今日は厄落としの為に来てくれました
今日もまた、いつものように朝6時に目を覚ます。
俺はトレーニングウェアに着替え、今日も外で走り込みを行う。
ところで、あれから今までどうなったかと言うと、まずは食事スケジュール。
元の1日6食にするのに5日間もかかってしまった。
元々、ウェイトを上げる為にやっていた事でもある為、海外遠征時の1日3食分の量が適正の食事量なのだろう。
時差ボケは2日も経てば自然と治っていた。
理由は簡単、到着場所に合わせた睡眠時間の調整。
帰ってからは時間が合わない分は朝から晩まで練習し、無理やり疲れた状態にして、夜に眠った事。
正直、帰国してから翌日の夜に寝た時点で改善していたような気もするが、無意識に体へ負担がかかっているかもしれない為、もう1日も時間を若干増やしての練習をこなす事になったのだが、とにかく、時差ボケはさほどではなかった。
一方、時差ボケで大変だったのは展数さん。
ミット打ちからスパーリングまでしか練習に付き合ってない為、疲労はそこまでなく、無理やり時間を調整する事は出来なかったらしく、1週間以上してようやく、普段の生活リズムを戻したと言う事であった。
そして、今日までの間に音羽は3回ほど戻ってきたが、最初に戻ってきた際に川名さんへ説教をしていた。
彼女へ説教している間、俺に対するボディータッチが明らかに多かったのだが、色々と感情が溜まっていたのだろう。
その日は結局、音羽が寝る直前まで、なすままにしてあげた。
変わった出来事があるとすれば、次の試合もテキサスの会場で対戦したのだが、相手が元世界チャンピオンの世界ランキング3位の選手だった。
試合を行ったのが前の対戦から翌年の5月中旬。
1ラウンド2分34秒のKO勝利で終わり、来週の9月15日に現スーパーミドル級チャンピオンからの指名でタイトル戦を実施する事になった。
普通は元世界チャンピオンが俺と試合をやるメリットは欠片も無いのだが、これも音羽や浜崎会長などが色々と手を回してくれた影響である。
前の試合で、対戦相手は引退試合となったが、これはファイトマネーの割合を多く渡した為、喜んで試合を組んでくれた。
またも1ラウンドKO勝利となり、さすがに現地の選手達からは警戒されるようになってしまった。とは言っても、別に険悪な関係ではなく、あくまで選手としてと言うだけの話である。
話は戻って、走り込みが終わり、着替えてからジムに行った。
「今日もストレッチから筋トレまでやるが1セットで中断する。今日はここにとある人物が訪問する予定だ。時間は10時30分。こちらの食後に時間を合わせてもらった。そろそろ、お前にも負けを味わってもらう必要があるから、全力でスパーリングをするように、気を失った時は部屋まで運んでやるから心配するな」
展数さんはとんでもなく強い選手をジム内に入れるようだ。
どんな相手かは知らないが、とにかく練習に取りかかるしかない。
俺は朝食を摂り、いつものようにストレッチから始める。
時間が経過し、予定通り1セット目が午前10時に終わる。
ここから3階に行き、休憩がてらに食事をしていると、3階入口のドアが開いた。
そこに立っていたのは、焦げたオレンジのTシャツに黒の短パン。靴も黒のスニーカーを履いていて、背中にはオレンジ色をした円筒形のボクサーバッグを背負っていた。背丈は俺の口辺りほどで、顔は凛々しく細めの眉に黒目勝ちの瞳と言う、芸能人と言っても差し支えない男が俺の目の前に立っていた。
俺は誰か分からない為、マナーとしての一礼をして、身に着けたTシャツをもう一度確認した。
胸部の中央には『ヒッターちゃんねる』と言うロゴがプリントされていた。
「あ、壱会必太か。久しぶりだな」
俺は壱会との再会に握手をする。
「中学の大会から会ってないから、分からなくてもしょうがない」
握手している俺と壱会に展数さんが咳払いをして、
「この人が今日の来客だ。次の練習でスパーリングの相手になってもらうから、心して戦うように」
珍しく、厳しい口調で注意をした。
壱会が近くの椅子にバッグを置いてから、中からカメラらしく物を取り出す。
