第百話 一年後
あれから、一年。
後に《北方大災害》と呼ばれることになる、あの日から。
世界は様変わりした。
◇
「北方からの船は?」
「今月に入って二隻です。確認できた生存者は百七十二名」
リシアが地図に印をつけた。
「いずれも同じ港から出航しています。他の沿岸都市については、まだ確認が取れていません」
「第四調査隊は?」
「戻っていません」
「第五隊は止めて」
セレフィナは地図から目を離さず言った。
「経路を変える?」
「それも含めて再検討します」
「お願い」
北方大陸。
一年前まで存在していた地図は、もうあまり役に立たない。
沿岸部の水没。
消えた集落。
場所によっては海岸線そのものが変わったという。
生存者の話も一致しない。
海が空へ持ち上がった。
大地が割れた。
白い杖を持った老人がいた。
巨大な獣がいた。
黒髪の少女を見た。
どれも確証はない。
ただ一つ。
北方大陸が壊滅的な被害を受けた。
それだけは疑いようがなかった。
「中央諸国は?」
今度はカレンが資料を差し出す。
「オルディスが国境の通行制限をさらに強化。北西二国も食料と魔石の輸出を停止しました」
「また……」
「こちらも似たようなものです」
「分かってるわ」
他国を責められる状態ではない。
魔獣対策。
難民。
食料。
軍備。
どの国も自分のところで精一杯だった。
一年前なら、学院同士で対抗戦を行っていた。
国を越えて商人が行き来し、使者が往復していた。
今では友好国との往来ですら難しい。
同盟の名だけは残っている。
それだけだった。
「西は?」
「軍備を増強しています」
カレンが答えた。
「国境付近への兵力移動も確認。ただ、目的までは」
「分からない?」
「はい」
「……嫌ね」
西方は比較的被害が小さい。
余力がある。
それを自国の守りに使うのか。
別のことに使うのか。
今のところ、判断できない。
「南方については」
リシアが資料を入れ替えた。
「難民の流入が続いています。それにもかかわらず、大きな混乱は確認されていません」
「前にも聞いたわ」
「はい。食料、住居ともに、どうやって確保しているのか不明です」
「結界の話は?」
「複数の証言があります。大規模な魔獣群を防いだ巨大な防護結界。それから、突然現れる扉」
「《猟犬》は?」
カレンが答える。
「活動を続けています。南方を中心に、教団関係者と見られる者が襲撃されています」
「誰が動かしているかは?」
「分かっていません」
「目的も?」
「教団を狙っている。それ以上は」
セレフィナは小さく息を吐いた。
分からないことが増えた。
◇
東方では魔獣の活動が急激に増えている。
元々、人間より魔獣の方が多いとさえ言われる魔大陸。
そこから何かに追われるように、魔獣が動き始めた。
数十ではない。
数百。
大きいものでは数千。
異なる種類の魔獣までが群れ、人里へ押し寄せる。
《スタンピード》。
この一年で、すっかり聞き慣れた言葉になった。
「王国東部だけで、今月に入って六件です」
カレンが言った。
「まだ九日よ」
「はい」
「討伐隊は?」
「交代で回しています。ただ、疲労がかなり溜まっています」
「増員は」
「これ以上は王都と国境の守りが薄くなります」
「……そうよね」
人手が足りない。
どこも同じだった。
学院でも、この一年で訓練内容は大きく変わった。
対魔獣を想定した集団戦。
防御術式の連携。
撤退時の殿。
負傷者の搬送。
学生であっても、実戦を想定した訓練を受けるようになった。
そして実際に。
その訓練だけでは済まなかった者も多い。
◇
「次が教団です」
リシアの声に、セレフィナは顔を上げた。
机に並べられた名前を見る。
「また増えた?」
「はい」
地方行政官。
軍人。
商人。
魔術師。
王都の役人。
中には、それなりの地位にいた者もいる。
「全員、消えたのね」
「確認できる範囲では」
北方大災害の直後から。
各地で教団との関係が疑われる人間が、次々と姿を消した。
職も。
地位も。
長年築いた信用まで放り出して。
自分から消えた。
「行き先は?」
「まだ分かりません。ただ、各国から消えた者たちが、どこかへ集まっている可能性があります」
「一か所?」
「その可能性が高い、という程度です」
「場所は」
「不明です」
セレフィナは名簿を見た。
「……なんで、こんなところにまでいるのよ」
国の中枢。
軍。
大商会。
学院。
知らないうちに、随分深く入り込まれていた。
抜けた後の影響も大きい。
指揮官が消えて軍が混乱した地域。
複数の行政官が突然いなくなった街。
物流を担う商人が抜け、物資が届かなくなった地方もある。
「軍内部から再調査を求める声もあります」
カレンが言う。
「一斉調査?」
