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第九十八話 借りものの力

 白い。


 どこまでも、白かった。


「……え?」


 エルネは目を開いた。


 空がない。


 地面もない。


 それでも、自分は立っている。


 周囲には、無数の文字が流れていた。


 数字。


 魔法式。


 見たこともない図形。


 意味の分からない文字列。


 その一つへ手を伸ばす。


 指先が、すり抜けた。


「ここどこ!?」


「万象解体書の内部です」


「え?」


 エルネは振り返った。


 少し離れた場所。


 一人の女性が立っている。


 長い髪。


 整った顔立ち。


 派手さはなく、どこか理知的。


 姿勢は真っ直ぐで、表情も薄い。


 見たことがない。


「あなた、誰!?」


「現在のあなたは精神体です」


「質問に答えて!」


「あなたがこちらへ来ることは予測できましたので、会話を円滑に行うためアストラルボディを用意しました」


「だから誰なの!?」


「私です」


「誰!?」


「ロゴスです」


「……」


 エルネは固まった。


 声。


 聞き慣れている。


「その声……」


「はい」


「先生!?」


「はい」


「ええええええっ!?」


 思わず後ずさった。


「先生、女の人だったの!?」


「私は生物ではありません。性別はありません」


「じゃあなんで女の人なの!?」


「あなたが対面した際、会話しやすいと推定した外見です」


「勝手に決めないでよ!」


「不適切でしたか?」


「そういう問題じゃ――」


 そこで。


 エルネは、はっとする。


「外!」


「はい」


「外、どうなってるの!?」


 ロゴスの横。


 白い空間に、大きな像が浮かび上がった。


 荒れ狂う海。


 巨大な海獣。


 白い杖を持つ老人。


 そして。


 空中に浮かぶ――自分。


「……私?」


「あなたの肉体です」


「なんで私がそこにいて、私がここにいるの?」


「現在、万象解体書があなたの身体制御を行っています」


「身体取られてるの!?」


「簡潔に表現すれば」


「返して!」


「制御権の奪還を試みています」


「早く!」


「最大限、努力しています」


「もっと早く!」


「要求内容が重複しています」


「先生!」


     ◇


 エルネ・フィルが右手を上げた。


 その傍ら。


 万象解体書が開かれている。


<<魔王種、捕捉>>


<<戦闘行動を継続>>


 炎。


 巨大な火球が生まれ、白杖の老人へ飛ぶ。


 老人が杖を横へ払った。


 海水が持ち上がり、炎を呑む。


 消えるより早く。


 次。


 水弾。


 さらに地面が割れ、岩塊が空へ飛び上がる。


 風がそれを押し出した。


 四大属性。


 学院で教わる、ごくありふれた魔法。


 ただし。


 一つ一つの規模がおかしい。


「……なんなのよ、あれ」


 箒に跨がったミレナが呟いた。


 エルネは止まらない。


「風歩《エア・ステップ》」


 足元で風が爆ぜた。


 身体が消える。


 次の瞬間には、老人の側面。


「緋鎖火《レッドチェイン》」


 赤い炎が連なり、巨大な鎖となって海獣の首へ伸びる。


 白杖が僅かに動く。


 波が立ち上がり、火鎖を押し潰した。


「流麗水帯《アクア・リボン》」


 今度は水。


 老人自身が生み出した海水が帯となって巻き上がり、複数方向から襲いかかる。


「我が前で、水を使うか」


 老人の声。


 ただ、それだけ。


 水帯が崩れ落ちた。


 エルネの口は止まらない。


「風撃《ウインドショット》」


 圧縮された風弾。


「乱響風《ノイズ・ゲイル》」


 甲高い振動が空気を伝う。


 老人を取り巻く水の流れが、僅かに乱れた。


 そこへ光が収束する。


 眩い熱線が、水壁の一点を焼き抜く。


 開いた穴へ、炎が滑り込んだ。


 爆発。


 蒸気が空を覆う。


 その向こう。


「熾火《エンバー》」


 散った火が消えない。


 海獣の鱗。


 飛び散った水。


 周囲の岩。


 触れた場所に、小さな火種が次々と残される。


 一斉に。


 爆ぜた。


 轟音。


 蒸気がさらに膨れ上がる。


 その中へ。


「鳴風《ソニック・レゾナンス》」


 風を伝った振動が入り込む。


 巨大な水塊の内部が揺れた。


 形が崩れる。


 それでも。


 白杖の老人は。


 まだ海獣の背から一歩も動いていない。


「……ほう」


 初めて。


 僅かに目を細めた。


     ◇


「待って待って待って!」


 エルネは外の映像へ詰め寄った。


「今の全部!」


「はい」


「私が見たことある魔法だよね!?」


「はい」


「なんで使えるの!?」


「万象解体書が、あなたを介して取得した術式情報を再構築しています」


