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光の闇司祭④ 黒夜の教皇  作者: parupuntist


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第一章 小鳥の手巾

 秋の陽だまりは、夏のより少しだけ低い。


 低いぶん、斜めに差しこんでくる。夏のあいだは昼を過ぎるとすぐに日陰になった壁ぎわの板まで、このごろは日が傾くまで、ほかほかと温かい。


 坂の途中の、新しい陽だまりの家だった。二階の窓の下に、短い庇(ひさし)が張り出している。その上で、レオニスは刃のない古い鉄剣を枕に、黒い外套のまま仰向けに寝転がっていた。


 寝癖だらけの黒髪を、秋の風が好きなようにかき回していく。胸の上では、ランタンの形をした黒鉄の聖印が、陽を吸ってぬくもっていた。


 坂の下では、川沿いの柳が黄ばみはじめていた。細い葉が、ひとひら、またひとひら、水の上へ落ちていく。


 ここのところ、昼過ぎはたいていこの庇の上にいる。


 戸口の石段のほうから、さり、さり、と櫛(くし)の歯の音が上がってくる。


 シエルが、子供たちの髪を梳(す)いているのだ。膝のあいだに、ひとりずつ座らせて、順番に。聖都から一緒に下りてきた亜麻色の髪の娘は、いつのまにか、この家の昼過ぎをそうやって過ごすようになっていた。


 この家でいちばん小さな女の子の声がした。


「……レオにいちゃん、きょうも、ねてる」


 庇を見上げているのだろう。シエルが、のんびりと答えるのが聞こえた。


「うん。きょうも」


 櫛の音は、止まらなかった。


 レオニスは、片目だけを開けた。


 頭の上の窓が、開け放してあった。窓掛けは、外して洗ったらしい。庇の板の上に、何枚も広げて干してある。紺の地に白い糸で刺した星が、大小とりまぜて散っていた。


 昼日中から、星に囲まれて寝ていたことになる。


 仰向けのまま顎を上げると、開いた窓の奥に、天井の梁(はり)が見えた。白墨の字が、逆さまに並んでいる。


 寝台の真上に来る梁に、一本ずつ。この家の子供たちの名前だった。


 夏のあいだに、何度か書きなおされている。消えかけるたびに、大きな手が白墨でなぞりなおすのだ。


 レオニスは、陽にかざすように片手を上げた。


 手の影が頬に落ちた。くっきりと、濃い影だった。


 いちばん短い夜から、百十日あまりが過ぎていた。


 あの晩から、胸の底は静かなままだ。おいで、と呼ぶひどく優しい声も、聞こえない。


 手を下ろした。


 台所の裏で、戸のきしむ音がした。


 物置から、大柄な男が工具の袋を提げて、のそりと出てくる。伸びた黒髪を無造作に束ねて、顎には無精髭。左の手首に、色褪(あ)せた茜(あかね)色のリボンを巻いている。


 ガルドだった。


 この家を建て終えた日に、足首の鎖が外れた。それからガルドはあの物置を自分で直して、そこで寝起きしている。週に一度、伯爵家へ、妹とその子供たちの顔を見に行く。ほかの日は、窓の留め金だの、寝台の脚だのを、黙って直して回っていた。


