第二章 白い行列
白い輿が、揺れた。
前へ。うしろへ。担ぎ手たちの足の運びに合わせて、ゆっくりと。
教皇は白い座の上で、膝に両手を重ねたまま、その揺れを確かめていた。
揺られる、というのは、こういうものか。
聖都を発つ朝だった。都の外へ出るのは、覚えているかぎり、初めてのことだった。
白い窓掛けのすきまから、大階段が見えた。白い石の段が、上へ、上へと遠ざかっていく。段の両脇には、白い衣の侍祭たちが並んで、頭を下げていた。大広場を埋めた巡礼たちも、白い花を胸に抱いて膝をついている。
顔を上げている者は、ひとりもいなかった。
このところ、白陽の間の入り口に膝をついていた灰色の頭は、どこにも見えなかった。
先に、参ります、と言っていた。
段を下りきったところで、背中のほうが明るくなった。
教皇は、窓掛けの端を指で持ち上げた。
白陽の間の丸い屋根の上に、白い光が浮かんでいた。
光が動いた。大広場の上をゆっくりと渡って――輿の真上の空にかかった。
ついてきたのだ。
空に陽がふたつになった。東の低いところに、朝の陽がひとつ。輿の真上に、白い陽がひとつ。
大広場の巡礼たちが、いっせいに空を仰いだ。どこかで、白陽さま、と声がした。
教皇は窓掛けを持ち上げたまま、長いこと白い陽を見上げていた。
城門をくぐると、白い草の野がひらけた。
白い草が、地平まで平らに続いている。その中を、白い土の道が一本、南へまっすぐに延びていた。土の上に、荷車の轍が二本、どこまでも刻まれている。
野を渡ってくる風は、ぬるかった。白い草は揺れても、音を立てなかった。
行列の先頭を、白い幟が行く。そのうしろに、白い外套の衛士たちが槍を立てて続いていた。
いちばん前で馬に乗っているのは、衛士たちを束ねる男だった。
輿のうしろには、白い花を抱えた巡礼たちが、長い列になって歩いていた。花の香りが、窓掛けのすきまから入ってくる。
担ぎ手たちの息は、荒かった。それでも、汗の浮いた顔は、どれも笑っていた。
輿の脇を、白い馬が行く。
馬の上で、白い衣の男が手綱を取っていた。両手に白い手袋をはめている。
名は、知らなかった。白陽の間の奥で、いつも白い手袋の手を胸の前で組んで、何かを申しあげていた男だ。
白い手袋は聖都を出てから、輿の脇を一歩も遅れずに来た。
昼過ぎ、衛士たちを束ねる男が、馬を返してきた。輿の窓の脇で手綱を引く。
「猊下。王都まで、聖都の衛士がお守りいたします」
男は胸を張った。
「闇司祭どもは、二度と猊下に近づけませぬ」
教皇は、何も答えなかった。
男の顔が、少しのあいだこわばった。それから、馬の首を返して、列の先頭へ戻っていった。
日が傾くころ、教皇はうしろの窓掛けを持ち上げた。
白い野の果てに、聖都が小さく見えた。白い城壁。重なりあう白い屋根。尖塔と、丸い屋根。
その上に夕暮れが降りていた。
白い屋根の海が、端から茜色に染まっていく。それから、藍色に沈んでいく。丸い屋根の上には、もう何も浮かんでいなかった。
白陽のいなくなった都に、日が暮れていく。
教皇の口もとが、ほころんだ。
なぜなのかは、わからなかった。
輿の上の空は、日が沈んでも乳色に白んだままだった。
教皇は窓掛けを持ち上げて、身を乗り出した。真上を見た。
星を、探した。
白い陽のほかには、何もなかった。
その日の泊まり場は、道ばたの、石積みの小屋だった。
小屋の前で焚き火が燃えていた。先に着いていた巡礼たちが、そのまわりに座りこんでいた。同じ道を、聖都のほうから歩いてきた者たちらしかった。
泣いていた。
