引退試合の相手はいつでも特別な感情が沸いてしまいます
昨日のハイペースランニングで疲れた。
と言う事も無く、普段と同じ朝6時に目が覚める。
今日はライトヘビー級の初戦であり、対戦相手の引退試合を兼ねている日である。
(そう言えば、あの時の展数さんって、どんな心境だったんだろう)
情報自体は色々と出ているのだが、実際のところは当日、どんな気持ちだったのかは今でも分からない。
こればかりは今、聞いても仕方がない為、俺は全力で今日の試合に臨む事にした。
今回も試合会場に入るのだが、スタッフに手続きを終え、入るときに観客の一部が声援を送るようになってきた。
ただ、一部と言うのが滞在先のホテル近辺に住んでいる人達となり、要するに近所に応援されるところまでの人気になってきたのである。しかし、日本人と言う事で、都市レベルではまだまだと言う事なのだろう。
今回も会場内に入ったのは、午後2時40分。これがいつもの時間である。
ここからまた、シェフにメニューを頼んで、食べれる物を選ぶのだが、この頃にはシェフとも交流があり、俺の食べたい物も優先的に仕入れてくれるようになっていた。
食事も終わり、着替えてから試合までストレッチをする事になる。
ひたすら続けて、午後7時40分。
最終的に試合会場の入り口に待機していると、俺の横に対戦相手が現れる。
彼の名前はジェイス・ニューマン。
本来は2戦後となるタイトル戦で当たると思っていたが、判定負けで急きょ、引退試合の相手を務める事になった。
彼は年齢は37となっており、もうそろそろ引退をと考えていたようである。
俺と戦う事で日本からの視聴に関係する収入も見込めそうな為、俺を相手に選んでくれたと言うのもあるのだろう。
外見は端正な顔立ちだが年齢を重ね、目尻にもわずかに皺が出ている。
短めのサイドパートの髪型が特徴的な選手である。
ジェイスは俺を見ると、礼をしたので、俺も礼を返した。
そこからは無言の時間が続き、午後8時。
いよいよ、赤コーナーの入場となった。
先にジェイスが入場し、次に俺が入場してリングに入る。
ここからはいつもの流れだが、今までイヤホンを外していた為、何を言っているのか分からなかったが、レフェリーが言う二つの言葉だけは分かるようになった。
それは一つ目が、
「there fighter let's go fighters」
これは戦う時間だから、こっちにこいと言っている気がする。意訳になるので、何とも言えないが。
そして、二つ目がゴングを鳴らす直前、
「ready?ready?」
と一人ずつ、再確認をしてるので言わずもながらと言うところだが、最近まではこれすらも良く分からなかった。
なぜなら、日本の英語の授業で学習する物は通常、文法英語の為に現地の人による発音すらもロクに判断出来ないからだ。
中には英語の授業がさほど分かっていない人が、実は文法も会話も出来るパターンがあるのだが、俺にはまだ無理なようである。
そんな状態でもゴングが2回鳴り、試合が開始する。
俺は試しにオーソドックスで素早い左ジャブを打つ。相手は左にウィービングして、右ジャブを打つ。俺は右手でパリイする。
そして、様子見の為、軽くバックステップした。
何もしない。
ここから5秒。今度は相手が右ジャブ、左ジャブ、右ボディーブロー、左ジャブと繰り出した。
俺は左右のジャブをガード、右ボディーを右にサイドステップ、左ジャブを相手の外から右ジャブで返す。相手は難なく右に避ける。
(どうも当たるが気がしない)
さすが回避に長けた選手である。誘いの攻撃も無駄打ちしない対応を取っている。
ボディーは当たりそうな気はするが、あまり執着するとカウンターをくらいそうな為、しばらくは見せパンチで相手の避ける癖を見切るように仕向けた。
相手は誘いに乗って、避けたり、軽いカウンターを返したりしていた。
俺もそんな事は百も承知の為、全て回避した。
始めに動きがあったのは1ラウンド2分45秒。
右ボディーフックした様子を見せ、左ジャブをするような動作をしつつも、やはりボディーを打つ為にやった結果。右から左へお腹を押さえつけるような攻撃をすると、相手は対応出来ずに体ごと俺の左側に持っていかれた。