 ガルドは庇の脇に梯子を立てかけて、上ってきた。


 庇がみしりと鳴った。


 レオニスは、寝転がったまま言った。


「……落ちるぞ」


「俺が建てた庇だ。落ちねえ」


 ガルドは、二階の窓の留め金を太い指で確かめた。金槌(かなづち)で、こん、と一度叩く。


 それから、足もとの黒い外套を見下ろした。


「おう、欲張り。降りてこい。紐、直すの手伝え」


 窓掛けの紐のことだった。窓ぎわの寝台の脇の一本が、すり切れかけている。


 毎晩、手のひらひとつぶんだけ、誰かが引くからだ。


「……あと半刻(はんとき)」


 ガルドは、鼻を鳴らした。それきり、隣の窓の留め金に取りかかった。


 金槌の音が、こん、こん、と坂に響いた。


 半刻が過ぎた。


「半刻、経ったぞ」


「……じゃあ、あと一刻(いっとき)」


「増えています!」


 坂の下から、声が飛んできた。


 レオニスは、首だけを庇の縁(ふち)から突き出した。


 肩で切りそろえた銀髪の娘が、坂を上がってくるところだった。腕に、丸パンの籠を提げている。髪に、粉が少し残っていた。


 ミレイアだった。


 ミレイアは石段の脇に籠を置くと、庇を見上げた。


「降りてください」


 レオニスは、のそのそと梯子を下りた。


 庇の上から、ガルドの声が降ってきた。


「俺が言っても、降りてこねえくせに」


 すり切れた紐が、上からぽとりと落ちてきた。続いて、新しい麻紐の束も。


 レオニスは石段の端に腰を下ろして、麻紐を古いのと同じ長さに切った。端に、結び目をこしらえる。ほどけないように、二重に。


 シエルの膝のあいだから、さっきの女の子が首をのばして、こちらの手もとを見ていた。


「……ちゃんと、ひける?」


 レオニスは、結び目をぐいと引いてみせた。


「引ける」


 女の子が、重ねて訊いた。


「まいばん?」


「毎晩でもな」


 女の子はほっとしたように、シエルの膝に背中をあずけた。


 ミレイアが、籠を挟んで隣に腰を下ろした。籠から、パンの匂いがする。


「……腹、減った」


「紐が先です」


 ミレイアは、懐から革表紙の帳面を取り出した。


 罪状帳。


 ペンが、さらさらと走った。レオニスは、横から覗きこんだ。


 ――本日:庇の上で、昼寝。四日つづけて。


「……数えてんじゃねえよ」


「数えさせないでください」


 ミレイアは、顔も上げなかった。


 シエルが櫛を持ったまま、首を少しだけ右にかしげて、帳面に顔を寄せた。


「……ミレイアさんの、にっき?」


「罪状帳です!」


 シエルの膝のあいだで、女の子がけらけらと笑いだした。


◆


 日が傾くころ、川沿いのパン屋の店先は、ひとしきり混む。


 西日が、川面(かわも)を金色に光らせていた。夕飯のパンを買いに来た客で、戸口の鈴が鳴りやまない。粉だらけの前掛けの親父が、台の向こうで丸パンを紙に包んでは手渡していく。焼き場の竈の前では、頬に粉をつけたユナが、最後の天板を出していた。


 レオニスは戸口の脇の長椅子で、形の崩れた丸パンをかじっていた。売り物にならないのを、親父が黙って寄越したのだ。この店の屋根裏に、居候している身だった。


 列のなかほどで、干し魚の籠を提げた男が、前の女に話しかけていた。


「聞いたかい。聖都じゃ、このごろ夜が来るんだとよ」


 前の女が、目をまるくして振り返った。


「夜って……あの、夜の来ない都に?」


 うしろの年寄りが、杖の先で石畳を突いた。


「昼過ぎに、巡礼帰りの荷車が北の門から入ってきたろう。あの連中の話じゃ、空のてっぺんに星が出るそうだ」


 干し魚の男が、声を落とした。


「なんでも、猊下(げいか)がお眠りになるんだとさ。聖都じゃ、眠らないお方で通ってた猊下が、だぞ」


 パンをかじる口が、止まった。


 ……寝るのか。あの爺さんが。


 白い広間を思い出した。祭壇の前で、骨の浮いた小さな背中が膝をついて祈っていた。


 あれが、眠る。


 ……そりゃ、何よりだ。


 口の中で、そう言った。眠れねえのは、つらい。それだけは、身にしみて知っている。


 鈴が、また鳴った。


 入ってきたのは、旅の土ぼこりにまみれた女だった。まだ若い。胸に、白い花の束を抱えていた。花は、とうに枯れて、茶色く縮れている。


 聖都の巡礼たちが、白陽さまに捧げるのだと言って、抱えて歩いていた花だった。


 親父の手が、台の上で止まった。


「戻ったのか」


 女は、うなずいた。


 去年の冬までは毎朝、小さな丸パンをふたつ買っていった人だという。坊やを亡くしてからは、ひとつになった。春に、聖都へ巡礼に出た。忘れに行くのだと言っていたそうだ。あとで、ユナから聞いた話だ。