ひとりでは、なかった。肩を震わせている男がいた。両手で顔を覆っている年寄りがいた。膝の上に小さな靴を片方だけのせて、声を殺している女がいた。
輿が焚き火の脇で止まった。
白い陽が、焚き火の上の空にかかった。
泣き声が、ひとつ、途切れた。
またひとつ。
肩を震わせていた男が、顔を上げた。顔を覆っていた年寄りが、手を下ろした。
ふたりとも、笑っていた。
いちばんあとまで泣いていたのは、母親の膝でしゃくりあげていた男の子だった。その泣き声も、細くなって途切れた。男の子は母親の顔を仰いで、にっこりした。
靴の女も、泣くのをやめていた。濡れた頬のまま、膝の上の靴をしばらく眺めていた。
それから、靴を荷の底へしまった。
女は輿のほうへ顔を向けて、目を細めた。
焚き火のまわりで、泣いている者は、ひとりもいなくなった。
教皇は窓掛けのすきまから、それを見ていた。
「あの者らは、なぜ、泣きやんだ」
白い手袋が、馬の上から答えた。
「白陽の、お恵みにございます」
声は、平らだった。
焚き火の明かりの中で、その横顔だけが、笑っていなかった。
お恵み、と教皇は口の中で繰り返した。
何が起きたのか、わからなかった。
あくる朝、靴の女は巡礼の列に加わって、輿のうしろを歩いていた。誰かに分けてもらったのか、白い花を一輪、胸に抱えていた。
輿は、毎日揺れた。
揺られていると、眠くなった。
うとうとしかけると、耳もとで鈴が鳴った。
ちりん、と。
窓掛けのすきまから、白い手袋の指が銀の鈴をさし入れていた。
「猊下、お目覚めを」
教皇は、目を閉じたまま答えた。
「……かまわぬ」
鈴がまた鳴った。
ちりん、と。
教皇は、目を開けた。
鈴の指は、窓掛けの向こうへ引っこんでいった。
三日目の昼、担ぎ手たちが輿を下ろして、肩を休めた。
教皇は輿を降りた。白い土が、裸足の裏に、ほんのりとあたたかかった。
足もとを、見た。
何も、落ちていなかった。
白陽の間の床で、めずらしい鳥でも眺めるように、毎日眺めてきたものだった。
教皇は、うしろを見た。横を見た。身をかがめて、輿の下を覗きこんだ。
「……影が、おらぬ」
白い手袋が、馬の上から言った。
「白陽が真上におわしますので。影は落ちません」
教皇は真上を見上げた。白い陽が、そこにあった。
「……そうか」
輿に戻る前に、もう一度だけ足もとを見た。
やはり、どこにもいなかった。
白い野は、何日進んでも、白い野のままだった。
陽は毎朝、東から昇って、夕方には西の果てへ沈んでいった。白い陽だけが、いつも輿の真上にいた。
輿の中で、教皇はときどき口の中で節をなぞった。
言葉は、のせない。節だけを、小さく。
夢の中の暗がりで聞いた節だった。
窓掛けのすきまから、白い馬の首が見えた。手綱を握る、白い手袋も。
その手袋に、力がこもった。
教皇は節をやめた。
手袋の指は手綱に食いこんだまま、なかなかほどけなかった。
「……汝は、なぜ、手を隠す」
手袋が、手綱の上で動かなくなった。
少しして、窓掛けの向こうから声がした。
「……猊下のお目を、汚さぬためにございます」
窓掛けの白い布が、風にかすかに揺れていた。その向こうの顔は、見えなかった。
教皇は、それ以上訊かなかった。
輿がまた揺れた。
「よるの、かあさま、とは、どのような者だ」
手袋がまた動かなくなった。
「王都の大聖堂の地の底に、古い神殿がございます。その奥に、像がおわします」
声の調子は、少しも変わらなかった。
「書庫の記録に、そうございました。……顔のない、女の像にございます。胸に、ひを、抱いておいでです」
顔のない、女。
胸に、ひを。
「……我を、待っておるか」
窓掛けの向こうで、手綱がひとつ鳴った。
返事は、少し遅れた。
