第8話 愛してはいけないひとを愛している
大理石の床の上に広がる大きな血溜まりの中に、鳶色の髪の男が倒れていた。
まだ本当に幼かったヴァルターだが、異変を察して血溜まりのほうへ駆けて行った。
「……ちちうえ!」
男は海の底のように深い青い瞳をヴァルターに向けると、微笑んだ。
「……ヴァルター……。デーマルング家を……恨んでは……ならない。モルゲンロート家とデーマルング家は……ともに」
身体が酷く痙攣し始めていた。ごふ、というくぐもった音を立てて男は血を吐いた。
「この国を、支えていける……」
父の言葉より恐怖のほうが先に立った。モルゲンロート家へ輿入れしてきた父は温厚で穏やかな性格で、誰よりも平和を望んでいたのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
後ろから金の髪を振り乱した母がふらつきながらやってきて、父の手をしっかりと握った。
「喋らないで、あなた! もうすぐお医者様がいらっしゃるの。喋らないで……!! お願いだから……、傷口が開くようなことをしないで……? ずっと、わたくしの……そばに……いて?」
***
朝の陽の光を感じてヴァルターは目を覚ます。
顎に手をやる。じんわりと痛みが走る。
見回せば執務室の仮眠用の寝台の上だった。
甘く濃厚な香水の残り香が薫る。昨日、ギーゼラがつけていた香りだろう。
昨日の出来事は疲労による幻覚でもなんでもなく、現実だったということになる。
──はぁ……。
デーマルング家がわからない。
娘をきちんと愛しているのだろうか。
庶子であっても修道院に送るか、家臣に嫁がせれば、慎ましいとはいえ安定した暮らしを送ることができる。わざわざ異母妹の女官にしなくとも。これでは異母妹との身分差を明確に突きつけているようなものではないか。
──しかも昨夜は色仕掛けまで強制して。
デーマルング家の仲の良さを知らないヴァルターはギーゼラを本気で心配していた。
胸が締め付けられた。
──とはいえ、愛してはいけないひとを愛している……。
厭うべき忌まわしいデーマルング家の、しかも当主の娘。
姉の王妃の競合相手となりうる王太子妃の異母姉、しかも王太子妃の女官。
見かけた当初は少し好みの容姿だと思っていただけだ。真面目そうな顔立ちなのに艶めかしさを感じさせる長い黒髪。そのくらいだ。大したことはなかった。
次第に彼女を目で追うにつれて、興味が湧いてきた。
モルゲンロート家の基準で言えば異常なほど華美で子供っぽさが抜けない王太子妃を、内心はどうであれ懸命に補佐する姿。
当主の庶子で異母妹の女官であるというヴァルターなら屈辱的だと感じるような境遇でも一切卑屈になっていない前向きな性格。
機転も利く。賢い。受け答えや立ち居振る舞いも、王妃が抱えている無自覚な女官たちとは違う。
時たま見せる、聡明さを感じさせる控えめな笑顔。
彼女を見ているうちに、気がつけば愛してしまっていた。
デーマルング家の人間は人間ではないと思っていた。彼らの顔は一切認識したくもなかった。
認識すれば、父の鉄錆びた血の香りが脳裏に蘇ってきた。
しかし、ギーゼラは、──人間に見える。モルゲンロート家を危機に陥れる怪物ではない。普通の娘だ。
自分にも笑顔を向けてほしいと思うのは欲深いだろうか。敵同士だ。仕方がない。
モルゲンロート家とデーマルング家の因縁はツヴィーリヒト王国建国から続いているのだから。
ヴァルター自身も父を殺されたように、ギーゼラも伯父を殺された。
父を殺された母が、当時のデーマルング家当主、ギーゼラの伯父を秘密裏に殺したのだ。
ギーゼラの伯父が殺されなければ、ギーゼラの父であり今のデーマルング家当主のルドルフは当主にならず、彼女と彼女の母は幸福な生活をおくれたはず。
彼女を不幸にしているのは自分を含めたモルゲンロートの人間だ。
(……俺はギーゼラ殿を愛する資格がない……)
ヴァルターは溜め息をついた。
しかし、王太子妃主催の茶会以降、奇妙に関係が動いている気がする。
給仕された茶が奇妙に甘かった。何者かが毒を摂取させて殺そうとしていると察知すると、舌でうまく転がしてごく少量しか茶を飲まなかった。
結果的に毒は媚薬であったらしい。王太子妃の女官の誰かが誤って混入したのだろう。
媚薬に操られ、ギーゼラに秘めたる思いを吐露する羽目になった。
(告白してみるものなんだなあ……。ギーゼラ殿のお気に入りの場所も知れたし、顔を合わせる機会も増えた気がするし、こちらを非常に意識しているような素振りを見せるし、少しずつ距離が縮まっているような……)
何も知らない男は幸福である。
一旦帰って着替えるか、と上着を着ると、姉の王妃アウレリアが執務室に入ってきた。
