音羽のストレスが溜まっているようだ
あれから6月に入り、日本ランキングが発表された。
俺は見事に日本ランキング5位に入り、7月始めに浜崎ジム側が俺との日本タイトルマッチを発表した。
開催日は8月27日。事前の予想通り、付近にあるドーム型の大規模会場での対戦となった。
俺達の対戦が最後に組まれる事になったのだが、
(どうして、前に世界タイトルマッチが組まれてるんだ?)
なぜかICBOのスーパーフライ級の世界王座決定戦が組まれていた。
どうやら前の戦いで、佐藤さんがタイトルを奪取したみたいだが、すぐに返上して、1階級上げた為である。
(相変わらず、減量に苦戦してるな)
日本王者になって、すぐに返上し、スーパーフライ級に上げたが、ここも苦しかったと言う事だろう。
通常、チャンピオンを返上して、空位になった場合は、同階級のランキング1位と2位が対戦する事になっている。
空位の為、タイトル獲得のチャンスはかなり高い物となっていて、この機会を狙って各ジムの関係者は、情報収集をして空き巣狙いを企んでいたりするが、俺にとってはあまり関係ない。なぜなら、返上して階級を上げる側に回る為だ。
季節は夏となり、20日後に展数さんとの日本タイトルマッチを迎える。
今は試合に向けて、朝から晩まで練習の毎日だが、今日は久しぶりに音羽がリビングのソファーに座って、くつろいでいた。
前に身に着けていたワンピースタイプのルームウェアで、今日は色違いの薄緑色だった。
現在の時刻は午後1時。
いつもであれば、練習時間であるが、この日は少し事情が違っていて、
「隣に座って」
1日だけ休みを貰ったみたいだった。
これは、時間を少し遡った話になる。
朝6時に起きると、玄関から川名さんと白髪のスーツを着た高年男性が入ってきた。
「初めまして、私は秘書室で相談役をやっています。橋詰と申します」
俺に名刺を差し出してきた。
名刺には相談役 橋詰孝吉と記載していた。
「2時間前に戻って、就寝しているのですが、また数か月帰る事が出来ない事が決定している為、今日だけはここで休ませる事になりました」
自己紹介と来訪した理由を説明された。
「つきましては、住坂様も本日は練習を休んで頂きたく、お願いに参った次第でございます」
(まあ、一日だけならいいか、また会えないのは寂しいしな)
「分かりました。今日は私も練習を休んで、音……知念社長と一緒に過ごす事にします」
食事などは制限する事になるが、日常生活自体はたまには休んでいいと思うので、俺は了承した。
「それでは、お嬢様と仲良く、過ごしてください。私はこれで失礼いたします」
橋詰さんは俺に一礼して、玄関をまた、出て行った。
「と言う事で、今日は音羽を甘えさせてやってね」
川名さんは練習を休むように直接言わず、やんわりと俺に伝えた。
練習自体は1日ぐらいなら、いくらでも取り返せるので、今日は休む事になった。
そして、今に戻る。
音羽の隣に座っていると、俺の顔を覗き込んで、
「膝枕して」
音羽は猫なで声で、突如言ってきた。
俺は断る理由も無いので、黙って頷くと、音羽は膝の上に顔を乗せて、1分も経たない内に眠ってしまった。
(こんなに早く眠るって、普段はよっぽど疲れてるんだな)
俺にもどう言った働きをしているのか、少なからず思い当たりがあるので、何だか申し訳ない気持ちになる。
(それにしても、寝息を立てて眠っているのが猫みたいでかわいい)
普段とは真逆の態度で、自然と心が躍ってしまう。
「完全に甘えたいモードに入ってるみたい、ガク君もそのまま寝てしまったら?」
近くに居る川名さんに提案されて、俺は首を縦に振り、音羽と一緒にソファーに座ったまま眠りについた。
しばらくは時間も忘れて、やっと目が覚める。
音羽は相変わらず、膝の上で眠っている。時刻は午後3時。
「やっぱり、ガク君も疲れていたんだよ」
ソファーの後ろから来た川名さんに声をかけられた。
川名さんは向きが違うソファーに座って、俺と会話できる形にした。
ここからしばらくは音羽が目を覚ますまで、色々な事を聞いた。
朝にやってきた橋詰さんが、川名さんの前の第一秘書で、今の業務と言うのが、秘書室に居る秘書達の指導と、川名さんの補助を兼ねている事。
音羽と川名さんの出会いの話と対戦した時の話。
これで分かったのが、以前に俺がキックボクシングに転向しようと心変わりしようとしていた時に偶然、公開スパーリングを見て、あまりの凄さに何の遺憾も無く諦めた瞬間であった出来事と言う事を。
後は、最近の周辺の出来事を雑談として話を続けているとようやく、音羽が目を覚ました。時刻は午後6時になっていた。
川名さんはキッチンに行き、簡単な料理を作ってくれた。
鶏肉とブロッコリーのトマト煮。
これがメインで、俺にはオレンジジュースを渡されて、これを飲み食いする事になった。二人は麦茶を飲み、俺達のお腹を満たす。
食事が終わり、風呂に入ってから、俺達はそれぞれのベッドに寝る事にした。
翌日の午前3時頃に音羽は仕事で外出したらしく、朝に起きた俺には、リビングのテーブルに簡単な書き置きだけして、その旨を知らされた。
結局、この日から数か月間。
本当に音羽は仕事で帰れずの日々となった。
俺も黙々と日々の練習に打ち込む事にした。




