食事の改善もあって、いよいよ念願の舞台へと臨む
あれからしばらくして、ヘビー級で2回の対戦を組んでもらったが、俺の動きが特に遅くなる事も無く、両試合とも1ラウンドKO勝ちとなった。
クルーザー級の世界チャンピオンとなってから、1年以上が過ぎた時、ようやく世界チャンピオンから指名をされる事となる。
待ちに待ったヘビー級の世界タイトルマッチ。
試合日時は3月21日の日曜日開催が決まった。
海外で初めての日曜日の試合となり、大変な混雑が予想される。
対戦相手の名はジョシュ・ブルックス。
戦績は22勝3敗とそこまで目立った成績では無いが、16KOとなっており、俺と同じKO数を誇っている。
その為、現地ではヘビー級タイトルマッチの見出しは『17KO目はどちらに渡るのか』と言う記事が出回り、アメリカのボクシングファンの大半が関心を示している状況であった。
後、対戦相手のジョシュは普段、ラスベガスで試合をやっている事もあり、軒並み『テキサス対ベガス』の都市をかけた代理戦争と言う面も見せていた。
しかし、本当に代理戦争と思っているのはベガス側のプロモーターやジム関係者など、別の都市に客が流れて欲しくないと思っている連中のみで、客達は大きな祭りとして、認識しているだけである。
あっという間に日時が経過し、対戦前日の計量が開催された。
示したウェイトは209ポンド。
これまでの食事改善により、これまでで最も良い結果となった。
相手のウェイトは210ポンド、ほとんど変わらない。
(展数さんとの対戦依頼だな、この時を思い出すと懐かしい)
プロデビューからこれまで、俺が階級下限近くで相手が階級上限近くと言う実質、1階級差の対戦がそれなりにあった事からも、ウェイトで差がつかなかった機会は滅多に無い。
前日計量も終わり、その後の練習はニック達の居るジムで諸々の練習をする事になっていた。
今、練習を行っているジムは『フッキングファイトジム』と言い、キックボクシングの選手も所属している。
その為、川名さんもたまに着替えてから選手の相手をしている事もある。
だが、当然のように相手にならず、川名さんが極力、手加減をして選手の能力向上を助けていると言う流れとなる。
しかし、彼女の知名度はとても高く、練習しただけでアメリカでは記念になるレベルの出来事と言う事であった。
前日の調整となる俺は、ジャックを相手にひと通り、戦術を試す流れとなっていた。
2時間の練習が終わり、ジャックから話をかけられる。
「いよいよ、明日はヘビー級のタイトルマッチか。ここまで本当に頑張ったな、何しろ無敗の全てがKOだから私も驚いているよ。しかし、明日の試合に勝ったらどうするんだ?」
今後の展望も質問されたが、今は言いたくないので、
「明日勝てた場合のこれからはもう決めてますが、それは試合後のインタビューで話す事にします」
記者会見の場で話す旨を伝えた。
「そうか、明日勝てるといいな。俺達も明日は応援に行くから、本当に頑張ってくれよ」
「ええ、応援よろしくおねがいします」
ジム総出で明日のチケットを抑えていると言う事で、俺は自然とジャックに礼をして、ジム全体にも礼をした。
すると、ジャックは無言で右腕を斜めにして、前方に突き出してきた為、俺も右腕を前方に出し、交差させるようにお互いの健闘を誓いあった。
これで最終調整も終わり、その日は無事に眠りにつく事が出来た。
翌日、試合当日となり、午前11時前にチェックアウトをして、ホテルを出ると、前方にはいつもよりも長い黒塗りの車が停まっていた。
俺を確認したのか、ドアが開き、中からロイヤルブルーのスカートスーツを着た女性が出てきた。
「今日は君の応援に来た。まだ時間もあるだろうから、これから一緒に食事をしないか?」
音羽だった。
身に着けているスカートスーツは新品だと、容易に想像出来た。
「その服、どうしたんだ?」
質問したのは、服の色が気になったからである。
普段の音羽から若干、外れている事が引っかかった。
「今日は真の意味で、君の晴れ舞台となる。私は試合を見る為に最もふさわしい恰好をしたまでの話だ」
どうやら、俺の事を少しでも応援したいらしい。
と思っていると、音羽がそっと右腕を俺の左腕に絡める。
「川名、浜崎。私はこれから雅玖と食事をするから、諸々の処理はやるように、いいな?」
有無を言わさず、俺を車へと引きずり込んでいった。
車が動き、取り残された川名と浜崎は会話を始めた。
「どれだけ、ガク君の事が好きなんだか。でも、今日勝てば、私の護衛も要らなくなるから、少しは寂しいな」
川名の一言に右に立っていた浜崎は驚いて、