 女は、台の前で花の束を抱えなおした。


「……白陽さまが、翳(かげ)っておしまいになって」


 声が、かすれていた。


「思い出して、しまったんです」


 女の横顔が、くしゃりと歪んだ。


 枯れた花の上に、涙がぽたぽたと落ちた。並んでいた客たちが、目を逸らした。干し魚の男が、籠を持ちかえてうつむいた。竈の前で、ユナが天板を持ったまま、動かなくなっていた。


 レオニスは、外套の内側に、手を入れた。


 指先に、紙の手ざわりしかなかった。


 青い小鳥の手巾(ハンカチ)は、聖都の審問官に貸したままだった。


 手を外套から出した。


 何も、言えなかった。


 親父が、籠から小さな丸パンをひとつ取った。


 黙って、女の手に持たせた。


 女が懐を探って、銅貨を出しかけた。親父は、首を横に振った。


 女はパンを握りしめたまま、声を殺して泣いていた。


 聖都を発った朝が、目に浮かんだ。


 巡礼宿の前の白い通りで、目を泣き腫らした人と何人もすれ違った。あの都に初めて夜が来た、いちばん短い夜の、あとだった。


 同じ朝、通りの向こうの窓辺で、寝癖を得意そうに指さした子供もいた。よるに、ねたの、と。


 あの朝は、子供に片手を上げて、泣いている人たちとは、ただすれ違っただけだった。


 女が帰っていったあと、戸口の鈴は、少しのあいだ鳴らなかった。


 夕暮れの川風が、店の中へ入ってきた。


 表の窓は、開いたままだった。


◆


 二日のちの夜明け前だった。


 パン屋の二階の物置は、いつも粉の匂いがする。


 積みあげた粉袋の隣の、狭い寝台で、ミレイアは短い蝋燭に火をともした。膝の上に、革表紙の帳面を開く。


 新しい頁(ページ)のいちばん上に、ふたつの名前を書いた。


 父の名と、母の名。


 このごろは、ペン先がためらうこともない。書いているあいだ、母の声がする。父の、大きな、のんきな笑い声も。


 聖都では、違った。


 毎朝、同じように書いても、ふたつの名前は他人の字のように遠かった。声は、書いているあいだだけ近くなって、ペンを置くと、また遠のいていった。


 あの白い都の、白い陽の下で。


 階段を下りると、焼き場の竈に、もう火が入っていた。湯を張った鍋から、湯気がのぼっている。このごろは、朝の湯気が白く見えるようになった。


 親父が、生地の桶を抱えてこちらを振り返った。


「起きたか」


「おはようございます」


 ミレイアは袖をまくって、作業台の前に立った。


 生地を捏(こ)ねる。手のひらの付け根で押して、畳んで、また押す。この店に来てから、これだけは、うまくなった。


 最初の天板が焼けはじめると、店じゅうに香ばしい匂いが満ちた。


 この匂いがすると、父の笑い声が、いちばん近くなる。


 仕込みが終わるころ、大聖堂の鐘が鳴った。


 朝の祈りの鐘とは、打ち方が違った。


 ミレイアは前掛けを外して、広場へ出た。


 大聖堂前の広場は、人で埋まっていた。


 正面の石段の上に、白い法衣の男が立っていた。金糸の縁取りが、朝の陽に光っている。背の高い、四十には届かないだろう男だった。


 王都の新しい司教だった。前の司教が聖都へ呼び戻されたあと、春に聖都から下ってきた人だ。


 石段の脇の、白い石の掲示板に、真新しい紙が貼られていた。白銀の太陽の紋章の下に、四行。


 司教は、紙を見なかった。広場を見渡したまま、よく通る声で一行ずつ読みあげた。


「――聖都の白陽、いたく翳りたまう」


「――猊下、白陽とともに、王都へ御幸(みゆき)あらせらる」


 広場が、ざわめいた。


 司教は、ざわめきが鎮まるのを待たなかった。


「――冬の新月の夜、大聖堂にて、降陽の儀を執り行う。白陽、祭壇に降りたまい、ふたたび地の果てまで昇りたまわん」


 ひと呼吸、おいた。


「――闇司祭を、匿(かくま)うなかれ」


 ミレイアは、川のほうへ目をやりそうになった。


 川沿いの店の屋根裏で、闇司祭がひとり、まだ寝ているはずだった。