「……はい」
教皇は、自分の胸に両手を当ててみた。
白い衣の下で何かが、とくん、と打った。
聖都を発って七日。
白い草の野が、そこで尽きていた。
その先は、灰色の岩と、枯れ草の色の斜面だった。白くない土を、教皇は窓掛けのすきまから、ずっと見ていた。
峠の上の修道院に着いたのは、夕方だった。
灰色の石を積んだ、低い建物だった。崖のふちに、肩をすくめるようにして建っている。崖の下には、細長い谷が口を開けていた。
門の前に、年老いた女がひとり、立っていた。背筋の伸びた、痩せた女だった。
女は輿の前で膝をついた。白い手袋が、馬を降りて何か言った。女は、深く、頭を下げた。
輿を降りた教皇の裸足の上で、皺の深い目が、ひと息だけ止まった。
通された部屋に、寝台がひとつあった。
年老いた女が、湯気の立つ椀を盆にのせて運んできた。
白い手袋が、戸口でそれを止めた。
「猊下は、召しあがりません」
女は戸口の男を見上げた。
「……一度も、でございますか」
白い手袋の手が、胸の前で組まれた。
「私の存じますかぎりは、一度も」
女は、黙って椀を戸口の脇の台に置いていった。
湯気が細くのぼっていた。
教皇は、しばらくそれを眺めていた。何の匂いなのかは、わからなかった。
寝台のほうは、ひと目見ただけだった。
教皇は、寝台の脇の石の床に横になった。
膝を胸のほうへ寄せて。
窓の外は、白いままだった。壁ぎわにも、寝台の下にも、影はどこにもなかった。
あの唄が、また聞こえるだろうか。
教皇は、目を閉じた。
◆
ひとりになると、侍祭長は白い手袋を外した。
右の手から。指を一本ずつ、ゆっくりと抜いていく。それから、左。
両手の甲から指の先まで、古い火傷の痕が引きつれていた。
ところどころ、皮膚が薄く光っている。指の節は、どれもまっすぐには伸びなかった。
二十五年、誰にも見せたことのない手だった。
石の部屋だった。修道院の院長が空けてくれた部屋だ。寝台がひとつと、卓がひとつ。卓の上に銀の鈴が置いてあった。
窓の外は、白かった。
日は、とうに沈んでいる。それでも、空は乳色に白んだままだった。白陽が峠の上にかかっているのだ。
猊下の、真上に。
窓の下に谷が見えた。
山あいに、細長く横たわっている。冬枯れの斜面。その底に、黒ずんだ焼け跡。焼け跡のいちばん上の斜面に、石を積んだ低いものが、いくつも並んでいた。
墓だろう、と思った。
二十五年前と、同じ谷だった。
窓の外の白が、ほんのわずか薄くなった。
猊下が、深くお眠りになったのだ。
寝台は、お使いにならなかった。石の床の上で、膝を胸のほうへ寄せて。お部屋を下がる前に、戸口からそれを見た。
二十五年、お仕えしてきた。猊下が横になられるのを見るようになったのは、この夏からだった。
白が薄くなったぶんだけ、谷が近くなった。
夏至の夜から、戻ってきたものがある。
白陽の間で、猊下に伺った日のこと。北の谷の、夜の番人の裔を、浄めてよろしいでしょうか、と。
若かった。白陽のためになることなら、何でもしたかった。
猊下は、いつものように仰せになった。
――かまわぬ。
輿の中で、鈴に答えていらしたのと、同じ声だった。
文を携えて、王都へ下った。王都の司教は、文を読み終えると、手巾で額の汗を拭った。それから、神殿騎士団を出した。
聖都の見届け役として、白い外套の列に加わって、北へ向かった。山が近づくにつれて、雪が深くなった。
雪の谷だった。
騎士たちが、茅葺きの屋根に火を放った。黒い煙が谷の空に何本ものぼった。馬の上で、年かさの騎士が声を張りあげた。
――聖なる光の名において、この村を浄める!
