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第九十九話 万象解体術

<<接続者固有術式を検索>>


<<対象――エルネ・フィル>>


<<固有術式群、確認>>


<<出力制限を再設定>>


 箒の上。


 エルネの身体が、ゆっくりと右手を上げた。


 指先へ。


 青白い光が集まる。


「蒼炎針《アズール・ニードル》」


 一つ。


 火が灯る。


 白杖様の眼前。


 次。


 肩口。


 足元。


 海獣の背。


 さらに。


 十。


 百。


 数えることすら意味を失うほどの青白い点が、一斉に生まれた。


 火を飛ばしたのではない。


 最初から。


 そこに燃焼条件を作った。


「……ぬ」


 白杖様が杖を横へ払う。


 直後。


 青白い炎が一斉に噴き上がった。


 海面が爆ぜる。


 水蒸気が空へ舞う。


 海獣が首を振った。


 だが。


 白杖様は動かない。


 膨れ上がった海水が炎を呑み込む。


「霧星糸《ミスト・ステラ》」


 今度は。


 海が光った。


 水中。


 海面。


 飛沫。


 水蒸気。


 あらゆる水を通り。


 無数の青白い糸が伸びていく。


     ◇


「……私の魔法」


 万象解体書の内部。


 エルネは外の光景を見つめていた。


「全部、私のだよね」


「はい」


 隣に立つロゴスが答える。


「でも」


 エルネが海を見る。


「こんな使い方、したことない」


「基本原理は同一です」


「海全部使ってるんだけど」


「使用可能な媒体が大量に存在しています」


「そういう問題!?」


 ロゴスは答えない。


 外では。


 青白い糸が、さらに広がっていく。


     ◇


「鏡結《ミラー・ノット》」


 糸が結ばれた。


 白杖様が操っていた水。


 海獣を包む海流。


 空中に残る飛沫。


 津波。


 それぞれの魔力経路が互いへ干渉し始める。


 押し寄せていた水壁が歪む。


 水槍同士がぶつかる。


 波と波が正面から衝突した。


 巨大な水柱が上がる。


 白杖様が目を細めた。


「己の水を、己に争わせるか」


 白杖を地面へ突く。


「戻れ」


 海が従った。


 霧星糸が千切れる。


 鏡結が崩れた。


<<術式破壊を確認>>


<<次術式>>


「虚圧弾《インプロージョン・ボルト》」


 海面が。


 消えた。


 いや。


 大きく凹んだ。


 周囲の水が一斉にそこへ吸い込まれる。


 巨大な圧力。


 内側へ。


 さらに内側へ。


 海獣の巨体ごと。


 白杖様を巻き込んだ。


 轟音。


 水そのものが破裂する。


 空へ巨大な水柱が立った。


「……」


 ミレナが。


 何も言わず見上げている。


 フェリクスも同じだった。


 先ほどまでの魔法とは違う。


 カーマでも。


 シュリでも。


 誰かから覚えたものでもない。


 これは。


 エルネ・フィル自身の魔法。


 水柱が崩れる。


 海獣が姿を現す。


 その背。


 白杖様は立っていた。


 ただ。


 衣の一部が裂れている。


 老人はそこへ視線を落とした。


 そして。


 ゆっくりとエルネを見る。


「……そうか」


 初めて。


 その口元が僅かに歪んだ。


「そなた自身は、こちらか」


     ◇


 白杖様が杖を掲げた。


「雨よ」


 空が暗くなった。


 ほんの数秒。


 それだけで。


 厚い雨雲が空を覆う。


 雨が降る。


 ただし。


 地面へは落ちなかった。


 一滴。


 また一滴。


 空中で軌道を変える。


 細く。


 鋭く。


 無数の雨粒が。


 刃になる。


「……うそ」


 内側のエルネが呟いた。


 次の瞬間。


 すべてが。


 エルネへ向かった。


 雨。


 ではない。


 空一面を埋め尽くす、無数の水の剣。


 エルネの親指が懐中時計へ乗る。


 カチッ。


 巨大な球状空間。


 光。


 迫っていた雨の勢いが鈍る。


 それでも止まらない。


「蒼炎針《アズール・ニードル》」


 目前。


 数えきれない雨粒へ。


 青白い火が一斉に灯った。


 爆発。


 水蒸気が膨れ上がる。


 白い蒸気が。


 何もかもを覆う。


 その中。


 箒が飛び出した。


 一直線。


 白杖様へ。


 エルネが迫る。


「空律鋏《シルフ・シザー》」


 半透明の鋏。


 緑の線。


 海獣へ伸びる魔力。


 白杖から海へ走る流れ。


 その中心を。


 断つ。


 しゃきん。


 白杖様の周囲に。


 球状の水が現れた。


 一瞬。


 完全な球体。


 老人と海獣の一部を包み込む、巨大な水の防壁。


 空律鋏が触れる。


 だが。


 切れない。


<<複数魔力経路>>


<<単一点切断、効果不足>>


 エルネの身体が右腕を引いた。


 青い炎。


 二本。


 交差する。


「蒼炎十字《アズール・クロス》」


 十字状の蒼炎が。


 水球へ叩き込まれた。


 蒸発。


 爆発。


 さらにその奥。


 交差した炎が、水の層を内側から裂く。


 球状のフィールドに。


 十字の亀裂。


 砕けた。


「……!」


 白杖様の目が見開かれる。


 エルネが。


 目の前まで迫った。


 だが。


 老人は退かない。


「海よ」


 海鳴り。


 大地が震えた。


 遠く。


 水平線が。


 高くなる。


「え……」


 エルネの精神が固まった。


 違う。


 水平線ではない。


 海だ。


 海そのものが。


 立ち上がっている。


 巨大な壁。


 山よりも高い。


 街。


 森。


 周囲一帯。


 何もかもを呑み込むほどの津波。


(待って)


 エルネが叫ぶ。


(あれ、街まで――!)


