音羽が可愛い生き物と化している
ライトヘビー級の世界チャンピオンになって、すぐにクルーザー級へと階級を上げた。
しかし、別会場で開催していたクルーザー級の世界タイトルマッチで勝利した新チャンピオンが、俺に挑戦状を事前予約していた事は帰国時には知る由も無かった。
数日後、帰ってきた音羽にクルーザー級世界チャンピオンの挑戦者の指名があった事を聞き、これを了承したと言う事だった。
そんな話をしつつも、今の音羽はと言うと、
「ナデナデして」
初めて会った時とは全く別の猫を被った。
いや、何かを被った猫と言うのが正確な表現だろう。
とにかく、婚約してからは俺に素の性格だけを見せながら、今も膝枕をしてソファに座っている状態である。
俺達の様子を後ろで見ていた川名さんは、
「音羽社長。あなたは社長としての威厳を見せたらどうですか?」
笑顔が何だか怖い感じになっていた。
「川名こわい。雅玖、ナデナデー」
俺は笑顔で音羽の頭を何度も撫でた。普段の音羽からは全く想像出来ない子供のような笑顔で俺の膝に寝ている。
川名さんは大きなため息をついて、
「ガク君もそうだろうけど、私も最近、この音羽しか見てないから、社長としての仕事がやれてるのか不安になるよ」
どうやら、俺と同じく音羽との対面では、この少女のような姿しか見てないらしい。
「明日はきちんと仕事するから大丈夫」
相変わらず、甘えた声で川名さんに言葉を返した。
川名さんは再び、大きなため息をつき、
「本当に疲れたから、私はもう寝るね、お休みなさい」
力なく、自室に戻って行った。
相変わらずの音羽は笑顔のまま、
「明日は次の対戦について話したいから、9階の社長室に来てね」
俺におねだりするような口調で話してきた。
(でも、社長室と言う事は、以前の音羽を見れると言う事だろうか)
明日が楽しみになりつつも、少し怖いような気もする不思議な心境であった。
この後は普通に自室のベッドで寝る事になった。
■■■ 前の試合から数日後
俺はいつもと同じ、朝6時に目を覚ます。
すると、目覚めに合わせたようにスーツ姿の川名さんがやってきた。
「トレーニングウェアに着替えたら、9階の社長室に私と一緒に行きましょう。話は昨日、聞いてるよね?」
「ええ、音羽から次の対戦について話があると言ってました」
俺はすぐに着替えて、川名さんと一緒にエレベーターで9階まで上がった。
2階と9階だけは、俺達の持っている特殊な電子キーを使用しないと降りる事が出来ない。
電子キーを持っているのは俺、音羽、川名さんの3人だけ。
展数さんが用があるのではと思うが、その場合、社長である音羽が同伴するしかない。
俺や川名さんが居ても、個人としてキーの解除は可能だが、他の人が乗っている時点で、7階より上には行けない仕組みになっている。
音羽の場合は無条件の為、マスターキーを持っていると言っていい。
話を戻そう。
エレベーターを降り、共同空間自体の景色自体は大差は無い。
2階で言うところの住居に当たる部分が、それぞれの部屋となっている。
9階の社長室は機密性を確保する為、外側からは一切見えないようになっており、切替式で稀に中から確認するのみとなる。
エレベーターから正面、つまりは左寄りの位置に社長室への扉がある。
扉を開けて入ると、社長の席と思わしき立派な椅子と机、その前面には小さなテーブルと左右の向かい合わせた一対の椅子が配置されている。
しかし、椅子を確認しても俺達以外には誰もいない。
「この椅子は私の席だから、音羽社長はいないよ」
どうやら、第一秘書の部屋だったらしい。
「この部屋も社長室の一部として登録してるけど、実際は第一秘書専用の部屋になるからね」
部屋の中をもう一度確認すると、右側に透明なアクリル製の扉がある。
「あっちが実際の社長室だから、入りましょう」
川名さんの先導で、さらに部屋へ入る。
部屋の先には先ほどの部屋の椅子と同じ方向の壁際には本棚など、いくつかの棚が並んでいる。
その手前には平行に並べた机と右側は垂直に付けた机が配置されて、平行に並べた机の奥の椅子には、音羽が座っていた。
「やってきたな」
いつもの……いや、出会った頃の音羽社長である。
