スパーリング相手の動きがとにかくおかしい
俺は展数さんへの対策が進まない中で、朝を過ごす事になる。
時刻は午前8時。
「おはよう」
「ああ、おはよう。眠ってはいたようだが、対策案は思いつかなかったようだな」
俺はあくびをして、さらに話を進める。
「おはようございます。全くない訳でもありませんが、決定打にならないかと」
「そう言えばガク。今日、私の第一秘書を住坂ジムに派遣したから、走り込みが終わったら色々話すといい」
「ありがとうございます。それでは、今日も朝練。の前に朝食を摂ってから朝練行ってきます」
俺は音羽とのやり取りを一旦終え、着替えを済ませてから1階の居間に行く。
「おはよう、今日は寝坊した」
「おはよう、後3回寝坊するんでしょう?」
誰に聞いたか分からないが、試合後の帰宅時間を言ってるのだろう。
「ごめん、少しの間。迷惑をかけると思う」
「食事の時間はそんなに変わってないから意外に問題はないわね」
俺に決まった食事を食卓に出した。
俺は食卓に乗った物をあっという間に食べきり、ごちそうさまと言ってから外に出ようとする。
「朝練、終わったらまたここに来なさい。次の食事の時間になると思うから」
「ああ、時間だけで言ったら、そうだった。ありがとう」
盲点だった。
朝練終わったら、練習に行こうとしていた。
食事の感覚が短いので、ついつい見逃しそうになるのである。
俺は改めて、家を出る。
2時間ほど遅れた朝のメニューを午前10時まで行い、再び家に戻った。
お袋が次の食事も食卓に出していた為、これは完食する。
「そう言えば、さっき知念社長が『川名をジムに待機させている。いつでも来ていいぞ』と言っていたわ。今からジムに行ってきなさい」
川名と言うのは、先ほどの第一秘書の事である。
のんびりしている場合ではない為、俺はお袋に別れを告げ、家を出る。
ジムに入って、いつもとは違う姿を確認する。
「こんにちは、はじめまして。秘書モードは今はやめて素の口調で行くから、今日はよろしく」
グレーのスポーツブラに黒のレギンスを身に着けている。髪型はショート。
(あれ、音羽に聞いた限りでは後ろで髪をまとめていたはずだが)
俺は彼女の髪型に違和感を持っていると、
「ああ、この髪ね。私も少し本気を出さないといけないから、音羽社長に許可もらって、短く切ってもらったの」
音羽も了承した上での対応だった。
俺は改めて彼女を見る。顔はすっぴんのせいか、どことなくあどけない。
体つきからウェイトを判断しても、佐藤さんと勝負出来そうな感じだ。
練習相手として大丈夫だろうかと不安に思っていると、
「人を見て品評してるのはいいんだけど、これでも音羽社長以外なら負けないと思うよ?先月だって、別件で浜崎ジムに行った時、会長と長男に会ったら、目があっただけで後ずさりしてたくらいだから」
(何をすれば、目を見ただけで後ずさりするのか気になるんだが)
俺は一目で警戒するような人である川名さんに少し興味が湧いてきた。
「まずはストレッチから始めて。ミット打ちになったら、声かけてくれればいいから」
簡単な指示だけ出して、与野さんとスパーリングを始める。
俺はストレッチから始めて、サンドバッグまで終わらせる。
「終わりました。ミット打ち、お願いします」
リング上に居る彼女に伝えた。
スパーリングをしていた与野さんはその場にへたり込み、肩を大きく上下させ、息を切らしている。
当然、俺は与野さんの様子が気になり、彼女に聞いてみた。
「何をどうすれば、こんな格上との対戦後の状態になるんですか?」
「ああ、男相手でもこんな感じだから、ましてや彼女なら仕方ないよね」
川名さんは至って普通の様子で質問に答えた。
「体は、温まっているとは言えないから、ミット打ちの面倒見ながら、体の動きを良くしていく事にするよ」
俺をリングに上がるように促した。
俺も彼女の誘いに乗り、リングに上がってミット打ちを開始する。
数分の間は何事も無く、普段の感覚を確認する作業でしか無かったが、俺がパンチを打って素早く下げようとしていた時、急に川名さんがミット越しの大振りの左フックを繰り出した。
(あ、やばっ)
俺は突然のフックに対応出来ず、バックステップで何とか回避する。
川名さんはニヤリと微笑んで、
「これに対応できないようじゃ、グエッサー浜崎の攻撃は避けられないと思うよ?」
どうやら、俺の隙を突いた攻撃を意図的にやったらしい。
その後も俺の隙を見つけては、彼女の何らかの攻撃をして、俺が回避を繰り返すと言う流れになっていた。
ここまでが今日のミット打ちの内容である。
時刻は午前11時10分となっていた。