広場の真ん中で、痩せた男がひとり、泣き叫ぶ女の子を抱いて、歌っていた。
――ねんね ねんね ひが しずむ
火の音の中で、その節だけが耳に残った。
この七日、輿の中で、猊下が言葉をのせずになぞっていらした節だった。
それから、目の前が白くなった。
眩しくは、なかった。ただ、白かった。足もとを見ると、自分の影が、なかった。
泣き声が、やんでいった。
村の者たちが、笑っていた。燃える家の前で。降りかかる火の粉を、払いもせずに。
逃げる者は、ひとりもいなかった。燃え落ちる屋根の下で、笑ったまま見えなくなっていった。
歌っていた男の背から、白いものが立ちあがっていた。屋根より高く。顔が、なかった。口もとだけが、微笑んでいた。
騎士たちが雪に膝をついた。光だ、と誰かが言った。
気がつくと、自分も膝をついていた。
燃える家の戸口に、小さな子が立っていた。
笑っていた。
次に気がついたときには、駆けだしていた。火の中へ両手を突き入れて、子の腕をつかんだ。
引いた。
子は、笑ったまま、その手を振りほどいた。
両手が、焼けた。
谷に、泣き声がひとつだけ残っていた。広場の、白いものの足もとで、あの女の子が泣いていた。
その声も、やがて途切れた。
女の子は、顔を上げて――笑った。
白いものが、ほどけて、雪になった。
焼けた手の甲に、ひとひら、落ちた。あたたかかった。
溶けなかった。
若い騎士がひとり、雪を踏んで、女の子の前に膝をついた。笑っている子を抱き上げた。そのまま、馬のほうへ歩いていった。
日が、落ちた。
騎士たちの列のいちばんうしろで、谷を出るとき、一度だけ振り返った。
暗くなった谷のどこかで、男がひとり、泣いていた。
誰なのかは、知らない。
聖都へ戻って、白い手袋をはめた。
白陽の間に仕えた。白陽の、いちばん近くで。
毎朝、猊下の前に膝をついて、その日のことを申しあげた。猊下は、何を申しあげても、かまわぬ、と仰せになった。日に、何度も。
悲しいことは、日がたつと遠のいていった。白い都の、誰もがそうであるように。
笑って、勤めた。二十五年。いつのまにか、侍祭長と呼ばれるようになっていた。
夏至の夜、聖都に夜が来た。
大階段の上で、星を見上げた。二十五年ぶりの星だった。
見上げているうちに、すべてが戻ってきた。火の音も。煙の匂いも。子の笑い顔も。振りほどかれた手の、熱さも。
一度に。
あの晩から、笑い方がわからなくなった。
侍祭長は、焼けた両手を膝の上に置いた。
窓の下で、谷は白く静まりかえっていた。
もう一度、覆われたい。
白陽の、いちばん近くで。何もかもが、また遠くなればいい。
自分だけでは、ない。
誰も、あんなものを思い出さずにすむように。
そのための儀だった。
眠りは、来なかった。白い夜の眠りは、もとから浅い。その浅い眠りさえ、来なかった。
侍祭長は手袋をはめなおした。指を一本ずつ、元のとおりに。
廊下へ出た。
石の廊下は、白く明るかった。窓という窓から、乳色の光が床にさしこんでいる。
向こうから、足音がした。
灰色の修道衣の女が歩いてきた。袖を肘までまくっている。厨房から戻るところらしかった。かすかに、鍋の焦げた匂いがした。
麦わらより淡い色の髪。淡い金色の目。
侍祭長は、足を止めた。白い手袋の手を、胸の前で組んだ。
頭を、下げた。
「……ソレーヌさま」
女の足が、止まった。
「私は、ヘルミです」
夏至の夜、白い回廊で聞いたのと、同じ声だった。
侍祭長は、知っていた。この人が、誰なのか。
あの谷で、泣いていた女の子だった。泣いて、泣いて、最後に、笑った子だった。
ヘルミさま、と言おうとした。
唇は、動かなかった。
淡い金色の目が、胸の前で組んだ白い手袋の上に、ひと息、とどまった。
それから、女は侍祭長の脇を通りすぎていった。振り返らなかった。
