第7話 貴女がこんなことをなさる必要はない
(天国のお母様。お父様。エリーザベトお母様。リーゼロッテ様。……申し訳ございません。私は……皆様が大切にしてくださった私の身体を、穢してしまいます。お嫁に行けない身体となります……!)
リーゼロッテが王妃との晩餐で屈辱を受けた翌日の深夜。
自分に与えられた部屋の姿見の前で、ギーゼラは深呼吸した。
高級女官には自分のための部屋が与えられている。ギーゼラも例外ではない。特にデーマルング家当主の令嬢であるギーゼラは丁重に扱われ、リーゼロッテの部屋と近い場所に部屋が与えられていた。
故に、リーゼロッテに何も察されずに事を済ますことができる。
姿見に映るのは夜なのに完璧に化粧をした自分の顔。少し透けている薄絹のシュミーズに覆われた自分の肉体。
リーゼロッテのように華奢で愛らしくもなければ王妃のように蠱惑的でもない体型で、なおかつ二人のように人目を引く美貌でもない。
男性を誘惑するなどおこがましいのは重々承知している。
(でも、やるしかない……!)
扇情的な濃密で甘い香りの香水を付ける。
媚薬を用意する。ヴァルターが発情しなかった時のために一服盛る。
黒い髪には、いつか役に立つのではないかと思って購入していた遠い東の国からの輸入品である「かんざし」という切っ先の鋭い髪飾りを挿す。
それでも死ななかった時のために毒薬も用意した。媚薬を飲ませて正体を失わせてから毒薬を盛れば抵抗されることはあるまい。
不本意だが、何か追及された時には「モルゲンロート公爵に夜呼ばれていて、部屋に入ったらこの有り様だった」と哀れに憲兵や近衛兵に泣きつけば良い。
ヴァルターがおかしな求愛行動をギーゼラにしていた以上、説得力はあるだろう。
ギーゼラは怒りのあまり冷静さを欠いて「第一発見者ほど疑われる」ということをすっかり忘れていた。
夜まで灯りのついているヴァルターの執務室へ早足で向かう。
ちょうどヴァルターは書類を片付け終えて帰宅しようとしているところだった。
(思った通りまだ働いてたのか。上司が働きすぎると部下が過労死するんだよ! 愚か者!)
憤怒をおくびにも出さず、優雅かつ軽やかにギーゼラは執務室の中に入った。
ヴァルターは背中を向けている。
にやりと笑い、ギーゼラは後ろから抱きついた。さほど豊満とは言えない胸を彼の背中に押し付ける。
ヴァルターは眉根を寄せながら急いで振り向く。刹那、シュミーズしか着ていないギーゼラの姿をみて茫然とした。
(男は女がシュミーズ着て後ろから抱きつけば大抵喜ぶって、乳母が言ってた)
誰に恋をしたことも無ければ交際したこともないギーゼラは乳母のいうことを鵜呑みにしていた。
ヴァルターがゆっくりとギーゼラに向かい合った。
「……ギーゼラ殿……?」
ふふ、と微笑んでやる。
「公爵殿下、先日はお助け頂きありがとうございました」
驚きのあまり瞬きをするヴァルターの顔を両手でゆっくりと挟んだ。
背伸びをして彼の唇に唇を重ねる。
ついばむような口付けを施すと、彼の瞳が正体を失っていく。
ギーゼラは深く抱きしめられた。
(うわっ! ちょろい! ちょろすぎる!!)
あはははは、と内心で高笑いして身体をそっと離す。ヴァルターの手を取って、執務室に設置してある粗末な寝台にいざなった。
ヴァルターは茫然と、いや恍惚としてギーゼラの思うがままになっている。
二人で寝台の上に倒れた。
彼は息を荒げ、夢中でギーゼラの唇を貪っている。
(今だ! 初めての口付けを捧げただけで殺れそうだわ!!)
