プロローグ 最後の夜
眠りたい。
寝台の端に腰を下ろし、冷えきった石の壁に背をあずけて、ひと月剃っていない顎を胸もとの小さな頭にそっとのせたまま、男は心の底からそう思った。
息子が、泣いていた。
「……かあさま」
四つになる子だった。声は、とうにかすれている。日が沈んでから、ずっとこうだった。息子の手が、男の衣の胸を、ランタンをかたどった黒鉄の聖印ごと握りしめている。胸もとが、涙でぬるく湿っていた。
ひと月前、流行り病で妻が死んだ。
三日、熱が続いて、四日目の朝だった。
都じゅうで人が死んだ。年寄りも、若い者も、子供も。
都の外れの、石造りの家だった。戸口から十歩ほどのところに、地の底の、黒き母の神殿へ下りる石段が口を開けている。闇司祭の家は、昔からそこにあった。
子が生まれると、都の者はこの家の戸を叩く。名をつけてもらうために。字を習いたい子らも、戸を叩く。人が死ねば、また叩く。
手習いの帰りに、妻は子らに丸パンをひとつずつ持たせていた。
このひと月、戸を叩くのは、送ってほしいという者ばかりだった。丸パンを持たせた子の親も、いた。
何十人送ったのか。数えるのは、やめた。
妻も、自分の手で送った。
送りの言葉を、ひとつも間違えなかった。
息子は送りのあいだ、きょとんとして男の袖につかまっていた。母を呼んで泣くようになったのは、その晩からだ。
男は、泣かなかった。
泣く暇がなかったのでは、ない。
泣けば、この子が、もっと泣く。そう思った。
小さな背中を、叩く。とん、とん、と。
体をゆっくりと揺する。
唄は、知らなかった。
毎晩、この寝台の端で唄っていたのは、妻だった。唄の途中で、たいてい子より先に男のほうが眠ってしまって、妻に笑われた。だから、言葉はひとつも覚えていない。
口を、開いた。
声の代わりに、喉の奥で何かが震えた。
口を、閉じた。
とん、とん、と。
泣き声が、少しずつ細くなっていく。しゃくりあげる息の合間が、長くなっていく。
やがて、息子は泣き疲れて眠った。
膝を、ひとりでに胸のほうへ寄せて。
濡れた頬に、髪が張りついていた。男は、それを指でよけてやった。
寝顔の口もとが、妻に似ていた。
この子の名は、妻とふたりで幾晩も迷って――
そこで、考えるのをやめた。
男は、眠れなかった。
まぶたが、重い。この子を抱いたまま横になれば、きっとすぐにでも眠ってしまえる。
目を閉じれば、妻の顔が浮かぶ。浮かべば、泣く。
だから、目を開けている。
ひと月、そうしてきた。目の奥が、砂を詰めたように痛む。それでも、まぶたは下ろさなかった。
昼のうちは、まだいい。この子は泣かない。戸口の日だまりで小石を並べて、ときどき笑いさえする。
泣くのは、夜だ。
日が沈むと、この子は母を呼ぶ。どこへ行ったのか、とは一度も訊かない。ただ、呼ぶ。
黒き母は夜ごと、ひとりひとりに違う夢を見せる。手習いの子らには、そう教えてきた。
暗がりの中で、男は息子の寝息を数えていた。
竈の脇の釘に、妻の前掛けが掛かったままになっている。暗くて見えなくても、そこにあるのはわかっていた。
窓の板戸の隙間がうっすらと明るくなるまで、男はそちらを見なかった。
◆
戸を叩く音がした。
名をつけてほしい、という叩き方ではなかった。送ってほしい、という叩き方でもない。拳の腹で、どん、どん、と遠慮がない。
男は眠っている息子を寝台に下ろして、戸を開けた。
冬のはじめの朝の冷えが、足もとから入りこんできた。
戸の外に、見慣れた顔が並んでいた。
「……番人どもか」
夜の番人。神殿の、女神の灯の番を交代で務めている闇司祭たちだ。夜通し起きていた者も、そうでない者も、顔をそろえていた。
いちばん前に、年かさの女が、布でくるんだ鍋を提げて立っていた。肩幅の広い、声の大きな女だ。まくりあげた袖から出た腕が、朝の冷えで赤くなっていた。
「やっぱり、起きてたね。白いの」
男の叙階の夜、鏡が白く燃えた。白く燃える鏡など、誰も見たことがなかった。気味悪がる者もいたが、番人どもは腹を抱えて笑った。いちばん大きな声で笑ったのが、この女だった。白いの、と最初に呼んだのも。
男も、笑った。
それからずっと、白いの、だ。
女は、男の顔をまじまじと見た。
「ひどい顔だね。……寝てないだろ」
返事は、待たなかった。女は男の脇をすり抜けて、さっさと中へ入った。
「きょうの送りは、あたしらで回るよ。あんたは、うちにいな」
言いながら、竈の脇の釘の前で、女の足がひと息だけ止まった。