廊下の先に食堂の戸口があった。
戸口に、大きな男が立っていた。白い髭。岩を削ったような顎。灰色の目。
灰色の目は、通りすぎていく修道衣の背中を追っていた。それから、侍祭長の上に移った。
男が顎をわずかに引いた。
冷たい会釈だった。
夏至の夜、白い回廊で、衛士たちの槍の前に素手で立った男だった。聖女さまを連れ戻せ、と衛士たちに言ったのは、侍祭長だった。槍の柄に打たれても、男は倒れなかった。
騎士団長どの、と衛士のひとりが、この男を呼んでいた。
その晩、星の下で戻ってきた顔のなかに、この男の顔も、あった。
若い顔だった。髭は、なかった。あの日、雪の上で、笑っている女の子を抱き上げた、あの若い騎士だった。
灰色の目は、白い回廊の男を見る目だった。二十五年前の、谷の若い侍祭を見る目では、なかった。
侍祭長は頭を下げ返した。
明けがた、侍祭長は猊下の部屋の戸口で、鈴を鳴らした。
ちりん、と。
窓の外の白が、また濃くなった。
戸口の脇の台で、手のつけられていない椀が、冷えきっていた。
行列は峠を下りはじめた。
門の前で、年老いた院長が、行列に頭を下げていた。侍祭長は白い馬の上から、うしろを振り返った。
白陽が、峠の上からゆっくりと、輿の上の空へついてきていた。
修道院の崖の上に、人影がひとつ立っていた。
小さかった。灰色の衣の裾が風に揺れていた。
谷を見下ろしていた。
侍祭長は前を向いた。
手綱を握りなおした。白い手袋の下で、古い痕が引きつれた。
二十五年ぶりに、侍祭長はその谷へ下りていった。
◆
北の山の向こうだけが、白かった。
日が暮れると、麓の町の空には星が出た。それなのに、北の尾根の上の空だけが、乳色に白んで、ぼんやりと明るい。そこにだけ、星がひとつもない。
宿の二階の窓から、ミレイアはそれを見ていた。
風が、冷たかった。雪の匂いがした。
胸の聖印も、冷たいままだった。あの白は、まだここまでは来ていない。
王都を発って十四日。
発つ朝、陽だまりの家の戸口で、シエルは自分から言ったのだった。
「……おねえちゃんに、あいたい」
それから、首を少しだけ右にかしげて、アルバンのほうを見た。
「それと、アルの、だいじなひとも、みたい」
アルバンの耳が、みるみる赤くなった。何か言いかけて、口を閉じて、それきり何も言わなかった。
ガルドは、行かなかった。
戸口の柱にもたれて、腕を組んだまま言った。
「ガキどもは、俺が見てる」
黒狼の里から、イルザが王都の裁きに引かれてくる。その日に、王都を空けるわけにはいかないのだろう。誰も、それ以上は訊かなかった。
石段の下で、いちばん小さな女の子が、シエルの外套の裾をぎゅっと握っていた。シエルはしゃがんで、その子の髪を指で梳いてやった。それから、立ち上がって手を振った。坂の途中で、二度振り返った。
北への道のりのほとんどを、シエルはアルバンの馬の背に揺られて来た。アルバンは手綱を引いて、その隣を歩いた。十四日、一度も自分では乗らなかった。
北へ行くほど、朝の風が冷たくなった。北の山が、日ごとに空の高いところまで、せり上がってきた。
レオニスは休むたびに、どこかで寝ていた。
――降陽の儀まで四十六日:荷車の上で、昼寝。持ち主に、断りなく。
罪状帳の日付は、毎晩、ひとつずつ減っていった。昼寝の数は、少しも減らなかった。
麓の町の広場には、白い花を売る屋台が、いくつも出ていた。聖都の行列を迎えるためだという。行列は、いつまでたっても峠から下りてこない。屋台の花は、しおれかけていた。
宿の食堂では、北から下りてきた荷車の男たちが、卓を囲んでいた。鉱山の鉱石を、町まで運んでくる男たちだという。
髭の男が杯を置いた。
「谷が、真っ白でな」
向かいの若いのが、うなずいた。
「十日あまり前からだ。夜が、来やしねえ」
髭の男が声を落とした。