「後は11時30分までは佐藤君とスパーリングをするから、あなたはそこで私の動きでも見てくれればいいよ」
川名さんは靴を脱いでから、スパーリングをするようである。
どうやら、午前中の練習はここで終わりのようだ。
俺は素直に二人のスパーリングを見る事にした。
3分経った時、彼女は急に体を浮かせて、右ひねりに2回転してから強烈な右キックを繰り出した。
佐藤さんは完全に不意を突かれ、ガードをしたままリングのロープまで飛ばされて、ロープの跳ね返りによって、彼女の近くへと戻ってきた。
「それなりの力しかないとこうなるんだよね」
佐藤さんはこの事実に顔を引きつらせるしかなかった。
「キックしそうなのは分かってましたが、何なんですか、その意味不明な動きは?」
佐藤さんは人間の動きとは思えない川名さんに質問する。
「ああこれね。慣れればやれると思うよ」
「普通の人は宙に浮いたまま回転はできないですよ」
この場合については、佐藤さんの言うとおりである。
「そうだね、私はガードか避けるだけしかしないから佐藤君だけやれるだけやってね」
「そうですね、攻撃が当たる気が全くしませんが、それでやってみます」
結局、ミットをしないままの的当てゲーム式スパーリングが始まった。
5分ほど見た段階で、川名さんの避ける動作を良く見ていたら、ある事に気づく。
(全部避ける直前で、関連部位がわずかに動いてるな)
これが何を意味するのか、現時点では不明。
しかし、こう言った積み重ねが後に役立つ事もある為、今は観察する事に集中しよう。
11時30分となり、俺は一度、自宅に戻って昼食をとる事にした。
以前とは違い、少しずつ量が増えていき、今は3食で済ませていた時の4分の3まで増えている。
つまりは6食摂ると、以前の4食半を頂くと言う事になる。最終的には以前の1食分の量を6食摂る事になるのだが、それはまだまだ先の話となり、現時点で考える事ではない。
(まずは展数さんに勝てないようじゃ話にならないな)
その為の強化練習である。
今年の夏休み中に対策の糸口だけでも見つけないと話にならず、1ラウンドでKO負けすると言う結果も十分に考えられる。
(午後から試せるだけ試すか)
俺は昼食をとり終え、自宅からジムに移動した。
ジムの出入り口を過ぎると、左側のカウンターの前に音羽が立っていた。
「雅玖、久しぶりだな」
「久しぶりです……ん、それは?」
音羽の左手には自室のベッドの左側の壁に立てかけている、鏡の飾りをスマホサイズにしたような物を持っていた。
「これは以前、部屋の中に飾るように言った物があっただろう。それを少し小型化して、持ち運びし易いように改良した物だ」
「とは言っても、これはまだ未完成品でな。今日のところは長平にリングに向けて持たせて、試運転をしようと思ったのだ」
音羽はカウンター奥に居た長平に渡した。
長平さんは手に取り、画面を覗いて、色々と操作をしているようだ。
10秒ほど操作をした後。
「どうやら、最終的には自力飛行しながら、リング上での動きを解析出来るようになるみたいだ。そう言えば、以前に佐藤が、リング上での動作解析をやったほうがいいと言ってたから、その関係もあるのではって、ん?」
長平さんは話しながら、違和感を覚え、
「どうして佐藤の言ってる事が知念社長に伝わってるんだ?」
どうも、音羽には何も伝えていなかったようである。
「匿名で我が社に『住坂ボクシングジムへの改善案』と題して、外部から要望書が届いたようだな」
匿名の要望書と言うのは、社外の有志による提案となる。
(佐藤さんなら、そこまではやらないだろうな。面倒事は嫌いなはずだ)
「おそらくは隠し撮りをする連中の一人からの贈り物だろう」
音羽は推測できる範囲の人物を挙げる。
「それともしくは、ミドル級の日本ランカーの選手達が送り付けている可能性もある」
長平さんは音羽の答えを聞くと、
「仮にも同じ階級で戦っている人が、無関係の選手に利する事をやるんでしょうか?」
顔を引きつらせながら指摘した。
長平さんの指摘に事務室エリアで食事をしていた佐藤さんが、
「ミドル級と言う名の小動物に、終焉級の怪物を入れると誰だってそうなりますよ」
他人事のようにツッコミを入れる。
「あまり利口なやり方ではないがな。雅玖が日本チャンピオンになったところで、すぐに返上し、空位になる事を考えるとメリットとして十分だからな」
急に佐藤さんの言葉にも、音羽は表情を変えずに補足をした。
「説明は終わりだ。悪いが私は忙しくてな。これから色々動かないといけない。後は川名に機器の操作方法などは諸々聞いてくれ、ではこれで失礼する」
音羽は右手をあげて、そのままジムを後にした。
