第9話 リーゼロッテの風邪
もうすぐ花祭り、初夏の風が爽やかに吹き始めた頃、ヴァルターにある知らせがもたらされた。
「ほう? 王太子妃の体調が芳しくない。──懐妊か?」
ヴァルターの抑えた理知的な声が執務室に響く。
モルゲンロート家にとっては一手奪われたかも知れない可能性に言及すると、侍従は首を横に振った。
「いいえ。ただのお風邪のようでして」
「それは心配だな」
明らかに心配も同情も感じられない抑揚のない平坦な声を出し、侍従のほうを見る。
「王太子妃殿下におかせられては、王太子殿下にお風邪をうつすことは出来まい。しばらくお側に侍らないだろう」
「いえ……それが」
「それが?」
「王太子殿下は妃殿下の看病を率先してなさっていて」
ヴァルターの水底のような青い瞳が凍てつき無表情となる。
「ほう? 大切な御身、お風邪を召されたらどうするとお諌めせよ。それに、殿下の身の回りのお世話は誰がするのだ。──私の姪に非常に美しい娘がいてな。女官として早急に召し出し、王太子殿下の身の回りのお世話をさせよう」
その声は無機質なほど冷たかった。
姉王妃に王太子ディートハルトの補佐をする人物が欲しいと頼まれていたし、良い機会だ。ヴァルターは口の端を薄く吊り上げた。
侍従が「は」と訳知り顔に去っていく。
ヴァルターは書類に視線を落として決裁を始め──ようとしたとき、ふと懸念事項が頭によぎった。
(……ギーゼラ殿に風邪がうつったり、してないよなぁ……?)
花祭りに誘うつもりなのだが。
***
「けふ、ごほっ」
王太子妃の部屋ではリーゼロッテがベッドの中でぐったりとし、酷く咳き込んでいた。
金糸の刺繍のされた薄青のジャケットを脱いで椅子の背もたれに掛け、ジレにシャツ一枚にトラウザーズという軽装になった王太子がリーゼロッテの額に手をあてている。
「うわあ、すごい熱だね」
「……うつりますわ、殿下」
リーゼロッテは息をひゅうひゅう言わせながら、王太子をたしなめていた。
「それはそうかもしれないけれども……。これはひどいな。結構つらいでしょう?」
彼は手早く氷水の入った洗面器に布を浸すと、絞ってリーゼロッテの額に当てる。
「喘鳴も出てるから息も苦しいだろう。──ギーゼラ、薬は出来た?」
ギーゼラは頷いた。
「はい、ただいま」
乳棒で乳鉢の中の物をすりつぶし、薬を作っていた。
「もうすぐお薬が出来上がりますからね、リーゼロッテ様」
「あり、がとうございます、……お姉様」
すりつぶしたものを湯で煎じてカップに入れ、リーゼロッテに差し出す。
「柳の皮から作った熱冷ましです。頭痛や身体の痛みにも効くと思います」
王太子がカップを受け取るとリーゼロッテを抱き起こして飲ませた。
「ほら、リーゼ。飲んで」
「……はい」
リーゼロッテは頷いてカップを受け取り、一口飲む。
(それから、カモミールティーを用意しないと。蜂蜜も……)
蜂蜜もカモミールティーも喉の痛みや咳に効果がある。
(あとは身体を温めてうんと汗を出してもらって、水分をいっぱい取ってもらって……。でも水分だけ抜けるとよくないからお塩も含ませないと。お塩と蜂蜜入りのレモン水を作るか……)
ギーゼラは心細い気分に襲われた。
妹がこれだけひどい風邪を引くなど初めてだ。元気な妹だったのに。よほど王宮での暮らしが負担なのだろうか。
じんわりと目に涙が滲む。
(泣いちゃだめ。私は姉なんだから。リーゼロッテ様をお守りする立場なんだから)
王太子がカップをギーゼラに渡した。どうやらリーゼロッテは薬を飲み終わったらしい。
リーゼロッテはぐったりとして意識が朦朧としている。
「あとはもう少しお湯を沸かすかぁ……。汗をかかせないといけないものね」
王太子は顎に手をあてた。
扉が叩かれた。
王太子妃付きの女官のひとりが応対すると、非常に美しい若い女が入ってきた。
金の髪に水底を思わす青い瞳を持つ女だった。モルゲンロート家の血を引く者のようだ。
(王太子殿下の女官か……?)
ギーゼラは警戒心を強くする。
女が言った。
「王太子殿下、お時間でございます。皆様お待ちかねでございますわ」
「え? まずい、会議に遅刻する!?」
あわわ、と王太子は慌てふためいた。ジャケットを着て、手を洗ってリーゼロッテの頭を撫でる。
「私が帰ってくるまで、ギーゼラや女官たちの言うことをよく聞いてね、リーゼ! 無理はしないでね。君はすぐ無理をするから。なるべく早く帰る!!」
王太子は急いで出ていき、会議へと向かった。
かの美貌の女が王太子に影のように寄り添っている。しかも、急ぎながらも親しげに二人で言葉を交わしていた。
(送り込んできたか。……リーゼロッテ様がお風邪の間に、側妃候補を……!)