 返事はない。


 身体は。


 止まらない。


「先生!」


「観測しています」


「あれじゃ人が!」


「はい」


「止めないと!」


 外。


 箒が。


 大きく震えた。


<<重力干渉を拡張>>


 ミレナが目を見開く。


「……は?」


 箒を中心に。


 巨大な魔力場が広がった。


 押し寄せてくる津波。


 その全体へ。


 力がかかる。


 上へ。


 横へ。


 そして。


 互い違いに。


 巨大な水壁が。


 空中で引き裂かれた。


「な――」


 フェリクスが口を開いたまま固まる。


 津波が。


 ばらける。


 巨大な水塊は。


 無数の飛沫となり。


 空高く舞い上がった。


 そして。


 雨となる。


 ざああああああっ。


 街へ。


 森へ。


 大地へ。


 降り注ぐ。


 塩気を帯びた。


 ただの雨。


     ◇


「……止めた」


 エルネが呟いた。


「はい」


「そんなことまでできるの?」


「レリックの出力が通常使用時を大幅に上回っています」


「そうじゃなくて!」


 外。


 白杖様が。


 静かにエルネを見ていた。


 雨の中。


 老人の髪から。


 水が滴る。


「……始まりの魔導士」


 その声は。


 先ほどまでと違った。


「やはり、そなたは――」


 言葉を止める。


 白杖を。


 強く握った。


「ならば」


 老人の周囲から。


 圧力が生まれた。


 空気が。


 震える。


 海が。


 震える。


 大地が。


 震え始める。


「え」


 ミレナが後ずさった。


「何……?」


 フェリクスも。


 笑っていない。


 白杖様が。


 口を開く。


「水よ」


 その瞬間。


 世界から。


 音が消えた。


     ◇


「……?」


 エルネが周囲を見る。


 雨が。


 止まっている。


 空中で。


 一滴も落ちない。


 海も。


 止まった。


 波がない。


 水蒸気も。


 飛沫も。


 雲の中の水も。


 大地へ染み込んだ水も。


 ありとあらゆる場所から。


 何かが。


 白杖様へ向いている。


「先生」


 エルネが小さく呼ぶ。


「はい」


「これ……何?」


 ロゴスは。


 少しだけ返答に時間を使った。


「解析不能です」


「先生にも?」


「はい」


 外。


 白杖様の周囲。


 圧倒的な魔力。


 いや。


 それを魔力と呼んでいいのか。


 海そのものが。


 あの老人になろうとしている。


 そんな。


 錯覚。


<<魔王種出力、急上昇>>


<<危険域>>


<<現戦力による対応不能>>


 万象解体書が。


 勝手にページを捲る。


「……先生」


「確認しています」


<<代替手段を検索>>


<<検索>>


<<検索>>


 白杖様の周囲。


 空間が歪む。


 その存在だけで。


 海面が沈む。


 空が震える。


 遠くの山肌から。


 岩が崩れ落ちる。


 白杖様が。


 エルネへ杖を向けた。


「娘」


 声は。


 静かだった。


「ここまでだ」


 その言葉と同時。


 海が。


 動き出そうとした。


 雨が。


 動き出そうとした。


 世界中の水が。


 白杖様の呼びかけに応えようとした。


<<検索完了>>


 万象解体書のページが。


 止まった。


 白杖様が。


 その文字を見る。


 老人の表情が。


 変わった。


「……よせ」


     ◇


 書の内部。


 エルネの前。


 一つの文字列が浮かんでいる。


「何これ」


 ロゴスが。


 その表示を見る。


「……」


「先生?」


「エルネ」


「なに?」


「私から離れないでください」


「え?」


<<最終術式を選択>>


<<暫定権限を使用>>


 白い空間が揺れる。


「先生?」


「万象解体書が、さらに深い領域へ接続しようとしています」


「止められないの?」


「試みています」


<<接続深度上昇>>


 周囲の文字が。


 崩れ始める。


 白い空間へ。


 蒼い光が差し込む。


 外。


 白杖様が叫んだ。


「よせ!」


 初めて。


 声を荒らげた。


「それを開くな!」


<<術式確認>>


 海が。


 白杖様の周囲へ収束し始める。


 巨大な。


 巨大すぎる力。


 空。


 海。


 大地。


 そのすべてが。


 次の瞬間には。


 何かに巻き込まれる。


「先生!」


「エルネ!」


<<万象解体術>>


 エルネの身体が。


 両腕を広げた。


 蒼い光が。


 生まれた。


 最初は。


 小さな光。


 黒い本の上。


 それだけ。


 だが。


 一瞬後。


 海が。


 蒼く染まった。


 空が。


 蒼く染まった。


 大地が。


 蒼く染まった。


 どこまで広がったのか。


 分からない。


 海の向こう。


 山の向こう。


 大陸の向こう。


 さらに。


 その先まで。


 世界が。


 蒼い光に包まれた。


 少なくとも。


 エルネとロゴスには。


 そう見えた。


 そして――


 そこで。


 二人の記憶は途切れた。

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