英雄の死
1話の続き
魔王が、消えた。
光の粒子となって崩れ去っていくその姿を、レクスはただ静かに見つめていた。
勝った。
確かに、この戦争には勝利した。
魔族を率いていた王は倒れた。
これで人間は救われる。
だが。
「……あぁ……」
足元が、ぬかるむ。
違う。血だ。
辺り一面を埋め尽くすほどの、夥しい血。
そこでようやく、レクスは気づく。
静かすぎた。
戦場とは思えないほどに。
剣戟の音もない。
叫び声もない。
息遣いすら聞こえない。
ゆっくりと視線を巡らせる。
そこにあったのは無数の亡骸だった。
人間。獣人。そして魔族。
敵も味方も関係なく、すべてが倒れている。
誰一人として、動かない。
「……」
その光景が、頭の理解を拒絶した。
戦争には勝った。世界は救われた。
なのに。残ったのは、死体だけだった。
震える手を見下ろす。
赤く染まっていた。
仲間を守るために振るい続けた剣。
人類を救うために、たくさんの魔族を殺してまで戦い抜いた力。
その果てに、この手には何が残ったのか。
「……僕は……」
声が、掠れる。
膝から崩れ落ちた。
乾いた音と共に剣が地面へ転がる。
もう握る力すら残っていなかった。
脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
最後まで隣で戦ってくれた者。
笑い合った者。
未来を信じていた者。
その全員が、もういない。
「……守れなかった……」
結局。人も魔族も。
誰一人として。救えなかった。
レクスは俯いたまま、長い間動かなかった。
やがて。
ゆっくりと立ち上がる。
そして剣を置いたまま、その場を去った。
英雄としてではなく。
ただ、すべてを失った一人の人間として。
戦場を抜けた先。
崩壊した森の中で、数人の影が彼を待っていた。
長い銀髪。
透き通るような白い肌。
中立種――エルフ族。
その先頭に立つ男は、静かにレクスを見る。
エルフ族長。
千識の賢者――アルヴェイン。
長命種特有の静かな瞳が、レクスの表情を見るなり細くなった。
「……終わったのだな」
レクスは答えない。
答える気力すらなかった。
アルヴェインは静かに目を閉じる。
それだけで十分だった。
周囲のエルフたちが息を呑む。
だが。
誰も歓声を上げなかった。
上げられなかった。
レクスの顔を見れば分かったからだ。
勝者の顔ではない。
すべてを失った者の顔だった。
アルヴェインは静かに歩み寄る。
「……そなたのせいではない」
レクスの肩がわずかに揺れた。
「この結末は、誰か一人に背負えるものではない」
「世界そのものが歪んでいたのだ」
優しい声だった。
だが、その言葉はもう届かない。
レクスはただ、空虚な瞳で地面を見つめるだけだった。
しばらくの沈黙。
やがてレクスは小さく頭を下げる。
「……ご協力、ありがとうございました」
それだけを告げる。
アルヴェインは何か言おうとしてやめた。
今の彼にどんな言葉をかけても意味はないと分かってしまったからだ。
レクスはふらつく足取りのまま、その場を去る。
誰も引き止めなかった。
国境を越え、人間領へ辿り着いた頃には。
戦争終結の報せは、すでに世界中へ広がっていた。
街は歓喜に包まれていた。
鐘が鳴る。人々が笑う。
花びらが舞う。
「英雄様だ!」
「レクス様が世界を救ったんだ!」
「戦争が終わったぞ!!」
歓声が響く。
誰もが未来を祝福していた。
だが。
その中心にいるはずの英雄だけが、何も感じていなかった。
音が遠い。
世界がぼやけて見える。人々は口々に感謝を叫ぶ。
だがその言葉は、レクスの胸には届かない。
脳裏に浮かぶのは、死んでいった仲間たちだけだった。
『信じてる』
『絶対に生きて帰ろうな』
『お前なら、世界を変えられる』
そう信じた仲間も、誰も帰ってこなかった。
気づけば、拳を強く握り締めていた。
爪が食い込み、血が滲む。
それでも。
その赤は、もう落ちない。
まるで罪のように。
その日を境に。
英雄レクスは、人前から姿を消した。
誰も理由を知らない。
ただ、英雄は疲弊しているとだけ噂された。
だが実際は違った。
彼はもう、壊れていた。
食事も喉を通らない。
眠ることもできない。
目を閉じれば、死者の顔が浮かぶ。
毎夜、あの日の戦場が蘇る。
魔王の最後の言葉が、耳から離れない。
『この理が続く限り――俺は何度でも蘇る』
「……」
魔王は間違っていたのか。
自分は正しかったのか。
分からなかった。
分からなくなってしまった。
そして、ある夜。
英雄レクスは、一人静かに姿を消す。
その死を知る者は、誰もいない。
世界を救った英雄は。
誰にも看取られることなく、静かにこの世界から消えた。