最近はひたすら、俺に甘えてくる音羽に慣れてしまっていて、すっかり忘れた感覚であった。
「早速、話を始めようと思うが、手前の部屋で話したほうがいいだろう」
「そうですね、ここに椅子はありませんから」
この空間自体が社長専用の部屋なのだろう。
俺達は先ほどの部屋に戻り、音羽は第一秘書の椅子に座り、俺と川名さんは左右に配置している椅子へ座った。
「それでは、次戦の対戦相手の説明をする。対戦相手の名はラッシュ・フェアマン。クリンチの貴公子と言われている。雅玖にとっては大きな転換点となる。なぜだか分かるか?」
音羽は初めに、最低限の情報を与えて、俺に返答を促する。
俺は唇を噛みしめてから、
「クリンチは今まで、練習も含めて1回もやった事が無い。しかも、クリンチを解く方法を知らないし、体重を乗せられるとどうにもならなくなる」
自身がされた時のデメリットを答えた。
音羽は表情を変えずに話の続きをする。
「その認識では話にならない。まずはクリンチから外側から締め付けられたり、内側から持ち上げられたりして、それだけでやられた側がスタミナを消耗させられる。次にここから上手い具合に打撃が可能だ。クリンチを自力で解く方法を知らないパターンが1つでもあれば、負けにつながる」
説明した事に対し、あやふやに理解してそうな俺を見て、説明を続ける。
「さらに言えば、コーナーに追い詰めたにも関わらず一瞬で位置を逆転されて、一気にピンチへ陥る事も可能だが、雅玖にこの状態を脱する手段はあるか?」
俺は音羽の説明を想像しながら、対策をする動きを想定するが、名案が見出せない。
「分からぬだろう。原因はグエッサーが大半を占めていると考えられるからな」
「質問を1つだけ。展数さんならどうするんでしょうか?」
俺の質問に音羽は息をついてから、質問に答える。
「まあ及第点としよう。彼なら百発百中の為、クリンチされる可能性が無い。これは相手にとっては最大の脅威だ。しかし、クリンチをしない事はクリンチを諦めさせる事と言う話にもなる。結果、クリンチが一切出来ない選手が誕生する。その代表格が雅玖と言う事になる」
音羽の答えを聞いて、俺もため息をつき、
「つまり、展数さんが避けて通ってきた弱点を克服しない限り、ヘビー級は取れないと言う事ですね」
結論づけるも少し考え込まざるを得なくなってしまった。
俺の言葉に音羽はなぜか感心して、これからの話を始める。
「ほお、今の話だけで良く弱点と言う事がわかったな。理解が早くて助かる。そして心配するな。今日と明日の2日間、ジムには必太ともう1人、クリンチ対策の為にすでに待機させている」
音羽の言葉の最後に違和感を覚える。
「待機させて、ん?音羽、2人は出る事が出来ないような」
「鍵をかけて閉じ込めたな、マスターキーを使って」
川名さんは突然の言葉に一瞬、固まりつつ、
「マスターキーは何でも開けられるようにする物なんですけどね」
気を取り直して言う。
「ああ、私が外部に頼んで、防犯に強い仕様に変更した」
「いつ?」
「雅玖が初めて練習する前までには」
音羽の突拍子の無い行動を聞いて、川名さんは色々と諦めたようであった。
「川名の持つ鍵なら、外側から開ける事ができる。それで、必太達も外に出る事が出来るだろう」
「建物の外から閉じ込められる鍵って何よ」
川名さんのつぶやきが聞こえたが、触れないようにしよう。
「とにかく、準備はできているから今から走り込みをしてからジムに行くように」
「え、走り込みの1時間は?」
「待たせればよかろう」
「雅玖、朝の基礎体力作りをしてから、明日までの2日間を頑張るようにな」
俺は音羽に頷いて、社長室を出て行った。
「私、さすがにかわいそうだと思うので、今から鍵を開けてきます」
「勝手にしろ、止めはしない」
俺が部屋を出た後に少しだけ、場が緊張したのは言うまでもない。
俺はあの後、走り込みを1時間行い、住居に戻ってから着替えてから、ジムの中へと入った。
3階で食事をし、2階の練習場に入ると、
「おはよう、今回は撮影NGって言われた。それと浜崎さんの同席も認めないって言われた」
壱会は元気の無い様子で挨拶をしてきた。
次に、横で待機していた俺と同じ背丈の彼が挨拶をする。