レフェリーは「stop」をかけて中断する。
当然、ポイントにはならないので「box」と言って、試合を再開する。
すぐにゴングが鳴って1ラウンドが終わった。
1分のインターバルを経て、2ラウンドが始まる。
俺はサウスポーから左フックを軽く打つ。相手が選んだのはダッキング。
ベルトラインよりも低くなりそうだったので、下げてる途中で俺は姿勢をそのままに脇を締めつつ、不自然に角度の付かない右ジャブを顔と合わせて正面になるように素早く繰り出した。
相手はダッキングで前方の視界が見えづらくなっていて、もろに当たって思わず、一歩後退した。
レフェリーは止めるが、傍から見ると異常に下げようと企んだ選手が軽い打撃で阻止され、間抜けに打撃をくらう絵面となっていた為、そのまま試合開始となる。
俺の意図は伝わったらしく、相手は口角を一瞬上げてから、真顔に戻って戦いに入った。
次に動きがあったのは23秒。
今度は左ジャブを打ち、相手に左へのウィービングを選択させて動くと同時に右ジャブ、またも相手の顔面に直撃した。
俺はバックステップして、瞬時に相手と距離を取る。
ここからは顔にボディーと色々攻撃を試してみるが、特に変わった展開もなく、2ラウンドが終わった。
インターバル中、俺は座った相手を見る。
相手は顔にダメージを負った様子はなかったが、口角を引き締めてからこちらを見返した。
ゴングが鳴り、3ラウンドが始まる。
俺はサウスポーから左ジャブを繰り出し、時間差でオーソドックスに切り替えながらの右フック。
相手は左のウィービングを選んだ為、予想は的中。
左顔面を見事に捕らえて、そのまま反対方向に飛ばされダウンした。
しかし、ダメージはさほどでもない為、すぐに起き上がり、ファイティングポーズを取る。
試合再開。俺はすぐさまサウスポーからの右アッパーを放ち、相手は右ストレートで応戦しようとするがこれは罠。
右足を右前に踏み込みつつの左ストレートを放つ。相手は右からの攻撃とばかり思っていて、瞬時には対応できず、これは直撃。
相手は再びダウンし、レフェリーがカウントをする。
カウント8で相手は立ち上げり、ファイティングポーズを取った。レフェリーは確認するが、問題ないと判断し、試合再開。
3秒後、相手は左ストレートを選択。
俺は左にサイドステップし、右ジャブを軽く出す。相手が右アッパーを狙うのは予想済みで、軽くバックステップしながら、腕を伸ばし切った右ストレートを放った。
相手よりもリーチは長い為、威力は低いが顔面に当たる。
相手は何もする事なく、試合が続いた。
次に動きがあったのは1分40秒。
相手がシンプルに左ボディーブローを繰り出した。
これに合わせて、俺は左にサイドステップしながらの左ジャブを出すふりを見せると、当然、チャンスと判断し右アッパーを放ったが、これも予想済みの為、軌道を変えて、左ボディーブローで応戦する。
安心していた相手は相手の右手よりも少しだけ外側を攻撃した為、相手は右アッパーを続けてが、俺のリーチが長い為、この左ボディーブローをくらい、3回目のダウンとなる。
レフェリーはダウンと判断し、試合終了。
3ラウンド1分44秒、テクニカルノックアウトで勝利した。
試合後、引退試合と言う事もあり俺は自動翻訳付きのイヤホンと通話機を付け、ベルトを着けない状態でリングアナウンサーからインタビューが始まる。
「これで、次の試合はタイトルマッチになりそうですね。何だか相手に攻撃する事を遠慮してる様子が随所に見られましたが、なぜでしょうか?」
「攻撃を遠慮した訳ではなく、安易にパンチを打ち込むとダウンされる可能性が高かった為、ひたすら距離を測る事を重視しました」
「次は2ラウンドについて。相手が反則になるようなダッキングを見せていましたが、これを姿勢を変えずに斜め上から斜め下にパンチを打ちましたね。これも反則を取られてもおかしくなかったですが、どうしてあのようなルールすれすれのパンチで返したのか教えてください」
「あれは相手も私を試したと判断し、ルール違反にならない程度のパンチをする事によって、ボディーへの攻撃と回避の手を封じました」
「さらに今度は、相手の顔面を捕えますが距離を取る事を選択。少し消極的ではありませんか?」