ほかの者も、ぞろぞろと続いた。痩せた番人が、からの水がめを抱えて井戸へ出ていった。
大男の番人が、黙って竈の前にしゃがみこんだ。灰をかき、焚きつけを組む。釘の前掛けには、手を触れなかった。
戸口では、いちばん若い番人が、柱にもたれたまま舟を漕いでいた。
「寝るんなら、帰って寝な」
女は、振り返りもしなかった。若いのが、びくりと目を開けた。
竈に火が入った。
ひと月ぶりの火だった。冷えきっていた石の壁に、火の色がちらちらと揺れた。
女が鍋をかけた。蓋の隙間から、湯気がのぼりはじめる。
匂いが、した。
焦がした玉ねぎの、苦い匂い。その奥に、ひと匙ぶんの、蜂蜜の甘さ。
男は、戸口から動けなくなった。
――また、焦がしすぎたって、言うんでしょう。
竈の前で、妻がそう言って笑っていた。玉ねぎは、真っ黒になるまで焦がす。蜂蜜は、ひと匙だけ。黒くなった鍋の底を、男が覗きこむたびに――
男は、竈の火から目を逸らした。
女が、鍋の中をゆっくりとかき回した。
「ひと晩、寝かせといたよ」
それから、背中を向けたまま、言い足した。
「あの子の、作り方でね」
男は、戸口に立ったまま、うなずいた。
「……そうか」
寝台の上で、息子がもぞりと動いた。目は、まだ半分閉じたまま、鼻だけをひくつかせている。
女が椀によそって、ふうふうと吹いた。ひと匙すくって、口もとへ運ぶ。
息子はひと口食べた。
目が、開いた。
「……かあさまの」
女が、うなずいた。
「そうだよ。かあさまの、だよ」
息子は、泣きだした。
泣きながら、ふた口目を食べた。三口目も。女の差し出す匙に、しゃくりあげながら口を開けた。
男は寝台に腰を下ろして、息子を膝に抱きあげた。背中を叩いた。
叩く手が、一度だけ止まった。
大男が、男の前に椀を置いた。
「食え」
男は匙に手を伸ばした。
指が、匙の手前で止まった。
女が、その指を見ていた。
「あたしはね、泣いたよ。あの子を送った晩に。泣いて、寝た」
低い声だった。
「泣きな。泣いて、寝な。坊は、あたしらが見てる」
竈の前の大男が、鼻をすすってうなずいた。戸口の若いのも、今度はちゃんと目を開けていた。
男は、息子の背中を叩きつづけた。
「泣けば、この子が、もっと泣く」
女は、何か言いかけて――
やめた。
かわりに、節くれだった指で、息子の頭をくしゃりと撫でた。
番人どもは、竈の火を残して帰っていった。
いちばんあとに戸口を出ながら、女が肩ごしに言った。
「あしたの朝、また来るよ」
男の椀のシチューは、手をつけないまま冷めていった。
◆
昼のあいだ、息子は泣かなかった。
戸口の日だまりで、小石を並べていた。ひとつ並べるたびに、男のほうを振り返る。男は戸口の柱にもたれて、そのたびにうなずいてやった。
並べた小石がひとつ、ころりと転げて、息子が声を立てて笑った。
男は、笑い返そうとした。うまく、いかなかった。
ときどき家の中へ戻って、竈に薪を足した。
昼過ぎ、通りの向こうを送りの列が通っていった。先頭を行く広い肩に、見覚えがあった。息子は小石を握ったまま、列が角を曲がるまで見送っていた。
日が傾いた。
家々の影が、通りに長く伸びて、石段の口を呑みこんでいった。
日が沈むと、息子はひときわ泣いた。
抱いても、揺すっても、背中を叩いても、泣きやまない。
窓の外からも、泣き声がした。
隣の家から。通りの向こうから。もっと遠くの、屋根の下から。
泣き声は、ひとつではなかった。死んだ者の名を呼ぶ声も、混じっていた。
男は壁の釘から黒い外套を取って、息子をくるんだ。
戸を開けて、外へ出た。
通りの家々は、どこも板戸を閉ざしていた。隙間に、細い明かりが見える。泣き声は、その隙間から漏れてくるのだった。
新月の夜だった。
月は、なかった。都の屋根の上に、星だけが数えきれないほど瞬いていた。
薄着の肩に、夜気がしみた。首すじに、息子の息が熱かった。
外套のあいだから、手が出てきた。しゃくりあげながら、空を指さしている。
「……かあさまは、あそこか」
初めて訊かれた。
男は、答えられなかった。
送りの言葉なら、いくらでも知っている。このひと月、何十回も口にしてきた。遺された者の手を握って、そのたびに。
ひとつも、出てこなかった。
「……そうか」
それだけ、言った。
小さな指の先を、目で追った。どの星を指しているのかは、わからなかった。
ふたりで、首が痛くなるまで星を見上げていた。