ギーゼラは誰とも交際したことがなかったので、家族以外との口付けも未経験だった。初めての口付けを憎き怨敵の男に捧げるあたり、リーゼロッテへの忠誠心の高さが窺える。
そっと髪からかんざしを抜き、ヴァルターの首筋にぶっ刺そうとしたその瞬間、異変が起きた。
強く肩を押さえられ、身体を離されたのだ。
「……っ、俺は幻覚を見ている! 仕事のしすぎだ!!」
ヴァルターが急いで寝台から離れた。
「顔を洗おう。今日の俺はおかしい。一刻も早く帰って休もう」
「……」
あてが外れたギーゼラはのっそりと起き上がり、ヴァルターの袖をきつく掴んだ。
「……違う、そうじゃない……」
「え?」
ヴァルターはまじまじとギーゼラを見る。
「ギーゼラ……殿!?」
彼は透けた薄絹のシュミーズを着ているギーゼラの姿を見つめてきた。欲情とは程遠い痛ましげな眼差しを感じる。
(……何)
彼は深く溜め息を吐いた。先程まで着ようとしていた自身の上着をギーゼラの上に羽織らせた。
彼女の横に座る。
「温かいものでもご用意しようか? お風邪を召される」
「……いりません。風邪を引くなどもとより覚悟の上」
(だからさっさと私を抱いて死ね!)
ギーゼラはキッとヴァルターを睨む。
ヴァルターは自責するように頭を抱えた。
「申し訳ない。……浅慮により無礼を働いた」
ギーゼラはヴァルターの背中にしなだれかかり、肩にそっと手を這わせた。
彼は固まる。
「無礼と思われるなら、一夜のお情けを」
「……」
「ヴァルター様」
ごくり、と彼の喉仏が動いた。
ヴァルターの肩を撫で続けるギーゼラの手を押さえると、指先をそっと優しく撫でてきた。
「……ギーゼラ殿。貴女がこんなことをなさる必要はない」
「……は?」
「おおかた誰かに命じられてここに来られたのだろう?」
「いえ、自分の意志で」
「そうだろうか。手がひどく冷たい」
びくりとする。確かに初めてのことで緊張していたし、怖かった。
ヴァルターは振り向いてギーゼラの頭を優しく撫でた。
「安心してほしい。私は何もしない」
(何かされないと困るんだけど!!!)
ギーゼラは苛々した。
深い溜め息をまたヴァルターが吐いた。
氷のように冷たく怒気を帯びた声が響く。
「ギーゼラ殿を使って色仕掛けで私の弱みを掴もうとするなど──、知略に優れたデーマルング公の命なのか? それともまさか王太子妃? ああ見えて悪辣だ」
ぴくっ、とギーゼラのこめかみが震える。
(あん……? リーゼロッテ様が悪辣ですって!?)
「死ね!」
ギーゼラはヴァルターの顎に向かって思いっきり頭突きした。
「……な!!!」
ヴァルターは顎を押さえたまま意識を失い、寝台の上に倒れ込んだ。
しゃらん、とかんざしが寝台から落ちた。
「あ、これ使えばよかった……。まあいいか」
ギーゼラはかんざしを髪に差す。使う予定だった毒薬と媚薬を回収し、ヴァルターの上着を脱ぎ捨てるとその場を立ち去った。
息を潜めて廊下を歩いていると、王妃の女官たちがカードゲームをしているのを見かけた。
「ねえ、リーゼロッテのあの無様な様子! 本当に面白かったんだけど!!」
「給仕役の侍従を脅してワインぶちまけさせた甲斐があったわよね」
「ミミズを庭師に取らせるのも大変だったんだから〜! 本当に気持ち悪いし〜」
「モルゲンロート家万歳!」
ギーゼラはその瞬間、地面に崩れ落ちそうになった。
柱に捕まり、懸命に自分を支える。
つまり、ヴァルターは無実。決死の色仕掛けは無駄。
自分はいたずらに男に穢されかけただけ。
王妃の女官たちの醜悪さにも吐き気がする。
自分たちより遥かに身分の高いリーゼロッテを呼び捨てにし、カードゲームをしながら面白おかしく彼女へのいびりについて語るなど、人間とは到底思えない。
(……この女官たちども……まとめて火あぶりにしてやる……。火あぶりにしてやるからな!! ついでにモルゲンロート家も滅べ!!)
目を大きく見開いた。瞳孔も広がっていく。
ひどく震えながら自分の寝室へとギーゼラは帰っていった。