「鉱山の囚人どもが、みんな手を止めて、笑ってやがる。見張りの兵まで、いっしょになってな」
若いのが肩をすくめた。
「白い行列が、谷に居座ってるんだとよ。聖都の、えらいお方の」
ミレイアの向かいで、レオニスの手が止まった。パンを、ちぎりかけたまま。
蝋燭の明かりで、その手の影が卓の上に落ちていた。濃い影だった。聖都では、この人の影が、誰の影よりも淡かった。
アルバンは、窓のほうへ目をやっていた。北の空のほうへ。
あの老人が、白い陽を連れて、谷にいるのだ。
ミレイアの隣で、シエルが袖を引いた。
「たにって、おねえちゃんの、とこ?」
ミレイアは、うなずいた。
「峠のすぐ下です」
シエルはそれきり黙って、スープの残りを飲んだ。
食事を終えると、レオニスは何も言わずに宿の屋根へ上っていった。
宿の部屋は、狭かった。寝台がふたつと、卓がひとつ。
卓の上で、短い蝋燭の火が揺れていた。ミレイアは、罪状帳を開いた。
頁のいちばん上に、今朝書いたふたつの名前が並んでいる。
あの白の下へ、また行くのだ。書いた名前が遠くなっていく場所へ。
監視対象が、行くのだから。
ペン先を紙に下ろした。
――降陽の儀まで四十日:麓の町に着く。宿の屋根に、上る。
降りてこない、と書き足すかどうか、少し迷った。
寝台の上で、シエルが自分の髪を梳いていた。櫛の歯が亜麻色の髪を、さり、さり、と通っていく。
「あしたは、たに?」
「雪が降らなければ」
「ふうん」
櫛の音がまた続いた。
それが、ふっとやんだ。
「ミレイアさん、まいにち、レオにいちゃんのこと、かいてる」
「罪状です」
シエルは、櫛を膝の上に置いた。
「ミレイアさんは、レオにいちゃんの、どこが、すき?」
ペン先が、紙の上で止まった。
黒い染みがじわりと丸く広がった。
「す、すき、では、ありません」
声が、裏返った。
「監視対象です。罪状を書きとめているだけです」
シエルは膝の上の櫛を指でなぞりながら、しばらく何か考えていた。
それから、首を、少しだけ右にかしげた。
「……かんしたいしょうは、すき?」
ミレイアは、罪状帳を顔の前まで持ち上げた。
革の表紙の向こうで、シエルがくすくすと笑う声がした。
頬が、熱かった。
どこが、と訊かれても。
寝癖。昼寝。すぐに腹が減ったと言うところ。人の話を、半分しか聞いていないところ。
罪状なら、いくらでも書けるのに。
屋根の上で、みしり、と板が鳴った。
ミレイアは、帳面の陰で息を止めた。
◆
ゆうべのうちに、初雪が降った。
丘の上の墓地は、うっすらと白かった。藁で包んだ巣箱の上にも、墓標の頭にも、雪が薄くのっている。蜂の羽音は、しなかった。
レオニスは、ひとりで丘の端まで上った。吐く息が、白かった。丘の下では、町の家々の煙突から、朝の煙が細く、まっすぐにのぼっていた。
名のない、細い木の墓標が、ひとつだけ立っていた。
頭にのった雪を、手のひらで払った。
冷たかった。雪は、手のひらの上ですぐに水になった。
「……爺さんとこ、行ってくる」
墓標は、答えなかった。昼寝の邪魔をされるのを、何より嫌う人だった。
四年前、街道沿いの楡の木の下で、昼寝をした。
目を覚ますと、師匠は、いなかった。頭の横に、この鉄剣が置いてあった。
昼寝のあいだに、出ていったのだ。顔も、見せずに。
あの手紙を書いていた晩も、焚き火の向こうで、背中を向けていた。寝てろ、とだけ言って。
六年、隣にいた。泣き顔は、一度も見せなかった。
手紙には、谷で泣いた、と書いてあった。暗くて、誰にも見られなくて、よかった、と。
夏至の晩に開いた小さな紙には、泣け、と書いてあった。
人には、泣けって書いといて。
……師匠も、泣きたかったんじゃねえのか。
今になって、そう思った。
外套の上から、胸のあたりに手を当てた。手紙も、小さな紙も、まだそこにある。
うしろで、雪を踏む音がした。