 司教は一礼して、石段の上から下がっていった。


 広場じゅうが、いっせいに口を開いた。


 すぐそばの年寄りが、両手を胸の前で組んだ。


「白陽さまが、王都に……」


 その隣で、若い女が掲示板を見上げていた。枯れて茶色くなった白い花の束を、胸に抱えている。


「もう、泣かずにすむのですか」


 うしろのほうで、誰かが声をひそめた。


「聖都みたいに、夜が来なくなるってのか」


 ミレイアは、胸もとの聖印にそっと触れた。


 白銀の太陽は、まだ冷たかった。


 聖都では、ずっとぬるかった。ぬるい聖印を胸に下げたまま、毎朝、ふたつの名前を書いた。


 白陽が、来る。


 聖都で毎朝、自分に起きていたことが、王都じゅうで起きる。広場にいる誰の胸でも、大切な名前が少しずつ遠くなっていく。


 枯れた花の束を抱えた女は、掲示板の前から動かなかった。


 石段の下で、若い司祭が掲示板にもう一枚紙を貼った。


 ――黒狼(こくろう)の里の闇司祭イルザを、王都に引き、裁きの間にて裁く。


 ミレイアは、その一行を読みかえした。


 鋭い目つきの女の顔が浮かんだ。腰に鎖を巻いていたころの顔ではない。黒狼の里の炊事場の戸口で、前掛けで濡れた手を拭いていた顔だ。


 裁きは、王都に任せる。――ミルテの人たちがそう決めたのだと聞いたのは、もう一年近く前のことだ。


 その日が、来たのだ。白陽と、同じ冬に。


 ガルドにも、知らせなければならない。


 パン屋に戻ると、親父が店先の籠に焼きあがった丸パンを並べていた。


 布告のことは、もう朝の客から聞いたらしい。ミレイアの顔を見て、手を止めた。


「……白いのが、来んのか」


 ミレイアは、うなずいた。


 竈の前で、ユナが薪をくべた。手を止めずに言った。


「うちの窓は、閉めないよ」


 親父は、返事をしなかった。開け放した表の窓にちらりと目をやって、それから、丸パンをまたひとつずつ、籠に並べはじめた。


 ミレイアは、服の上から懐の罪状帳を押さえた。


 今朝書いたふたつの名前が、そこにある。


 まだ、近かった。


◆


 聖都を発って十一日。王都の北の門をくぐったのは、その昼過ぎだった。


 門番が、白い衣を見てあわてて槍を立てた。審問官の衣だった。裾から膝のあたりまで、旅の泥で灰色に汚れている。


 アルバンは、馬の首を軽く叩いた。


 灰色の髪の、十六の少年だった。ろくに眠らずに来た。行列が聖都を発つ六日前に、ひとりで出てきたのだ。


 聖都を出て三日目に、道ばたの草が、白からただの枯れ色に変わった。五日目には、自分の影が目に見えて濃くなった。


 通りへ入ると、馬を下りて、手綱を引いた。


 王都は、匂いの多い都だった。焼き栗の屋台。川の水。落ち葉を焚く煙。聖都の白い通りでは、白い花の香りばかりがしていた。


 右手が、ときどき何かを探した。


 ランタンの提げ手だった。


 ランタンは、聖都の書庫に置いてきた。開いたままの、三百年前の書の隣に。わかっているのに、手のほうが、まだ覚えている。


 路地の暗がりを覗いてしまう癖も、抜けなかった。家と家とのあいだの細い隙間に、誰かがうずくまっていないか。


 照らすものは、もう持っていないのに。


 アルバンは、懐に手を当てた。


 白い革の帳面の隣に、畳んだ布が入っている。青い糸で小鳥を刺した手巾だった。宿場の井戸で、二度洗った。角を、きちんとそろえて畳んだ。


 馬の蹄(ひづめ)の音を聞きながら、聖都の白い夜を、ひとつ思い出していた。


 その日、猊下は、昼のあいだ長くお眠りになった。白陽の間(ま)の光が、いつもよりずっと翳っていた。


 白い夜の空も、いくらか暗かった。空のいちばん高いところに、星がいくつか、のぞいていた。


 目を覚ました猊下は、裸足で白陽の間を出られた。回廊を歩いていかれた。


 回廊の衛士(えじ)たちは、止めなかった。夏至の夜から、誰も止めなくなった。うしろを歩くアルバンのことも。


 大階段の上で、猊下は空を見上げられた。