「初めまして、住坂さん。私は元前頭 押強の月花公兎と申します。明日までの2日間、クリンチ対策出来るように仕上げるから、あなたも頑張ってください」
相撲の元力士だそうだが、こちらは丁寧な礼とともに挨拶してきた。
「私は住坂雅玖と申します。本日から2日間、クリンチ対策のご指導、よろしくお願いします」
俺はなるべく丁寧な礼をして、挨拶を返した。
初日の挨拶が終わり、練習するために更衣室で着替えてから、今日のメニューを聞いた。
今日は俺のいつもの練習風景を見たいと言う事。
ミット打ちからスパーリングは押強さんが相手をしてくれると言う事で助かった。
早速、ストレッチから始める。見守っているだけで終わった。
シャドーを始める。動きを見て、何かを確認して首を縦に振っていた。
サンドバッグに移る。
途中、押強さんは「なるほど」と、先ほどの練習の評価を再確認していた。
いよいよ、押強さんがミットを装着し、俺とミット打ちを始める。
俺は普段通り、展数さんに試しているコンビネーションなどを全て試した。
「んー、クリンチ対策はやれそうな気がするだけどなあ」
俺の打撃を、悠長な口調でつぶやきながら、軽く受け止めていた。
マスボクシングに入る。ここで押強さんが、
「ここはフォームを見るだけのはずだから、適当なタイミングでクリンチしてみる事にするから、対応してみてよ」
どうやら、クリンチ対策の現在のレベルを確認するらしい。
「分かりました。よろしくお願いします」
「じゃあ、いつも通りやってみて」
押強さんはグローブに付け替えて、再びリングに上がった。
普段の練習で、実践では使いにくい打撃やコンビネーションなどをマスボクシングで試している。
俺は前の試合で、苦労した場面を想定しつつ、色々とフォームを確認してると、突然。
押強さんが両腕をおもむろに全面に出し、俺の両肘の内側に入れて、そのまま上に持ち上げる。
今の様子をリングの外で見ていた壱会が、
「住坂、俺から見ると押強さんに高い高いされてるようにしか見えないぞ」
俺は顔を動かして、押強さんの体全体を確認した。
ここで初めて、俺の体が持ち上がっていた事が確認できた。
押強さんは俺を一旦下ろしてから、説明をする。
「クリンチをされると言うのはこう言う事。やられた側は一切の攻撃手段を奪われるから対策しないといけないけど、それは明日やればいい」
ここから、配分時間分までは通常の練習になった。
次はスパーリング。ここからは打撃を含めた練習となる。
先ほどの持ち上げで、一瞬の油断も許さない事が分かった。
今度は脇を絞める事をメインとして、様々なパンチを放った。
ワンツーでジャブを繰り出し、2つ目を引っ込めた瞬間。
今度は両肘の外側から挟まれて、身動きが取れなくなる。
押強さんは黙って、俺を離して再び構え、スパーリングを再開する。
ここからは左脇だけを絞めたり、右脇だけを絞めたりしたが、結局はクリンチされ、身動きできなくなってブレイクとなる流れになった。
スパーリングが終わり、押強は現時点の評価を俺に聞かせる。
「クリンチの対策については全く出来ていないね。今までの基本練習の動きを見る限りでは、クリンチする事についてはむしろ、適正が高いとも言えるが、人気を失くしたくないならやめたほうがいい」
なぜか壱会にも聞こえるように声を大きくしているように思えた。
時刻を確認すると、ここで午前10時となっていた為、俺は3階に戻って、食事を摂る事にした。
2人も俺について行き、食事する様子を見ながら、お互いに意見交換をしているようであった。
30分後、食事を終えて練習に戻り、ストレッチからの練習メニューをこなす。
相変わらず、クリンチをされては離されを繰り返し、結局、6セット目を終えるまで、押強さんにいいようにやられたと言う結果が残った。
ここで今日の練習は終了となり、俺達はジムを出て別れる事になるが、鍵の開け閉めをしていた川名さんに聞くと、壱会と押強さんには今日と明日だけは近くのホテルに泊まってもらうよう、すでに手配していると言う事であった。
俺達は2階の住居に戻ると、音羽の姿は無く、すでに海外との取引のため、しばらくは戻れないと言う事だった。
今日は普段と同じ行動をした後、ベッドで眠りについた。