「今日、ここを生配信する許可をもらったからカメラを撮らせてくれ」
壱会はカメラを起動する。
すると、独りでにカメラが宙を浮き、壱会と向かい合う形で待機し始めた。
「もうカメラ回ってるから、最低限の注意は払ったほうがいい。でも、ガクは食事続けてて欲しい。その様子も撮影する予定だから」
食事をしていたので、再びテーブルに移動し、椅子に座って食事を続けた。
「こんにちは、ヒッターちゃんねるにようこそ」
「早速ですが、今日は住坂ボクシングジムのTrulyOwns支部にやってきております。現社長との血縁関係を悪用して、こちらの撮影許可を得る事に成功しました」
壱会の言葉を聞いた展数さんは右側の口角が引きつった感じになってしまった。
壱会は前方の何も無い空間の何かを確認してから説明を始める。
「今日のメニューは1.ここの紹介、2.ミット打ちの様子、3.マスボクシングでの動きの確認、4.これがメインになり、私ことヒッターと、住坂雅玖選手のスパーリングとなります。このスパーリングは安全性を考慮して、両者ともヘッドギアを付けて実施する事になります」
以上が今日の配信内容になるらしい。
次に壱会は食事中の俺に目線を向けると、カメラもこちらに方向を変えた。
「それで、こちらが今日、2回目の食事をしている住坂雅玖選手です」
俺は不自然に顔を作りつつ、
「事前の説明で、食事の様子も撮りたいと言う事だったので、このまま食べ続けます」
食事を再開した。
次に展数さんのほうへ向く。
「ミット打ちとマスボクシングは専属トレーナーである浜崎展数さんことグエッサー浜崎さんが普段と同じように住坂選手の相手になります」
次のメニューの流れを説明する。
壱会は再び、俺達を背にした方向に向き直り、
「食事を終えて、2階のジムへ移動するので、しばらくお待ちください」
説明したかと思うと、椅子に置いていたボクサーバッグの中から、片手に持てるサイズのチョコバーを取り出した。
そして、カメラを自身の顔付近に合うように設定し、俺が食べ終わるペースに合わせて、同時に食べきった。
壱会は椅子に置いていたボクサーバッグを手に取り、カメラと向き合う位置に戻してから、
「今から2階の練習場に行きたいと思います。彼らの先導で入室しますので、私は後をついていきます」
俺達に移動を促した為、展数さん、俺、壱会の順に3階の部屋から出て行った。
俺達は階段を降りて、2階の練習場の前に来ると、
「靴入れは?」
壱会が聞いてくる。おそらくシューズボックスの事だろう。
俺は部屋に入り、すぐ右側を向いた。
壱会は「ありがとう」と小声で言って、バッグの中からビニール袋に入れたボクサーシューズを取り出した。
続いて、俺達も靴を履き替えて、シューズボックスに入れる。
左側のすぐ傍に受付カウンターがあり、左奥の壁際の空間がシャドーボクシングスペースとなる。左奥の壁から反対方向を向いた箇所にストレッチスペースがあり、さらに手前にドアが2つある。
左側は男子用の更衣室となっている為、まずは俺と展数さんが入り、ヘッドギアやマウスピースなどを装着し、グローブを付けてもらう。
俺は更衣室を出て、壱会の前に出てくる。
次に展数さんはミット打ちの相手要因になる為、パンチングミットを用意するが、今回は壱会の分も装着しないといけない為、今は更衣室で待機する。
「壱会、お前のグローブも付けるから、更衣室に出るまではカメラは切っておいてくれ」
「今から着替えて来ますので、少しの間お待ちください」
壱会はカメラの映像をOFFにしてから、更衣室でユニフォームに着替える事と諸々の装備を全て装着する事にした。
壱会の分も終わり、更衣室から出る。
続いて展数さんがミットを左腕で抱えてから出てきて、壱会の代わりにカメラの映像をONにする。
さらに入ってきてドアを出て、シューズボックスと向かい合うようにあるリングへ移動した。
「しゃべってみろ」
「これで準備が整いましたので、浜崎さん。ミットの装着をお願いします」
展数さんが改めて、ミットを装着した。