 そのとき、背中のほうが明るくなった。


 振り返ると、白陽の間の丸い屋根の上に、白い光が浮かびあがっていた。


 白陽だった。


 光は屋根を離れて、大階段の上の空までついてきた。猊下の頭の上まで。


 星が、ひとつずつ消えた。


 猊下は、白くなった空を、長いこと見上げていらっしゃった。


「……星が、ない」


 それだけ仰せになって、広間へ戻っていかれた。


 白陽も、戻った。


 降陽の儀が決まった日のことも、思い出していた。


 アルバンはいつものように、白陽の間の入り口に膝をついていた。


 このところ、毎日、そうしている。入り口から先へは、入らなかった。入れ、と言われたことは、一度もない。


 白い手袋の侍祭(じさい)長が、広間の奥へ入っていった。猊下の前に膝をついて、低い声で申しあげた。その声は、入り口まで届いていた。


 一字一句、覚えている。


 やがて、侍祭長は戻ってきた。入り口の脇を過ぎるとき、こちらを見なかった。あの人は、もうずっと笑っていない。


 広間の奥で、猊下が顔を上げていらっしゃった。


「……灰色の頭。汝も、来るか」


 声をかけられたのは、入り口に膝をつくようになって、初めてだった。


 ご覧になっていたのだ、と思った。


 名では、なかったけれど。


 アルバンは、白い床に両手をついた。


「……先に、参ります」


 猊下は、首をかしげられた。


「……そうか」


 務めは、満陽祭で終わっていた。聖都に残ったのは、務めではなかった。


 だから、これも、務めではない。


 書庫で見たものを、審問所に訴え出ることもできた。白い光の下に引き出して、照らし出すことも。審問官とは、そういうものだと教わってきた。


 そうは、しなかった。


 照らしても、変わらないものがある。それを、あの人たちに教わった。


 話しに行こう、と決めた。


 照らさずに、隣にいてくれる人たちのところへ。


 川沿いのパン屋の戸を押すと、鈴が鳴った。


 粉だらけの前掛けの、太った男が、台の向こうで顔を上げた。太い眉が寄って――何も提げていない手を見て、わずかにほどけた。


「坂の上だ」


 訊く前に、顎で坂のほうをしゃくった。


 竈の前から、頬に粉をつけた女の子が、言い足した。


「庇の上」


 庇の上、とアルバンは口の中で繰り返した。


 坂を上ると、木の壁の家が見えてきた。大きな窓が、いくつも並んでいる。二階の窓の下から、短い庇が突き出していた。


 戸口の石段で、亜麻色の髪の娘が、子供の髪に櫛を通していた。


 娘が顔を上げた。首が、少しだけ、右にかしいだ。


「……アル」


 そう呼ぶのは、ひとりだけだった。


 アルバンは、足を止めた。何か言おうとして、娘の目が、もうこちらを見ていないのに気づいた。


 娘は、上を見ていた。


 二階の窓の下の、庇。


 その縁から、黒い髪がひと房、はみ出していた。


 好き勝手な方角を向いていた。


◆


 シエルの声が、いつもと違った。


 それで、目が覚めた。


 レオニスは寝返りを打って、庇の縁から下を覗いた。


 石段の前に、白い衣が立っていた。裾が、泥にまみれている。灰色の髪は、ぼさぼさだった。


 その手に、ランタンは、なかった。


 アルバンはこちらを見上げて、深く、頭を下げた。


 レオニスは、梯子を下りた。


 下りきったところで、アルバンが懐から畳んだ布を出した。両手で差し出す。


「……お返しに、伺いました」


 青い小鳥の手巾だった。


「……早えよ」


 きちんと洗って、角をそろえて畳んであった。小鳥の青が、心なしか淡くなっている。


 レオニスは受け取らずに、アルバンの顔を見た。目の下に、濃いくまがある。頬が、聖都の城門で別れたときより、こけていた。


「……俺が行くって、言ったろ」


「急ぎの用が、ございましたので」


 アルバンは、手巾を差し出したまま、動かなかった。


 レオニスは、手巾を受け取った。外套の内側にしまう。