「あれも顔面への攻撃と回避の手を封じる段階で、ダウンを狙う場面ではないと判断したからです」
「いよいよ3ラウンド、ここからスミサカの猛攻が始まるのですが、先ほどまでの話からすると、回避手段を奪ったからと言う事で解釈していいでしょうか?」
「そうだと判断しましたが、これでも油断は禁物でした。フェイクを交えながらの攻撃を繰り出す事で、相手の顔面を捕らえる事に専念しました」
「そしてフィニッシュとなる左のボディーブロー。これも回避手段を奪った事で可能になったと判断してもいいでしょうか?」
「最後の一撃まで、逆転負けの可能性があった為、フェイクを見せながらの攻撃となりました」
「現在のチャンピオンはすでにスミサカの挑戦者指名は非公式で表明してるのですが、今から準備をしないといけませんね」
「そうですね、階級も上げていくとそれだけタフになります。少しずつ倒しにくくなっているので、今後の頑張りどころですね」
「とにかく、今はおめでとう」
「これからジェイスに移ります」
リングアナウンサーは対戦相手の近くに移動し、インタビューが始まる。
「今日限りで引退となります。しかし、どうしてメリットが感じられないランキングの下の選手と試合をする事になったのでしょうか?」
俺にとっては失礼な質問に思わず、顔が引きつってしまった。
「それは、こちらが引退後の生活の為にファイトマネーを多めにくれないかと頼んだら、快く引き受けてくれたからだよ」
「名誉よりも金ですか、元チャンピオンとして恥ずかしくないですか?」
さらに失礼な質問に、俺は死んだような顔をして、インタビューを聞き続ける。
「そうは言っても、引退すればただの人間ですから、そこはお金をもらえると助かるんですよ」
「まあいいでしょう。次は試合について質問です。1ラウンドはほとんど攻撃をもらっていないようにみえたのですが、2ラウンド始めから一転して攻撃手段を奪われる事になります。この辺はどう考えていたのでしょうか?」
「1ラウンドが終わる前に相手のボディーフックをくらいます。これは一撃目をフェイク、逆のジャブをフェイク、結局は中断した一撃目が本命の攻撃と言う二重のフェイクにかかった事になり、ここから負ける可能性が頭を過りました」
「なるほど、2ラウンド開始直後に反則になるレベルのダッキングをやろうとしましたね。これはどういう事でしょうか?」
ジェイスは一瞬、言葉が詰まってから答える。
「反則になるダッキングをする事によって、彼がどう出るのか試してみたかったんですよ」
「結果は自然な形で封じられ、今度は顔面辺りも封じられました。この時の心境を教えてください」
「ダッキングを取った事自体が失敗でした。あれから試合が終わるまで、結果として防戦一方になってしまいました」
「何とか、あがくようにカウンターを狙っていましたが、全て見透かされていましたね」
「ええ、彼との対戦前にとある日本人の配信を見て、動きと癖を研究したのですが、私にはどうやっても、あそこまでの動きは出来ませんでした」
すると、リングアナウンサーが顔が綻ばせて笑うが、気を取り直して表情を引き締める。
「あの伝説の生配信ですか、研究をしてもダメだったようですが、全盛期ならどうにかなったと思いますか?」
「いや、どうあがいても無理ですね」
「ジェイスは引退して、これからは家族とゆっくり過ごす事になりますが、今の心境を教えてください」
ジェイスは再び、言葉に詰まりつつも質問に答える。
「今日は負けましたが、ファイトマネーは多く頂く事ができました。相手の陣営には重ねて感謝いたします。本当にありがとうございます」
「ありがとうございます」
ここで試合後のインタビューは終了し、次のメイン試合に移る為、俺達はリングを後にした。
試合会場から出て、両陣営が待機する場所まで戻り、俺はジェイスに握手をして、引退を労った。
相手陣営も俺の対応に笑顔で見届け、このまま会場を去る事になった。
ホテルに戻って、部屋に戻ったら午後9時30分となっていた為、俺達はシャワーを浴び、食事をしてから、眠りについた。
翌日は特に変わった事は無く、午前11時15分発の便で、帰国した。