本当に質素な姉だ。民の生活を慮り、同じドレスを着回し、派手な宝飾品を作らせることはない。今日も海老茶色の地味なドレスを着ている。しかし、絶世の美貌は隠せるものではなく華やいでいて美しい。
「ヴァルター、相談したいことが──、あら。顎が真っ赤だわ。怪我でもしたの?」
ヴァルターは微苦笑する。
「昨夜、ある女性に頭突きをされまして」
アウレリアは優雅にくすりと笑う。
「珍しいわね。女性と夜を共にするなんて。でも、女性は優しく扱わなければ駄目。彼女が怒るようなことでも言ってしまったのでしょう?」
「……最大限気を使ったつもりでしたが……」
「あなたは朴念仁なところがあるから。恋人が朴念仁だと女性は焦れてしまうわ。頭突きもやむを得ないわね」
(恋人……か。恋人……ではない気もするが、まあ恋人なのだろうか……)
口付けはしたしなあ、と恋愛面において異様なほどなまくらなヴァルターは思った。
言われっぱなしも嫌なので、ヴァルターは姉に言い返す。
「まあ、陛下の求婚に年単位で気づかなかった姉上の鈍感さよりは」
アウレリアは「まあ!」と頬を軽く染め、描かれたような眉を寄せた。
すぐに優雅に吹き出す。
「後で謝ったほうが良いわ。……そのご令嬢と結婚する気はないの?」
「結婚ですか……」
ヴァルターは切なげに目を伏せた。
彼女の名前を明かせば、おそらく姉は怒り狂うだろう。
「そのご令嬢とではなくとも、結婚はしなさいね。モルゲンロート家を断絶させる気?」
「……いえ」
ヴァルターは首を横に振る。婚姻はしなくてはならない。三十前後になって独身でいられるのは、ひとえに今でも共同で当主をしている母が壮健だからにほかならない。
その母ももういい年齢だ。そろそろ跡継ぎのことを考えなくてはならない。
(でも、少しギーゼラ殿のことを考えていたい……)
結婚のことを直視するのを避けるため、話題を変えることにした。
「そうだ姉上。最近、姉上の女官が下品すぎます。何人か辞職させましょう。デーマルング家の王太子妃に負けます」
アウレリアは紅い唇を尖らす。
「あら。あなた、少し変わったわね。そういう女官でも許容していなかった? ……わたくしも困っているの。別に手当を下げたわけでもないのに集まってくるのは低俗で下品な娘たちばかり。採用時にきちんと人品を見極めるためにしっかり何度か面接すべきなのかしらね。頼んでないのに王太子妃のスープにみみずを入れられた時には、わたくしの評判のほうが下がるわと胃がキリキリしたわ」
でも、それにしたって、と王妃アウレリアは憤然とした。
「……はぁ、あの王太子妃! ずっと子ども気分が抜けないのよね! まったく、何なのあの衣装! ごてごてごてごてあっちこっちにリボンつけてレースつけて……しかも絹! ああ! もったいない! 宝飾品だってあれ何!? 宝石何個つけてるのよっ! あーっ、王太子妃のつけてる衣装や宝石を売れば村一個買えてよッ!! デーマルング家はどういう教育をしてきたのかしら。あの家は本当に軽薄! 軽薄なのよ!! ……ディートハルトに悪い影響が及んだらどうするの……!? せっかく真面目で誠実、質素堅実な王太子なのに!」
王妃の美貌と威容に負けないようにとギーゼラたち王太子妃付きの女官がリーゼロッテを着飾らせていたことが、王妃の心象を酷く悪くしていた。
(ギーゼラ殿は軽薄ではないが、デーマルング家の人間は華やかなことが好きで軽薄な人間が本当に多い……)
ヴァルターは顎に手を当てる。
アウレリアは王太子妃の悪口をこれ以上口にしたくなかったのか、話題を戻した。
「あ、そうだ。もうすぐ花祭りだわ。あなたに頭突きしてきたそのご令嬢をご案内したら?」
「……っ」
初夏にツヴィーリヒト王国恒例の祭りがある。神を祭るため、地面に花びらを使って絵を描く。俗称を「花祭り」という。貴族から庶民まで祭りに参加して大変賑わう。もちろん恋人たちが仲を深めることもある。
(……ギーゼラ殿と俺の仲だったら、行ける……か? どうだろう。しかし口付けしたし……行けるだろうか。行けると思いたいが……)
この男、政治的には切れ者だが恋愛的には薄気味悪いほどなまくらだった。
「頑張ってみます」
「応援しているわ。その前に相談に乗って」
「はい。ご要件を」
「王太子付きの侍従か女官をひとり入れたいのよ。ディートハルト、わりと自分で何でもやれてしまうでしょう? でもどこか抜けているところもあるのよね。しっかりした補佐役が欲しいと言うか。誰かいい人を見繕いたいと思って」
ギーゼラから見れば冷たく共謀してリーゼロッテを貶める姉弟だと思われている二人だが、このように大変仲の良い姉弟である。