「それってつまり、帰りは一緒に帰ると言う事で、帰った後は……いや、今は黙っておこう」
一人で納得した感じで、半分独り言のような事を言った。
「そう、浜崎さんも元のジムに帰る事になるから、忙しくなると思う。今のうちに浜崎会長と話をする事をお勧めするわ」
全てを言わずとも、川名はこれからの未来の事を話しているようだった。
2人はお互いに改めて、顔を見合わせる。
今日の仕事を遂行する為、近くに停めていた私の手配していた車に乗った。
音羽と車に乗った俺は相変わらず、腕を絡めたままで、会話をしていた。
「会場付近のレストランに午後3時まで予約した。食事をしながら今後の事を含めて、色々と話そう」
断る理由も無く、俺は絡めた腕をわずかに強める事で返答をした。
その様子をバックミラー越しに見ていた運転手はニヤッと笑う。
「音羽、この様子を人に見られて問題ないのか?」
以前の音羽なら、体裁を気にするはずだが、今も腕を絡めている状態が少し気になった。
「今日の試合、君が勝ちさえすれば問題ないはずだ。それに今日、取引の交渉をする予定だった者が相手の予定を優先するように言われたのでな。一連のやり取りを粗方落ち着かせてから、再び取引をしようと言う事で、来月に予定を変えられた。この件も食事中に話すから心配するな」
やはり、ただ2人で食事をしようと言う話では無い。
少し考えれば誰でも想像出来る事である。
ここから車から降りるまでは黙ったまま、レストランへ車を走らせる事となった。
30分後、目的地に着き、音羽は絡めていた腕を解いてから車を降りた。
降りる前にレストランの外観を見たが、小型のクルーザーを船首から船橋楼までを縦に丸ごと切ったような形状をしていた。
色は外装は白く、見える窓は青で統一されていて、どこから持ってきたのだろうと言う感想が出てくる。
入口正面にある駐車場に停めて、車を降りるとガラス張りとなっている切り落としたような平面部の店内を確認すると、意外にも奥は見えないようになっていた。右側が受付になり、左側が調理スペースになるようだ。
早速、店内に入る。
音羽が受付を済まして、船首部分となるテーブルの席へと案内された。
テーブルは船首の尖った部分を壁としてみて、少し離れた位置にあり、そこを頂点とした縦長の丸みを帯びた三角形のような形状をしていた。
座席は壁とは逆の底辺部に隣り合うように2つ用意されていて、両側の窓から外を確認出来るようになっている。
早速、俺と音羽は席に座り、料理を待つ。
5分後、前菜料理が左後方から運ばれてきた。
内容はナッツとグリーンサラダのドレッシング和えのようだ。
完全予約制と言う事もあり、俺が食べても何も問題ない料理が出てきた。
早速2人で頂き、ものの数分で完食した。
ここで、急に音羽が話を始める。
「先ほどの話だが、普段はああ言った事は家の中だけしかやらないだろう?だが、今日は車内でもやった。それはどういう事かと言うと……」
右胸ポケットから薄い黒のケースが取り出し、ケースの中から紙を取って、俺に広げて見せた。
婚姻届だった。
記入欄を見ると、音羽の祖父とお袋の名前が証人の欄に記入されていて、婚姻後の姓は音羽にチェックが入っている。
未記入の欄は左側の氏名や住所、本籍など、自身の事を書く欄だけだった。
「今日の試合で勝利を収めたなら、帰国後に婚姻届を出す予定だ。私として、全力で頑張ってくれると嬉しい」
とんでもないプレッシャーだ。
同時に今日の試合に勝ち、ヘビー級世界チャンピオンになると言う事は即、引退を意味している。
もう1つ気になる事があったので聞いてみる。
「いつもの帰国時間だと、役所に届ける時間には間に合わないが、どうするんだ?」
これまでの空港への到着時間が午後3時、と言う事を考えると微妙なのである。
しかし、音羽から出た言葉は、あまりに突拍子も無い物であった。
「それなら、試合後の帰国便は先述の取引者が、寄越してくれたチャーター機のおかげで、いつでも日本へ飛ばせるようにしている。これなら早朝になってしまうが問題はあるまい」
始めから周到に準備をしていたのだろう。
おそらく、役所近辺も厳重な警備を配置する事が容易に想像出来た。
改めて、彼女が大企業の社長と言う事を認識した。
音羽がケースにしまって右胸ポケットに入れた直後、メイン料理が出てきた。
ステーキとシュリンプの盛り合わせと蟹と牡蠣の辛味スープだ。
こちらはスープから慎重に頂き、後からステーキとシュリンプを食べ終えた。
次に音羽が話題に出したのが、俺の高校時代の話。
「そう言えば、高校に通っていた時の友人。中山双冶と2人の女性が居ただろう?」
中山と桃山、鳰入の事だ。