「はい」
「却下」
「私も反対です」
「今それを始めたら、全員が全員を疑うことになる」
どこへ行ったのか。
何を始めようとしているのか。
それはまだ分からない。
◇
セレフィナ・エル・リュゼリア。
今では、その名で呼ばれることにも慣れた。
一年前。
国の中から次々と人が消えていく混乱の中で。
セレスティア・ロウ・アステリアは学院から姿を消した。
ほぼ同じ頃。
これまで表へ出ることの少なかった第一王女セレフィナが、王宮へ戻った。
初めの頃は。
「あの、殿下……以前と、お顔が……」
侍女から、そんなことを言われたこともある。
衛兵にも似たような顔をされた。
セレフィナは。
にっこり笑った。
「何か?」
「……いえ」
それで終わった。
父王が認めている。
兄も認めている。
国中が混乱している最中に、それ以上追及する者はいなかった。
そして。
影に隠れがちだった王女を、表へ引っ張り出したのはアレクシスだった。
大臣にも。
軍にも。
宮廷魔術師団にも。
妹を使え、と何度も掛け合った。
あくまで。
王子を補佐し、国を支えるため。
その名目は今も変わっていない。
◇
「しかし」
アレクシスが名簿を眺めながら言った。
「お前が率いる独立部隊。いくら国の守りを残すとはいえ、全員若すぎないか?」
「そう?」
「そうだろ」
セレフィナは改めて名簿を見る。
カレン。
リシア。
マルク。
ルシアン。
ミュゼ。
ガイウス。
マリエル。
確かに。
若い。
「この一年、望まぬ実戦を繰り返して、みんな顔つきが変わったわ」
セレフィナは言った。
「もう学生とは言っていられない」
学院長も何も言わない。
「私自身、もっと強くなれるとは思わなかったしね」
「国としては、少し思うところがあるがな……」
アレクシスがぼそりと言った。
「何よ」
「学生まで実戦に出さざるを得なかったってことだ」
「……それはそうね」
短い沈黙。
セレフィナは別の資料を手に取った。
「禁書庫も、もう協力を惜しんでいられないって」
「協力?」
「持ち出し許可ぎりぎりの魔法具を貸し出してくれてるわ」
アレクシスが呆れた顔をする。
「嫌がる番人どもから奪っていったのはお前だろ」
「そうだったかしら」
「そうだよ」
学院長がため息をついた。
「私は止めたぞ」
「最終的には貸してくださったでしょう?」
「お前が返すまで扉の前から動かないと言ったからだ」
「結果は同じね」
「違う」
リシアが何も言わず資料へ目を落とす。
カレンも口を挟まなかった。
「それで」
アレクシスが名簿を置く。
「人数は?」
「十人前後」
「本当に少数だな」
「大多数は国の守りに残すわ」
王都。
国境。
地方都市。
いつ、どこでスタンピードが起きるか分からない。
「大人数で動かすなら軍でいい。私が欲しいのは、軍がすぐに動けないところへ出られる人間」
「なるほどな」
「副官はカレンとリシア」
二人が軽く頷く。
「隊員は、マルク、ルシアン、ミュゼ、ガイウス」
セレフィナが指を滑らせる。
「それと、マリエル」
「マリエル?」
「索敵担当」
リシアが補足する。
「広域探知と魔力痕跡の追跡能力は、この一年でかなり伸びています」
「戦闘力だけで選んでるわけじゃないのか」
「当たり前でしょう」
セレフィナは一枚の学院記録を取り出した。
エルネ・フィル。
「この子を探すなら、なおさら必要よ」
アレクシスの表情が少し変わる。
「セレフィナ」
「何?」
「エルネが消えてから、もう一年以上経つぞ」
「知ってる」
「北方大災害以降、確かな目撃情報は一つもない」
「うん」
「生きている保証もない」
セレフィナは紙を机へ戻した。
「死んだと確認した人は?」
「いない」
「なら探すわ」
「……そう言うと思った」
「そうでしょうね」
残りの候補者は三人。
学院の新入生。
若手の宮廷魔術師。
学院へ通ったことのない冒険者。
「この三人は?」
アレクシスが聞く。
「まだ候補」
「強さは?」
「それぞれ十分」
「なら何を見る」
「一緒に動けるか」
その時。
廊下を走る音がした。
扉が開く。
「殿下!」
兵士が飛び込んでくる。
「北東監視塔より緊急報告! 魔獣の大規模移動を確認!」
カレンが立ち上がった。
「規模は」
「現在確認できているだけで千を超えています! さらに増加中!」
「進路は」
「王都方面です!」
アレクシスも立ち上がる。
「北東守備隊を動かす。王都からも――」
「兄様」
「何だ」
「守備隊は残して」
アレクシスが眉を寄せた。
「ならどうする」
セレフィナは名簿を閉じた。
「候補者にも声をかけて」
「まさか」
カレンがすでに外套を手にしている。
リシアも資料をまとめ始めた。
セレフィナは立ち上がった。
「私が打って出る」