「先ほど出来たばかりの試作品なので、音羽社長が直々に持ってきてくれたんですよ。まあ、雅玖様に会う事が目的ですね、どう考えても」
近くに居た川名さんが最後にぼそりと一言。
佐藤さんと長平さんは俺を見ながら、呆れている様子である。
「と言う事で、今から機器の使い方はリングで説明しますので、移動をお願いします」
川名さんは時計を見ながら長平さんに機器を渡し、俺達に移動を促した。
みんながリングに移動し、与野さんはカウンターに移動して、ジムの受付に戻る。
俺と川名さんがリングに上がり、長平さんがリング下で見守るように配置する。
佐藤さんは彼女の説明を聞いてから、筋トレを始めるようだ。
「長平さん、本来はリングから2mほど空間を浮遊する形で、スパーリングの様子を撮影し、同時に動作解析を行って、弱点を探す事を目的としています」
川名さんが音羽から渡された機器の本来の使用方法を説明する。
「なるほど、それは分かりました。今日の時点ではどのような使い方をするんでしょうか?」
「今日のところはあなたが、リング周辺を素早く動きながら、各方向の撮影をして、動作解析をする流れになります。その後は、隠し撮り勢の一人が欲しいと言っていたので、その人に動画データを渡す事になります」
長平さんの疑問に、川名さんが情報流出させる旨の説明をした。
「ネット上への画像流出って、色々と大丈夫なんですか?」
ひと通り聞いていた佐藤さんが、もっともらしい質問をする。
「それは問題ないと思います。もし、やろうものなら、こちらで適切に処理させてもらいますので」
川名さんは飛びっきりの笑顔で、ロクでもない未来が待っている事を示唆した。
「じゃあ、そろそろ始めるので、長平さんは撮影お願いします。最初はマスボクシングで色々確認したいから、試したい事があればどんどんやってね」
「分かりました。俺も試せる事があったら色々やります」
俺と川名さんは一度、息を思いきり吐いて、自然に息をする。
息が整ったところで、俺は最大限に素早い左ジャブを繰り出す。
当てる訳ではないので、顔の寸前で止めるのだが、川名さんは一瞬、反応に遅れてしまった。
すかさず、サウスポーからオーソドックスに切り替えながらの左のジャブ気味の高速アッパーを繰り出す。再び、反応が遅れた。
次に左のジャブをすると見せかけて、右の高速アッパーを放つ。川名さんがまた、反応を遅らせた。
ここで、俺は確認をする為に川名さんに話しかける。
「こんな感じでやる予定なんですが、どうでしょうか?」
「発想は悪くないと思うよ。それでも、相手はさらに裏を突いた攻撃をすると思うけどね」
速度重視の攻撃はそれなりに良さそうである。次は威力重視の攻撃になるのだが、とにかく、足を切り替えながらやってみる事にした。
今度はオーソドックスのまま、左フックの途中までをやって、本命の右フックを繰り出す。
川名さんはすかさず、前方に潜り込み、軽く触れる程度のアッパーを食らってしまう。
「さすがにこれはダメですね」
「フック、フックじゃ下から狙ってくださいと言ってるような物だからね、足の位置もそもそも悪かったし、仕方ないと思うよ」
本来やりたかった攻撃の意図も気づいてくれていたらしい。
俺はサウスポーに切り替えて、軸足を浅めにした状態にする。
今度は足をなるべく動かさないように左フック、右フック、左ボディーブローと繰り出した。
当然、全てガードされてしまうが、反撃を許しづらい形になったようである。
次はサウスポーのままで、今度は軸足を深くして、右ジャブ、右フック、左ストレートを繰り出し、右足を下げながらの右フック、スウェイ気味の左フックと組み立てた。
川名さんは軽く踏み込んで、左ジャブとしたところで、俺も右ジャブを合わせて、後ろに下がらせた。
「回避重視の戦法なら、これでいいと思う。有効打を与えないコンビネーションも必要だしね」
今度は褒められた。
問題は攻撃重視の戦法なんだが、どうしたものか。
数秒止まってから、俺は改めてサウスポーに構え、右ジャブ、左ジャブからの時間差で右フックと繰り出す。
傍から見れば、両側から攻撃しているように見えて、相手は混乱するはずだが、最後の右フックを川名さんがガードした時、少し大きな音がした。
川名さんは力加減を誤った打撃にニヤニヤした表情で、
「ガク君、最後の一打。奥の手が絡んでるって自己紹介してるようなもんだよ」
無意識に強くなった攻撃に俺は思わず、恥ずかしくなった。
考えながら、動きを試すを繰り返していた為、時間が経つのが早く、あっと言う間に6分経過した。
「マスボクシングはこれくらいでいいよ。これからスパーリングをするから、私はキックもするけど、何とか形にしてね」