「これで練習開始となります。まずは住坂選手と浜崎さんはリングに上がってください」
俺達はリングに上がり、さっそくミット打ちを始める。
1分後、俺はミット打ちをやっているだけの光景が気になり、
「ここから何をやればいいんだ?」
配信をしていると言う事になれば、少しは気にしたほうがいいと思い、質問をする。
「大丈夫、マスボクシングまでは映像に映すだけで価値があるから、気にしないでやってもらうとありがたい」
壱会の言う通り、気にしてもしょうがない為、マスボクシングまではいつも通り、こなすことにした。
20分後、いよいよ壱会とのスパーリングに入ると、
「お前ら、スパーリングをやる前にウェイトを計ってくれ、参考にしないといけないからな」
展数さんが、入口からすぐ左にあるカウンターの奥からポールなしの体重計を取り出してきた。
「じゃあ、まずは壱会。お前が最初に計ってくれ」
壱会が体重を計る。示した体重は57.3kg。
「次はガク。今の体重を計ってみろ」
次に俺が体重計に乗った。示した体重は74.1kg。
「ここから約500g引いた数値が本来の計測体重となる。今の状態はガクが73.6kg、壱会が56.8kg。つまりは今からやる本気のスパーリングはスーパーミドル級とスーパーバンタム級の戦いとなる。後は説明してくれ」
展数さんはまとめを壱会に任せる。
「普通に言うと、階級差は8となるので、勝てる訳がありません。しかし、今日ここに来たのは住坂雅玖選手を黒星を提供し、タイトルマッチの前に厄落としをする為、ここに呼ばれて来ました」
俺はコメントを求められてると思い、壱会にアイコンタクトをする。
壱会は察して、カメラを俺に向けた。
「今後、階級を上げるごとに特殊な戦法で戦う選手も出てくるでしょう。今日は不測の事態を未然に防ぐ為、今日の全力スパーリングをお願いしたのだと理解しています。今日は負けないように、頑張りたいです」
俺はカメラに礼をして、壱会に向け直す。
「これから、今からスパーリングをしますので、怒号と罵声は上げないように大人のコメントだけ投稿してください」
俺と壱会がリングに上がり、
「浜崎さん、開始の合図をお願いします」
俺達はファイティングポーズをとり、いつでも戦える状態にする。
5秒後、展数さんは「はい、始め」と開始を告げて、俺達の戦いが始まる。
今の構えはサウスポー。
右ジャブを打って、右腕を縦に固めながら、左ボディージャブを放つ。
相手は最初をガード、ボディーをサウスポーから右足を下げながら、後ろに避ける。
少しガードを上げて、次の手を考える。
さらに5秒後、相手からの左ボディージャブ。これを右腕のガードをわずかに下げて、対処しようとするが、これは罠だった。
相手は引っ込めると同時に、右ジャブを放った。早々に顔へ一撃をくらう。
俺は両腕のガードを敢えて、少し下げたスタイルに変える事にする。
相手の左ストレート。これを左に避けつつ右ジャブ、と見せかけ、大勢をそのまま左ジャブを打つ。
相手は右ストレートを打とうとした為、拳にはじかれて、後ろに一歩後退し、体勢を立て直した。
ここからしばらくは似たような攻防が続き、3分して「はい、ストップ」と声がかかる。
1分後、2ラウンドが始まり、再びファイティングポーズをとる。
開始3秒、俺は速さを意識しながら、左ジャブ、左フック、右ジャブを繰り出す。
相手は全てガードする。直後に右ジャブを打ってきた。
これは右腕を畳んだ直後の為、顔にまたパンチをもらう。
ここから15秒後、相手が右ストレートを打ってきた為、右に避けて左ジャブを放とうとしたら、高速の左アッパーを出してきて、これもくらう。
顎が上がってしまった為、バックステップで追撃を回避した。
俺達は攻防を繰り広げるのだが、30秒後、相手が左ボディーブローを腕を伸ばしながら打ってきた。
俺は当然、右手を上から下にパリイするのだが、見計らったかのようにパリイの瞬間、左手を下げ、高速で位置を挙げた左ジャブが来る。
回避出来ず、左顎に一撃くらった。
ここから手が出ず、防戦になり、2ラウンドが終わる。
1分後、3ラウンドが始まる。