 ぐう、と腹の虫が鳴いた。


 アルバンの、だった。


 アルバンは背筋を伸ばしたまま、聞こえなかったような顔をしていた。耳だけが、赤くなっていく。


「鳴いたぞ」


「鳴きました」


 石段で、シエルがくすりと笑った。


 レオニスは、親指で勝手口のほうを指した。


「台所、来い。話は、食わせながら聞く」


 台所の卓には、ミレイアが昼に届けた丸パンの籠がのっていた。


 シエルが子供たちを二階へ上げてから、竈に鍋をかけた。ガルドは物置から出てきて、勝手口の柱に腕を組んでもたれた。卓の向かいで、ミレイアが罪状帳を閉じた。


 レオニスは籠から丸パンをひとつ取って、アルバンの手に押しつけた。アルバンはそれを両手で持って、ひと口かじった。それから、パンを膝の上に置いた。


「布告は、ご覧になりましたか」


 ミレイアが、うなずいた。


「三日前に。広場で」


「では、布告に書かれていないことだけを、申しあげます」


 アルバンは、背筋をもう一度伸ばした。


「猊下は、夏至の夜から、お眠りになるようになりました」


「聞いた。巡礼の噂でな」


「お眠りになるたびに、白陽が翳ります。お眠りになる刻が、日ごとに長くなっております」


 アルバンは、言葉を切った。


「それから。猊下が白陽の間をお出になると、白陽が、ついてまいります」


 台所が、静かになった。


 レオニスは、眉を寄せた。


「ついてくる?」


「丸い屋根の上へ浮かびあがって。猊下の頭の上の空まで」


 アルバンは、膝の上のパンに目を落とした。


「星を見に大階段の上へお出になっても、星が消えてしまうのです」


 レオニスは、黙っていた。


 裸足の爺さんが、白い空を見上げている。見たこともないのに、その絵が目の奥に浮かんだ。


 レオニスは、自分の手のひらに目を落とした。


 アルバンが、顔を上げた。


「書庫番さまが――」


 言いかけて、言いなおした。


「王都の司教だった方が、書庫の奥の棚から古い記録を出してくださいました。読みたい方が、読めばよいのです、と」


 書庫の、痩せたおっさんだ。


 アルバンは、懐から白い革の帳面を取り出した。審問録だ。頁を開いて、平らな声で読みあげた。


「――北の谷の、夜の番人の裔(すえ)、浄めたり。聖都より侍祭、文を携う。猊下、かまわぬと仰せらる。王都の司教、騎士団を遣わす」


 アルバンは、帳面から目を上げた。


「二十五年前の、冬の日付でした」


 北の谷。


 ヘルミの父親が、泣きやまない娘を抱いて、白くなった谷だ。ボルグの生まれた村だ。


 レオニスの口から、低い声が出た。


「知ってたんじゃねえか。教会は」


 アルバンは、目を逸らさずに、うなずいた。


「はい」


 アルバンは、帳面の一行に指を置いた。


「侍祭、とあるところに、名が書き添えてありました。……いまの侍祭長さまの、お名前です」


 ミレイアの肩が、動いた。


「あの、白い手袋の」


 アルバンが、続けた。


「書庫番さまは、ご自分の手巾を握りしめておいででした」


 声は、平らなままだった。


「そして、おっしゃいました。『……王都の司教とは、私でございます』と」


 ガルドが、柱から背を離した。


 太い腕が、壁へ振りあがって――板の手前で、止まった。


 自分で打った、壁だった。


 拳が、下りた。二十年前、狼谷(おおかみだに)を焼かれた男だった。


 ミレイアの指に、力がこもっていた。閉じた罪状帳の、革の表紙の上で。


 竈の上で、鍋の湯が噴きこぼれていた。


 シエルは、気づいていなかった。鍋の前に立ったまま、アルバンの顔を見ていた。


 レオニスは立っていって、鍋を竈の脇へ下ろした。


 それから、首のうしろを掻いた。


「……爺さんは、知ってんのか」


「ご存じありません」


 アルバンは、首を横に振った。


「猊下は、かまわぬと仰せになったことを、覚えておいでではありません。……日に何度も、そう仰せになる方ですので」