どうやら、今度は少しだけ本気を出すらしい。
俺も顔を引き締めて、本気でやる事にした。
1分後、お互いに拳を合わせて、スパーリング開始。
まずは俺からサウスポーからの右ジャブ、左ジャブ、右ジャブを素早く打つ。相手はガード。
相手は前に踏み込みながらの左ジャブ。俺はカウンターで外からの右ジャブを打とうとするが、
(早い、攻撃どころじゃないな)
スウェイ気味に左ジャブを放つ。相手は軸足を下げた。
次は右からの攻撃をすると見せかけて、慎重にオーソドックスへ切り替えながら左ボディーストレート、左ボディーフック、右フックと繰り出した。
相手は二撃目の若干ずらしながらの左ボディーフックをくらい、右フックはしっかりとガードした。
この後はどちらかと言うと、軽打重視のコンビネーションでお互いに打ち合う。
次に変化が訪れたのは、15分38秒。
俺の構えはサウスポー。相手は右に踏み込んでの右ストレート。すかさず、右ストレートで応戦するが、さらに相手は左足で俺の後頭部に足先をかけ、掛けた足をそのまま、思い切り前に引いて、俺は前にこける。ここでスパーリングが中断。
前方に倒れた俺に川名さんが、
「今のはクリンチの代わり。結構、悪質な選手もいるから、世界に挑戦する際は気を付けたほうがいいよ」
本来は反則技であるが、先を見据えた指導をする為にわざとやったらしい。
俺は黙って立ち上がり、スパーリングが再開する。
ここからは軽打のコンビネーションを繰り出しつつ、相手が隙を作る機会を待っていた。
次に動きがあったのは24分54秒。
相手がサウスポーになり、軸足が深めになった瞬間。俺はサウスポーからオーソドックスに素早く切り替え、素早くピボットからの脇を締めながらの右フックを繰り出す。
相手は待ってましたとばかり、屈んで俺の懐に入り、右のボディストレートを放った。
俺はボディーを打たれたが、軽打だったのもあり、後ろに下がるほどではなかった。
俺は反撃に出て、軽めの右ボディーフックを繰り出す。相手は器用にガードした為、同じ高さの左ジャブを出し、相手はこれを上から下へパリイする。
さらに左アッパーを繰り出し、相手は立った状態に高さを戻す。
一連の動きでオーソドックスに変わっていたが、今度は俺がサウスポーに切り替えながらピボットし、同時に左フックを放つ、先ほどの逆バージョン。
しかし、そんな事はお見通しとばかり、左外側に回り込みながら、左バックブローが放たれた。
俺は右頬に打撃を食らって、倒れなかったがここでスパーリングは終了となる。
本気であればノックダウン負けである。
俺は川名さんに一礼して、敗北宣言の代わりとした。相手も一礼して、俺の敗北を受け取った。
「かなり早く、得意技を出したんですが、やはりダメでした。予想通り回避されて、そのまま反撃されて終了です」
「まあ、あれは仕方ないんじゃないかな?バックブロー自体はボクシングには無いし、それに今の左右のピボットターンって、動作を撮影させる為にわざとやったよね?」
動画解析用にやった攻撃と言う事もバレていて、思わずため息を漏らした。
「でも、あの攻撃だと壱会必太君の『ファントムフック』はまともに直撃するかもね」
川名さんは中学までで、2回対戦して負けた相手の名前をあげつつ、ダメ出しをした。
(ん、必太君って、知り合いか何かか?)
「えっと、川名さん。壱会とは知り合いなんですか?」
俺は素朴な疑問をぶつけてみる。
川名さんは呆れた感じを出してから答える。
「ああ、知り合いも何も音羽社長とは従兄弟だからね。本人を前にしたら、ゴミを見るような目をするのが予想出来るけど」
接点の無さそうな関係性を言われて、俺が困惑した様子を見せると、
「もっと言うと、会長の子供達、音羽社長から見た両親と親戚も全員、同じ目で見るから気にしても仕方ないと思うよ」
家族との関係性を言われ、俺は思わず顔が引きつってしまった。
「まあ、音羽社長の家族の事は遠い未来にでも、聞いてもらうとして、今は動画解析して時間の有効活用しようよ」
川名さんは俺を右腕で捕まえてから、一緒にリングを降りた。
この後は、午後から長平さんに動画撮影してくれた一連の動きを全て確認し、みんなで意見交換をしたが、どれも川名さんにいいように動かされているのが分かり、俺の実力はまだまだだと思い知らされる羽目になった。
この後、川名さんは撮影していたスマホサイズの機器を持ち帰り、俺は午後9時まで、ミット打ちから筋トレまでのメニューを何回もこなした。
午後9時10分にジムから出て、自宅に戻り、風呂に入って、眠りにつくのであった。