「見ただけのもあるんだけど!」


「直接受けたものもあります」


「もっと嫌!」


 外では、まだ戦闘が続いている。


「つまり……」


 エルネは次々と切り替わる魔法を見る。


「私が今まで見たり、受けたりした魔法を、全部引っ張り出してる?」


「正確には、再構築可能なものを選択しています」


「そういう意味じゃなくて!」


 そして。


 外の景色が歪んだ。


「あ」


     ◇


「迷界錯覚《ロスト・センス》」


 エルネを中心に領域が広がった。


 距離がずれる。


 位置が揺らぐ。


 魔力の所在が曖昧になる。


 ノアの術。


 領域が老人へ届く。


 その瞬間。


 ばきん。


「……」


 老人の周囲だけが変わらない。


 歪みが避けるように凹んだ。


<<干渉失敗>>


 さらに。


 ばきっ。


 領域そのものが弾け飛んだ。


 景色が元へ戻る。


「……弾いた?」


 フェリクスが呟く。


 老人がエルネを見た。


「他者の知恵をいかに集めようと」


 白杖が持ち上がる。


「人の術よ」


 海が鳴った。


 空一面に、無数の水槍が生まれる。


「さて」


 フェリクスが顔を引きつらせた。


「あれは避けられるのかな」


 水槍が一斉に放たれる。


<<回避経路不足>>


 その瞬間。


 ミレナの箒が激しく跳ねた。


「……え?」


「ちょっと!」


 柄が大きく振れる。


 ミレナの身体を振り落とした。


「はぁ!?」


 箒は一直線にエルネのもとへ飛ぶ。


 エルネの足元へ滑り込む。


 そのまま。


 エルネは柄の上へ立った。


「私のなんだけど!」


 返事はない。


 箒が加速する。


 落ちる。


 横へ飛ぶ。


 今度は真上。


 上下という感覚そのものを無視したような軌道で、水槍の間を抜けていく。


「……あんな使い方、できるの?」


 ミレナが呆然と見上げた。


 だが。


 水槍は多い。


 老人が杖を振るたび、さらに増える。


「うわ」


 フェリクスが胸元を押さえた。


 銀色の懐中時計が震えている。


「まさか」


 懐中時計が勝手に飛び出した。


「あっ、待って待って待って!」


 一直線にエルネへ。


「それは駄目!」


 エルネの手に収まる。


「本当に人の話を聞かないな!」


 親指が。


 竜頭へ乗った。


 カチッ。


 巨大な球状の空間が現れた。


 一瞬だけ。


 エルネを中心として。


 水槍を。


 飛沫を。


 森を。


 大地を。


 その一帯すべてを包み込む、巨大な球体。


 輪郭に眩い光が走った。


 空まで白く染まる。


 そして。


 消えた。


 水槍の速度が落ちる。


 落下していた水滴が、空中でもたついた。


 折れかけていた木の枝が止まり。


 飛んでいた岩片が勢いを失う。


 海面の流れさえ。


 一部分だけ、死んだように鈍くなった。


 代わりに。


 エルネが消えた。


「……速っ」


 遥か上空。


 すでにそこにいる。


     ◇


「今の何!?」


 エルネは外の像へ顔を近づけた。


「あの時計だよね!?」


「はい」


「瞬間移動した?」


「否定します」


 ロゴスの前を数値が流れる。


「周囲の運動を減衰させています」


「運動?」


「飛来物。風。流水。落下物。対象範囲内で発生している巨視的運動を奪い、使用者側へ移していると推定します」


「……つまり?」


「周囲を遅くし、その分だけ使用者が速くなる」


 エルネは外を見る。


 止まりかける水槍。


 その中をあり得ない速度で駆け抜ける自分。


「時間を止めてるわけじゃない?」


「時間干渉は確認できません」


「じゃあ、さっき見えた大きい丸は?」


「影響領域が可視化されたものと推定します」


「……めちゃくちゃ目立つね」


「はい」


「フェリクスさんが使いたくないって言ってた理由、分かったかも」


 そして外では。


 再び。


 カチッ。


     ◇


 球体。


 光。


 今度は箒までが異常な速度で跳ね上がる。


 エルネが白杖様の背後へ回る。


「風撃《ウインドショット》」


 至近距離。


 圧縮風弾。


 老人は振り返らない。


 海が勝手に持ち上がり、風を潰す。


 右。


 エルネが消える。


 左。


 また。


 箒の重力操作。


 懐中時計の加速。


 そこへ風歩まで重ねている。


 追える速さではない。


 なのに。


 白杖様は追わなかった。


「……」


 白杖を一度。


 地面へ向ける。


 海が持ち上がった。


 エルネの進路へ。


 さらに反対。


 上。


 下。


 追うのではなく。


 行ける場所を、海で埋める。


 エルネの進路が狭まった。


<<回避経路、減少>>


 老人が静かに言う。


「速きことと、逃げ場があることは同じではない」


     ◇