 勝手口の柱で、ガルドが喉の奥で短く息を吐いた。


「……やった奴は、覚えてねえ、か」


 その手首で、色の褪せたリボンが揺れていた。


 あの爺さんなら、そうだろう。何を言われても、そうか、とうなずいていた。


 アルバンが、膝の上で両手を重ねた。


「降陽の儀が決まった日に、侍祭長さまが猊下に申しあげるのを、入り口で聞きました」


 ひと息おいた。


「『王都の地の底に、ひを、だいた、かあさまが、おわします』と」


 竈の前で、シエルの唇が小さく動いた。


「……よるの かあさま ひを だいて」


 北の村の、子守唄の二行目だった。


 地の底の神殿の、顔のない女神を思った。その胸に抱かれた、小さなランタンを。


「猊下は、お眠りのあいだに唄をお聞きになったのだそうです。……侍祭長さまは、それをご存じでした」


「爺さんは、何て」


「『……会いに、行こう』と」


 アルバンの膝の上で、パンがつぶれた。


「侍祭長さまは、地の底の祭壇で、白陽をもう一度、地の果てまで昇らせるおつもりです。……布告のとおりに」


 ミレイアが、顔を上げた。


「そうなったら、王都は――」


 そこで、言葉が切れた。


 言わなくても、わかった。聖都の白い通りで、にこにこと笑っていた人たちの顔が、目に浮かんだ。


 ガルドが、天井を見上げた。二階で、子供たちが何か笑いあっている。


「……ガキどもも、か」


 アルバンが、続けた。


「行列は、五日前に聖都を発っているはずです。白の高原を渡って、峠を越え、北の谷を下って、麓の町から王都へ。……巡礼の古い道です」


 レオニスは、勝手口の向こうの空へ目をやった。


「……谷に、白が来るのか」


 峠の修道院の厨房で、鍋を焦がしている女がいる。毎朝、水桶を提げて谷の墓へ下りていく、白い髭の大男がいる。谷の鉱山で、片腕で鉱石の籠を担いでいる男がいる。


 その谷の上に、白陽がかかる。


 竈の脇で、鍋の湯気が細くなっていった。


 レオニスは、外套の内側に、手を入れた。


 指先に、紙が触れた。四年前の紙切れと、北から届いた手紙と――師匠の、手紙。その隣に、今しまったばかりの、手巾。


 師匠の汚い字を、思い出す。


 ――兄貴は、いつか届けると言っていた。


 夏至の晩、唄は白陽の間に届いた。四行目で、あの小さな背中が立ち上がった。


 それきりだ。


 台所を見回した。


 勝手口の柱に、ガルドがもたれている。竈の前に、シエルがいる。卓の向かいに、ミレイアがいる。天井の上では、ぱたぱたと子供たちの駆けまわる音がしていた。


「……行くか」


 アルバンが、こちらを見た。


「どちらへ」


「北だ。……爺さんに、会いに」


 ミレイアが、罪状帳を胸に引き寄せた。


「なぜ、あなたが」


「……師匠の、宿題だ」


 レオニスは、外套の上から胸のあたりを軽く叩いた。


「唄は、届いた。……けど、あの爺さんは、まだ、泣いてねえ」


 誰も、口を挟まなかった。


 レオニスは、ミレイアのほうを見ずに言った。


「泣けねえ子に届けるってのは、そういうことだろ」


 横顔に、ミレイアの目がじっと当たっていた。


 やがて、ミレイアが罪状帳を開いた。


 今日の頁のいちばん上に、ふたつの名前が並んでいた。今朝、パン屋の二階で書いたのだろう。


 その下に、ペン先が下りた。


 ――降陽の儀まで五十五日:


 レオニスは、眉を寄せた。


「また、数えんのか」


 ミレイアは、ペン先を紙から上げなかった。


「去年の冬も、この夏も、こうして数えましたので」


 冬至まで、あと何日。満陽祭まで、あと何日。――こいつは、そうやって二度数えてきた。


 数えた先には、いちばん長い夜があった。いちばん短い夜も。


 レオニスは、帳面の上の新しい一行を見下ろした。


 日付の先は、まだ白いままだった。

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