開始直後、俺は脇を外した強い右ストレートを放つ。
相手は左に回避する、時間差で左手で右側に押すようにパリイすると、右腕が大きく左に反れてしまう。
その間に左側から右ジャブを繰り出して、右頬に一撃くらう。
10秒後、俺は左ストレートを放つと左手で右にパリイすると同時に右ボディーを出すように見えたが、これはただ右手を右下後ろに動かしただけだった。
さらに3秒後、サウスポーからの右ジャブを若干右側に打ってきたので、オーソドックスに構えていた俺は右にピボットしながらカウンターの用意をする瞬間。
相手はおもむろに左腕を後ろに伸ばして、視界に見えないようになった。
まずいと思ったが、体が反応しきれずにそのまま右フックを放ってしまった。
相手は完全に脇を外した左フックを外側からカウンターとして、返し、これを直撃してしまう。
俺のくらった一撃はヘッドギアの右顎の根本に直撃し、そのままダウンした。
俺は気を失い、スパーリングは終了する。
そして、これが壱会必太の必殺技『ファントムフック』である。
壱会は浜崎さんに介抱するように指示した。
後、このままだとしゃべれないので、マウスピースを外す。
住坂は気を失ったままで、浜崎さんに状態を確認されているので、
「目的は達成しましたので、進行を進めてもいいですか?」
配信の続きを要望した。
浜崎さんは問題ないと言ってくれたので、カメラを俺と向かい合いように設定した。
後ろには気を失った住坂を映した構図にして、進行を再開する。
「これで4つ目にあげたメインのスパーリングは終了となります。住坂選手の知らないところで浜崎トレーナーには、このスパーリングで勝つように言われていたので、こちらの目的も見事に達成する事が出来ました」
事前に浜崎さんと話していた事も、このタイミングで伝える。
「それでは、今日のヒッターちゃんねる生配信は以上になります。ありがとうございました」
俺は一礼して、カメラに笑顔を見せてから10秒後にカメラがOFFする設定にしているのを待って、カメラのOFFを確認した。
これでヒッターちゃんねるの生配信は終了となった。
これから5分後に住坂が意識を取り戻した。
「ん、今は何時だ?」
ぼんやりとした声で、不特定な状態で聞いてきてので、
「住坂、まだ5分しか経ってないぞ。後、ヒッターちゃんねるの生配信もさっき終わったから、俺はもう帰って動画の編集する」
住坂に自身が家に帰る事を伝えた。
「後、浜崎さん。グローブを外してもらえないですか?」
浜崎さんにグローブの着脱をお願いした。
俺は二人で更衣室に行ってから、元の服装に着替える。
俺はバッグを右肩に担いで、リング近くに戻り、
「その様子なら、午後からは練習出来ると思うから、今から午後1時までは休憩時間にして休んだほうがいい。俺はこれで帰るから」
入口左側の靴入れからスニーカーを取り出し、靴を履き替えて、ボクサーシューズをビニール袋に包んでバッグに入れる。
入口付近で二人に向き直り、
「今日はいい配信が撮れました。本当にありがとうございます。これで失礼しますので、午後からの練習、頑張ってください」
一礼して、ジムを出て行った。
展数さんは手を額に当て、
「やはり、まだ壱会には勝てなかったか。予想通りだったな」
しみじみと口にした。
対する俺も終始、壱会に翻弄されていた為、
「俺の攻撃はどこか単純なんでしょうね。小さい頃がものすごく弱くて勝てなかったぐらいですから」
自虐気味に言葉を発した。
「今日の件で自信をなくしたか?」
展数さんが尋ねてきたので、俺は気を取り直して答える。
「いや、今日の件で課題があぶり出された気がします。後半は攻撃を食らってばかりでしたし、午後からは課題点を重点的に修正しようと思いました」
「そうだな、とにかくこれからは強い相手も出てくるだろうから、修正点は改善していこう。じゃあ、まずは食事休憩だな」
俺達は少し早くて長い昼休憩に入った。
午後からからはいつものように何セットもメニューをこなし、午後9時20分に終了。
2階の住居に戻って、風呂、食事、寝るの日常を送った。