墓守の婆さんだった。綿入れを着ぶくれて、藁の束を抱えている。巣箱の藁を、巻きなおしに来たのだろう。
婆さんは、レオニスのほうを見なかった。北の山のほうへ目をやっていた。
尾根の上の空が、朝の光の中でも薄く、白く濁っている。
「……北の谷が白くなるのは、二十五年ぶりだね」
それだけだった。婆さんは、巣箱のほうへ歩いていった。
二十五年前も、この丘から、あの白を見たのだろう。
その日は、峠道の雪が落ち着くのを、町で待った。レオニスは、宿の屋根で一日、北の空を見ていた。
夕方、梯子のきしむ音がした。
ミレイアが、屋根の上に顔を出した。黙って、丸パンをひとつ差し出してくる。
レオニスも、黙って受け取った。
ゆうべ、屋根の板が鳴ったことは、どちらも口にしなかった。
明くる朝、暗いうちに町を発った。
峠道を上った。
振り返ると、麓の町の屋根が、雪をかぶって小さく固まっていた。道の脇の木の枝から、ときどき雪がぱさりと落ちた。
上るほど、空が白くなっていった。夜明けの青さが、北の空から先に消えていく。
どこからが白の下なのか、はっきりとは、わからなかった。気がつくと、空に青いところがなくなっていた。
足もとの影が、少しずつ淡くなった。誰の影も、同じように。
踏んでいる雪が、いつのまにか、鳴らなくなっていた。冷えた雪の、きゅっ、という音が、しない。
馬の背で、シエルが両手をそっと広げた。
「……あったかい」
隣で、ミレイアが胸もとに手をやった。
「聖印が、ぬるいです」
手綱を引くアルバンは、何も言わなかった。前だけを見ていた。
白の中へ入っても、胸の底は、黙ったままだった。
昼を過ぎたころ、谷の入り口に着いた。
四年前の春、師匠は、ここで見つかった。あったかい雪の上で、眠ったまま。
その雪は、この春の雨の夜に消えた。消えたあとには、薄い緑が出ていた。
その上に、また白が積もっていた。
ひとひら、目の前を雪が落ちてきた。手のひらで受けた。
あたたかかった。
溶けなかった。
手のひらの上で、ひとひらは、いつまでも白いままだった。
柵の向こうに、鉱山の小屋が並んでいた。
小屋の前で、囚人たちがつるはしを足もとに置いたまま、笑っていた。雪の上に腰を下ろして、隣の者と何か言いあっては、目を細めている。
見張りの兵が、槍を雪に突き立てて、いっしょに笑っていた。
誰も、こちらを見なかった。
馬の背で、シエルが両手を膝の上に下ろした。
「……みんな、わらってる」
ミレイアは、何も言わなかった。その指が、腰の剣にかかっていた。
焼け跡の向こうに、白い幟が何本も立っていた。風がないのか、垂れたまま動かない。
焼け跡のいちばん上の斜面に、石を積んだ墓が並んでいた。
春に、皆で積んだ墓だった。あたたかい雪が、その上にやわらかく、かぶさっている。
斜面の下に、白い外套の衛士がふたり、立っていた。槍を抱えたまま、笑っていた。
墓のあいだに、白い衣がひとつ、立っていた。
骨の浮いた、小柄な爺さんだった。裸足で、あたたかい雪にくるぶしまで沈めて、空を見上げている。袖口から、枯れ枝のような手首がのぞいていた。
足もとに、影は、なかった。
見上げた先に、白陽がかかっていた。
うしろでアルバンが小さく、猊下、と言った。
王都の台所で、目の奥に浮かんだ絵と、同じだった。
星でも、探してんのか。
こんな、真っ昼間に。
レオニスは雪を踏んで、斜面を上った。衛士たちは、笑ったまま、こちらを見もしなかった。
近づくと、かすかな声が聞こえてきた。
歌っているのでは、なかった。言葉のない声だった。口の中で、節だけをなぞっている。
北の村の、子守唄の節だった。
振り返ると、アルバンが斜面の下で足を止めていた。手綱を握ったまま、そこから先へは上ってこなかった。
爺さんは、まだ空を見ていた。
「……よう、爺さん」