その様子をこっそりと見ていたギーゼラは苦り切った顔をする。
宣言通り王太子は三時間ほどで戻ってきたが、やはりあの金髪の女が付き添っていた。
リーゼロッテは皆の看病の甲斐あってか数日ほどで回復した。
「お姉様、お薬ありがとうございました」
リーゼロッテの花綻ぶような笑顔が戻った。その笑顔に、ギーゼラの世界は薔薇色に染まる。
「リーゼロッテ様のためなら、いくらでもお薬をお作りしますよ」
王太子はリーゼロッテを深く抱きしめた。
「リーゼ、本当に良かった。しばらくゆっくりしていていいよ」
その言葉は愛情の発露に見える。しかし、王太子の背後には例の金髪の女官が控えていた。
ギーゼラにとってはまるで、この女官に寵愛を与える為にリーゼロッテを遠ざけるかのような発言にも聞こえてしまった。
リーゼロッテ自身もなんとなく不思議に思ったらしく、王太子に尋ねた。
「そちらの金髪の女の方はどなたでしょう、殿下」
「ああ!」
王太子は屈託なく笑った。女は王太子を親しげに見て微笑んでいる。
「この女性は私の従姉妹のテレーゼ。母上の姪で私の幼馴染なんだ。叔父上がすすめてくれて、最近私の女官になって……」
「……え……?」
リーゼロッテは明らかに動揺した。
幼馴染。従姉妹。大変怪しいとギーゼラは王太子の背中を睨んだ。
「ま、まあ。そうでしたの……。テレーゼ殿、よろしくお願いします……」
ギーゼラはくわっと目を見開く。
王太子の母はもちろん王妃。叔父はモルゲンロート公爵ヴァルター。
モルゲンロート家の完全なる肝いりで王太子のもとに派遣された女だ。
テレーゼは勝ち気に微笑する。
「おまかせくださいませ、王太子妃殿下。ディートハルト殿下のお世話はきっちりとわたくしが行います。昔からの仲でございますもの」
焦燥感を覚えたかのようにリーゼロッテの表情が曇った。
テレーゼが王太子を親しげに名前で呼んでいることが気になったのだろう。
「そうだね、テレーゼにならいろいろ任せられるかな。でも君は昔からかなり格闘技好きところがあるからね。また関節技をかけられないように気をつけないと」
リーゼロッテは顔面蒼白になった。
テレーゼに対する王太子の気安い口調が気になったのであろう。
「殿下にはもうかないませんわ」
王太子とテレーゼは親しげにあははと笑い合う。
リーゼロッテが少ししょんぼりしている反面、ギーゼラは非常に気になることがあった。
(格闘技……? 格闘技って、あの格闘技? 関節技?)
疑問に思って首を傾げていると、リーゼロッテが俯いているのを見た。
(ぬっ! ……昔からの関係を誇示してリーゼロッテ様を苦しめおってからに!!!)
ギーゼラは歯噛みする。
夜、ギーゼラは眠ることが出来ず、自分の部屋でいらいらと歩き回っていた。
(やはりモルゲンロート公爵……モルゲンロート公爵がリーゼロッテ様を苦しめる……)
爪を何度も噛む。
(テレーゼを追い出してモルゲンロート公爵を抹殺せねば……。どうすればいい?)
やれやれ一服盛るしか方法はないな、とギーゼラは溜め息をついた。
(テレーゼには眠り薬を盛って王宮の外に物理的に出しちゃえばいいでしょ? モルゲンロート公爵は……また色仕掛け……)
今度は唇に毒でも塗って口付けながら殺してやろうか。
(ないな。このあいだは何にもなびかなかったけど……。あれだけ見目好い男だと女にも不自由しないだろうから何も飢えてないんだわ。でも、乳母が男はみんな狼だって言ってたし……)
恋愛経験がまったくないギーゼラは渋い顔をした。
ヴァルターの言葉がふと脳裏をよぎる。
──ギーゼラ殿。貴女がこんなことをなさる必要はない。
(うるさいなあ……。上から目線で……。何も私のことなんか知らないくせに……)
自分はどうでもいいから、自分のような人間に愛情をたっぷり注いでくれるデーマルング家に栄光を。その悲痛なまでの思いなど、モルゲンロートの冷たい性格の人間にはわからないだろう。
はあ、と気分を切り替えるために、机の引き出しの中にある毒薬もとい薬の保管庫を開けてみる。
一切空っぽだった。
(まずい! リーゼロッテ様のお風邪の薬を作るときに全部使っちゃった!!)
買い出しに行かなくては。
(どうやって休暇を取ろう……。あまりリーゼロッテ様のおそばから離れたくないし……)
王宮は危ない。
王太子妃付きの女官たちのことは信用している。
しかし、リーゼロッテがギーゼラのいないときに危機に直面するのが一番嫌だ。姉として。