泣き声は、やまなかった。腕の中からも、窓という窓からも。
十歩先で、石段が黒く口を開けていた。
地の底の神殿へ下りていく段だった。新月の夜だけ、その底の黒い扉が開く。
ふだんの新月の夜なら、明かりを提げた者たちが、ひとり、またひとりと、この段を下りていく。黒き母に祈るために。
この冬は、誰も下りていかなかった。
振り返ると、開けたままの戸口の奥で、竈の火がまだ赤く残っていた。番人どもの火だった。
男は、石段を下りはじめた。
明かりは、持たなかった。目をつぶっていても下りられる段だった。
目は、つぶらなかった。
何代もの闇司祭が踏んで、すり減らしてきた段だった。下から、油と石の匂いのする冷気がのぼってくる。
下りるほど、窓の泣き声は遠くなった。それでも、細い糸のように、石の壁を伝ってうしろから降りてきた。
腕の中の泣き声だけが、近かった。外套ごしに、息子の心臓が早く打っているのが、伝わってきた。
最後の段を下りると、黒い扉が開いていた。
円い広間だった。
黒い石の柱が、壁をぐるりと囲んでいる。その奥に、柱よりもなお高く、女神像が立っていた。
顔のない女が、胸に、小さなランタンを抱いている。
ランタンの中で、灯がひとつ揺れていた。広間の明かりは、それきりだった。見上げると、黒硝子の丸天井に、その灯がぽつりと映っていた。
女神の足もとに、黒い石の祭壇がある。表には、経典の全文が刻まれている。
祭壇の脇に、油の壺が置いてあった。灯に油を足すのは、番人どもの務めだ。
この広間で、叙階を受けた。
あの夜は、柱という柱に松明が燃えて、番人どもが壁ぎわにずらりと並んでいた。
今は、誰もいない。灯の番の者さえ、いなかった。
「……かあさま」
息子の声が丸天井に響いて、幾重にもなって降ってきた。
女神の、顔のない顔が、ふたりを見下ろしていた。
男は片腕に息子を抱えなおして、空いた手を祭壇の上についた。
文字の溝が、手のひらに冷たかった。そらで言える文だった。
この祭壇で宣誓した欲は、都じゅうへ広がる。闇司祭なら、誰でも知っていることだった。
腕の中で、しゃくりあげる息がふっと止まった。
息子が、顔を上げていた。
見上げた顔を、女神の灯が照らしていた。濡れた目が、男の顔を見ていた。
男の頬は、こわばっていた。奥歯を噛みしめていた。
自分がどんな顔をしているのか。男には、わからなかった。
小さな手が、外套の中から伸びてきた。
冷たい指が、男の頬に触れた。
「……とうさま、いたいの?」
男は、息を吸った。
「……いいや」
声は、思ったよりも平らに出た。
冷たい指は、まだ頬にあった。
息子の目が、揺れた。唇が、震えた。
また、泣く。
男の喉の奥でも、何かが震えはじめていた。
石段の上から、泣き声がまだ細く降りてきていた。
男は、息子の名を呼んだ。
「我、欲す」
目は、閉じなかった。
「――泣く者なき昼を」
祭壇の文字の溝を、白が走った。
手のひらの下から、柱へ。柱を這いのぼって、頭上の黒硝子へ。
丸天井が、白く染まった。
真昼のように。
あの夜、鏡の中に見たのと、同じ白だった。
女神の胸で、ランタンの灯が怯えるように、細く、細く、震えた。
白は、広間を満たし、扉をくぐって、石段を昇っていった。
祭壇についた手のひらが、白の行く先を知っていた。
石段を昇りきって、都へ。通りという通りへ。板戸の隙間から、家々の中へ。
泣いている者の上に。死んだ者の名を呼んでいる者の上に。冷たくなった手を、まだ握っている者の上に。
白が、降りていく。
隣の家の泣き声が、途切れた。通りの向こうの泣き声が、途切れた。もっと遠くの、屋根の下の泣き声も。
ひとつ、またひとつ。
窓という窓から、泣き声が消えていった。
石段の上からは、何も降りてこなくなった。
腕の中も、静かだった。
あたたかかった。
もう、どこも、痛くなかった。
笑い声が、した。
昼間、日だまりで聞いたのと、同じ声だった。
男は、見下ろした。
息子の顔が、見えなかった。
白かった。自分の目が、白に溶けていくのか。この子の顔が、白いのか。わからなかった。
腕の中の重みだけが、わかった。
眠りたい、とは、もう思わなかった。
頬に、何かが触れていた。
笑っている、と思った。
自分が。
いくつもの足音が、石段を駆け下りてきた。
「――白いの!」
年かさの女の、声だった。
男には、もう、聞こえていたかどうか。
それが、のちに開祖と呼ばれる男の、最後の夜だった。




