見ていた。
「……我にも、あったのか」
触れようとは、しなかった。見ているだけだった。
やがて、爺さんが外套の中から顔を出した。
白い光が、またふたりの上に降ってきた。手のひらの暗さは、白の中へほどけていった。
爺さんは外套をかぶったまま、レオニスを見た。
「……汝のそばには、夜が、ある」
レオニスは、返事をしなかった。
爺さんは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……汝と、行く」
レオニスは、白い空を見上げた。
「あんたが、決めたんならな」
どのみち、行き先は王都の地の底だ。降陽の儀の祭壇も、爺さんが会いに行くと言った、ひを抱いたかあさまも、同じ地の底にある。
「行き先が同じでも、道は、選べる」
爺さんが首をかしげた。
「空っぽのまま祭壇に立ったら、あんたは、いつもどおり、『かまわぬ』って言っちまうだろ」
「……かまわぬ、のほかに、何を言う」
「道々、覚えりゃいい」
爺さんは、外套の襟を両手でかき合わせた。
返せ、とは言いそびれた。
明けがた、修道院の裏門の外に古びた箱馬車が待っていた。
御者台で、ゴドフロワが手綱を握っていた。白い髭の上で、灰色の目がこちらを見た。
「乗れ」
それだけだった。
馬車の扉が開いて、ヘルミが顔を出した。灰色の、旅の外套を着ていた。
「ご一緒します」
レオニスが眉を上げると、ヘルミはまっすぐに言った。
「四行目で、猊下が、起きたまま、泣けるまで」
馬車の中で、シエルがヘルミの袖をつかんでいた。その奥で、ミレイアが膝の上の罪状帳を押さえていた。アルバンは馬の手綱を取って、馬車の脇に立っていた。
裏門の内側から、爺さんが出てきた。
黒い外套を着たままだった。袖が余って、指先も見えない。裾が、あたたかい雪をずるずると引きずっている。
レオニスは、峠道のほうへ目を逸らした。
「……貸すだけだ」
爺さんは、余った袖を持ち上げてみた。
「……重い」
門の内側に、侍祭長が立っていた。
組んだ手の、片方だけが、素手だった。
止めようとは、しなかった。深く、頭を下げた。
「どうぞ、お連れくださいませ」
顔を上げて、言い足した。
「……行き先は、同じでございますから」
その隣で、衛士たちを束ねる男が顔をこわばらせていた。腰の剣の柄に、手がかかっている。
侍祭長は、その手を見もしなかった。
箱馬車が、動きだした。
レオニスは馬車の屋根に上がって、鉄剣を枕に寝転がった。アルバンの馬が、脇を並んで歩いていた。
しばらく行って、首をもたげた。
峠の上から、白陽が浮かびあがっていた。
ゆっくりと、少し遅れて、馬車のあとをついてくる。
そのうしろで、空が暗くなっていった。
夜明け前の、青い暗さだった。修道院の屋根が、門の内側の白い衣が、青い暗さの中に沈んでいく。
うしろで、風が鳴りはじめた。峠の屋根でいつも鳴っていた、北の山の風だった。
峠道を下っていく。谷の底へ。焼け跡と、斜面の墓のそばを過ぎて、その先の、麓のほうへ。
やがて、谷も青く沈んでいった。行列の白い幟が、風にいっせいにはためいた。斜面の墓の雪からも、乳色の光が引いていく。ぬくもりの抜けた、ただの冬の雪の色だった。
馬車の窓から、黒い外套の襟がのぞいた。
爺さんが、振り返っていた。うしろの空を。ついてくる、白い陽を。
「……あれは、我を、離さぬのだな」