随分と前の事に思えるほど、遠くまで来た事を改めて実感する。
「中山は確か、大学4年になるので卒業している年齢になってるはずですが、どうなりましたか?」
俺の質問に、音羽は淡々と経緯を話し始める。
「中山双冶なら2人の懇切丁寧な支援のおかげで、数日後に卒業を迎える事になる。それと、去年の10月1日に正式に内定した。配属先は私達が現在住んでいるビルの3階にあるマーケティング部だ。私の実家に住む事になる雅玖とは入れ替わりとなるな」
「桃山と鳰入はどうするんだ?」
2人とあれだけ同居する事を許していたはずなのに、気になった為、質問する。
「彼女達には双冶君とは入れ替わりで入学してもらう事にした。抜き打ちで学力テストを行ったが非常に優秀な結果となった為、大学へ推薦する形式を取って、無事に入学となる。4年間は土日のみ、彼の入居先に泊まる事を許可を出した。週2日もあれば十分だろう、もう大人だからな」
説明していた音羽は何かに気づき、今後の説明をする。
「そうだな、雅玖が今日の試合。勝つ事が出来たなら、9月下旬の入学に向けて試験を受け……いや、今話す事ではないな」
俺に余計な事を考えて欲しくない為、音羽は話を中断した。
話を聞くほど、俺の為に何から何までやってくれている事に、感謝してもしきれない思いである。
食後の飲み物が来る間、両側の窓の外に見える景色を楽しむ。
左側に見えるのは俺が戦っている試合会場。
右側に見えるのもスタジアムだが、
「あれは野球のチームが本拠地として使用している場所だな。結局、今日まで利用する機会も無いままだが、特に問題ないな」
少しでも無関係な場合は、このように割り切った感想を言う事が多い。
しばらくは高校時代に初めて出会ってから今までの思い出話をする事になった。
いよいよ、最後に飲み物が出てきた。
出されたのは俺はグレープフルーツジュース。
音羽にはハーブティーが出され、ゆっくりと飲み干した。
コース料理も終わり、店員を呼んでから会計に行き、店を出ようとする。
テーブルに来た店員と会計の担当者は笑顔で見送っていた。
店を出て、車に乗ると、無言の俺に答えを言ってくれた。
「チップは払っているが、普段から壁やガラスを防弾仕様にしたり、抜き打ちで点検したり、色々と支援しているからな」
実は今居る場所と言うのは、試合会場の南東近くにある場所となる。
関係者用出入り口は普段と同じ為、北中央の出入り口に行き、車を降りる事にした。
近くでは川名さんと展数さんが待機していた。
「今は午後3時20分。いつもよりは少しだけ遅いけど、特に問題ないよ」
「今、知念社長。普通に入って行ったな」
展数さんが目線をやったほうを見ると、簡単な検査のみで入場を許可されているようだった。
音羽は俺に右手をあげてから、会場に入って行った。
「あれが顔パスって物だね」
川名さんは呆れ顔でつぶやいた。
俺達はと言うと、通常と同じ手順で、荷物検査など各手続きを行ってから、ようやく入れるようになるのである。
時刻は午後4時。
ロッカールームに入ってから着替えは後回しにして、近くを見ていると、今日だけはなぜか関係者に声がかけられる事が多かった。
理由は単純で、音羽との関係性についてがほとんどだったからだ。
さすがに海外との取引で、多忙を極めた人物が俺の為だけに観戦に来てたら、普通は騒ぎとなるだろう。
俺が関係者との会話に答えている頃、音羽は2階や3階で、会場関係者と色々やり取りをしていたらしい。この事が分かったのは帰国後の事であった。
午後5時過ぎとなり、続々と試合予定の選手が入ってきて、ユニフォームに着替えて出ていく。
第1試合が始まる午後6時過ぎに、俺はようやく、試合に向けて着替えをして、ストレッチを行った。
午後7時30分。
対戦相手に出会うが、表情はとても固く、何か異変があったとしか言いようのない状態であった。
試合が終わるまでは、そっとしておく事にしよう。
午後9時30分。
いよいよ、最終試合となり、入場が始まる。
まずは相手が入場し、声援が上がる。
次に俺が入場すると、先ほどよりも声援が大きくなる。
リングに上がり、レフェリーの紹介があったが、今日のリング内のレフェリーは見覚えのある顔が出ていた。
エアリー上田さんだった。
どうやら、今日は特別にここに呼ばれたらしい。
そして、両選手の紹介も終わり、レフェリーの説明が始まる。
(え?英語しか言ってない)
驚いた事に自動翻訳セット無しで、自力で英語による説明をしていた。
俺のお腹を触る時だけ、微妙に目力を強くしてる事に何らかの意思は感じたが、俺は試合開始の為、平静を装う事にした。
説明が終わり、いよいよ試合が始まる。