 その頃。


 街では、人々が逃げ惑っていた。


「押さないでください!」


 シオンの声が飛ぶ。


「荷物は捨てて! 子どもと歩けない方を先に!」


 通りには人が溢れている。


 馬車は立ち往生。


 遠くでは海が空へ舞い上がり、何かが激突するたびに大地が揺れた。


 シオンは街の外を見る。


 最寄りの扉。


 ここからの距離。


 人の数。


「……とてもじゃないが、間に合いませんね」


 迷わなかった。


 通信具を取り出す。


「聞こえますか」


『なーに?』


「このままでは、多くの無辜の民が巻き添えをくらいます」


 シオンは空を見る。


 白杖を持つ老人。


 そして。


 その前で戦うエルネ。


「どうか、ご慈悲を」


『……』


「魔王の力に抗うには、あまりにも人間は無力なのです」


 通信の向こうで。


 女が大きく息を吐いた。


『あのジジイ、無茶苦茶するわね』


 少し間。


『しょーがない』


 すぐに、いつもの軽い調子へ戻る。


『優しく寛大でシゴデキなあーしの加護を授けてあげる』


「感謝いたします」


『ちゃんと恩に着てよ、ワンちゃん』


「もちろんです」


 通信が切れた。


 直後。


 街の上空に、金色の光が広がる。


「……?」


 逃げていた人々が足を止めた。


 巨大な紋様。


 そこから光が降り注ぐ。


 一つ。


 また一つ。


 街の至るところ。


 何もなかった空間へ、扉が現れる。


 扉の向こうには。


 ここではない場所。


「……相変わらず、規模がおかしいですね」


 シオンが小さく笑った。


 すぐに声を張る。


「皆さん! 近くの扉へ!」


「押さないで! 順番に!」


 人々が扉へ吸い込まれていく。


 一人。


 また一人。


 老人。


 子ども。


 足を痛めた者には肩を貸す。


 泣き叫ぶ者には、いつもの穏やかな笑みを向ける。


「大丈夫です。向こうへ行けば安全です」


 やがて。


 最後の一人が扉を潜った。


 街から、人の声が消える。


「……」


 シオンも扉へ向かう。


 その直前。


 足を止めた。


 振り返る。


 遠く。


 空を飛び回る少女。


 見慣れた姿。


 学院で。


 生徒会で。


 何度も見てきた。


 仕事を頼めば困った顔をして。


 それでも結局、引き受けていた少女。


 今は。


 魔王を相手に。


 人間のものとは思えない魔力を振るっている。


「……君は変わってしまったのか」


 シオンが小さく呟いた。


「それとも、最初からこうなる運命だったのか」


 蒼い光が空を走る。


 シオンは、少しだけ名残惜しそうに目を細めた。


「エルネ」


 いつもの穏やかな声だった。


「次に会う時を楽しみにしているよ」


 扉へ一歩。


 最後にもう一度、少女を見る。


「その時、僕の手で片を付けることになるのか――」


 笑う。


「そうならないよう、祈るばかりだね」


 扉が閉じた。


 シオンの姿も消えた。


     ◇


 カチッ。


 球体が浮かぶ。


 消える。


 エルネが海面すれすれを飛ぶ。


 箒が急上昇。


 懐中時計が再び光る。


 無数の魔法を。


 二つのレリックを。


 万象解体書は、一切の迷いなく使い続ける。


 だが。


 白杖様は崩れない。


 老人が白杖を掲げた。


 海が動く。


 それまでとは桁が違った。


 空にあった水。


 地上へ溢れた水。


 津波。


 飛沫。


 すべてが一度、老人の周囲へ集まり――


 まとめて落ちた。


 箒が急旋回。


 カチッ。


 球体。


 エルネが逃れる。


 それでも。


 老人の目は変わらない。


「借り集めたものを、いかに重ねようと」


 白杖の先がエルネを向いた。


「所詮は、人より生まれし術よ」


 万象解体書の頁が猛烈な勢いで捲れる。


<<外部術式、効果不足>>


<<現有レリック、効果不足>>


<<戦術再構築>>


     ◇


「全然効いてないじゃん!」


 エルネが叫んだ。


「正確には、すべて対処されています」


「同じでしょ!」


 ロゴスは答えない。


 周囲を流れていた文字が、一斉に止まる。


「……先生?」


 万象解体書の表示が変わった。


<<外部術式群の使用を停止>>


「え?」


<<接続者固有術式を検索>>


 エルネの表情が変わる。


<<対象――エルネ・フィル>>


<<固有術式群、確認>>


<<出力上限を再設定>>


「……それって」


 ロゴスも。


 初めて、外の映像から視線を外した。


 エルネを見る。


「先生?」


 外界。


 箒の上。


 エルネの身体が、ゆっくりと右手を上げる。


 その指先へ。


 青白い光が集まり始めた。

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