第九十七話 魔王種、観測
通信が切れた。
女はしばらく、手の中の魔導具を眺めていた。
「……ったく」
さっきまでより、明らかに機嫌が悪い。
そのまま長椅子へ身体を投げ出そうとして――
「げっ」
途中で止まった。
女は身体を起こす。
遠く。
ここからでは見えるはずもない場所へ、視線を向けた。
「あのジジイまで出てきちゃった……」
口元が僅かに引きつる。
先ほどの苛立ちとは、また違う。
「ワンちゃんには荷が重いかも」
もう一度寝転がろうとして。
やめた。
「……ま、いっか」
頬杖をつき、薄く笑う。
「どうなるか、見せてもらお」
◇
津波が迫っていた。
「逃げろ!」
「水だ! 水が来るぞ!」
「早く! 早くしろ!」
街はすでに混乱していた。
人々が家から飛び出し、馬車が街道を塞ぐ。
転んだ子どもを抱き上げる者。
荷物を捨てて走る者。
何が起きているのか分からず、その場に立ち尽くしている者もいる。
そのすべてへ。
巨大な水の壁が近づいてくる。
「いやいやいや、どうするんだこれ!」
フェリクスが懐中時計を握ったまま叫んだ。
「私に聞かないでください!」
「誰かには聞きたいだろ!」
「知りませんよ!」
そんなやり取りをしながらも、エルネの目は津波の上から離れなかった。
あそこに。
誰かがいる。
長い首を持つ巨大な海獣。
その背に立つ老人。
手には、白い杖。
「……」
どこかで見た。
そんな気がした。
(どこだっけ……)
学院ではない。
教団でもない。
もっと前。
もっと穏やかな時。
「あ……」
思い出した。
湖畔の町。
マリーに町を案内してもらった時だった。
小さな祠。
そこに祀られていた像。
白い杖を手にした、老人の姿。
「……白杖様?」
口から、名前が漏れた。
そうだ。
確かそう呼ばれていた。
湖や海。
水に関わる古い信仰。
そして。
もう一つの呼び名。
海の――
「その名で我を呼ぶ者も、久しく見なんだ」
「え?」
声がした。
低く。
深く。
老人は遥か遠くにいる。
それなのに。
声だけは、まるですぐ目の前から響いてくる。
フェリクスが口を閉じた。
上空のミレナも。
ただ、老人を見ている。
「え……本当に白杖様なの?」
老人の顔が、こちらへ向いた。
「娘」
「は、はい!」
「その書を、我に渡せ」
「この本が、なんなんですか!?」
エルネは万象解体書を抱き締めた。
老人はすぐには答えない。
白杖を手に。
迫る大波の上に立ったまま、エルネを見下ろしている。
「これ以上、世の理を乱させる訳にはいかぬ」
「この世の……ことわり?」
「先ほど、汝は触れた」
低い声が響く。
「人の身にて、触れるべきではないものにな」
エルネの胸が跳ねる。
(重力を切った魔法のこと?)
『世界の法則そのものへ干渉したことを指していると思われます』
「レリックもまた同じ」
老人の視線が動いた。
ミレナ。
そしてフェリクス。
「重力を歪め、空間を踏み越え、時を侵し、因果に手を掛ける」
白杖が静かに上がる。
「人の子が弄ぶには、大きすぎる力よ」
「遊んでなんか――」
「知らぬまま振るうことも、弄ぶことと変わらぬ」
「……」
反論できなかった。
怒っているようには見えない。
責めているようにも。
ただ。
とうの昔に同じ光景を見て、その結末まで知っている。
そんな声だった。
「この本……渡さなきゃダメってことですか?」
エルネは恐る恐る尋ねた。
「まだ、人の世を終わらせたくはあるまい」
老人の言葉に。
エルネは街を見る。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
その向こうに迫る水壁。
「渡したら……退いてくれます?」
「約そう」
迷いのない返答だった。
「その書を我に託せ。されば海は退く」
エルネは腕の中の本へ目を落とした。
分からない。
この本が何なのか。
教団が正しいのか。
白杖様が正しいのか。
何も分からない。
でも。
街の人たちには関係がない。
「……じゃあ」
本を差し出そうとした。
――その瞬間だった。
甲高い音が鳴り響いた。
「え?」
万象解体書が震える。
一度ではない。
激しく。
エルネの腕の中で暴れるように。
表紙を蒼い光が走った。
<<警告>>
<<警告>>
<<警告>>
「な、なに?」
頁が勝手に開く。
<<異常存在、観測>>
<<照合>>
<<照合完了>>
<<魔王種、観測>>
「魔王……?」
<<魔王種、接近>>
<<危険域侵入>>
<<警告>>
<<警告>>
<<即時対応せよ>>
<<即時対応せよ>>
<<即時対応せよ>>
「ちょ、ちょっと待って!」
エルネが本を押さえようとする。
<<接続者、応答せよ>>
<<エルネ・フィル>>
<<応答せよ>>
<<戦闘準備を要求>>
<<即時対応せよ>>
「何なの!?」
万象解体書がエルネの腕から飛び出した。
「また勝手に!」
蒼い光が噴き出す。
地面を走る。
街道を越え。
森へ。
空へ。
辺り一帯へ、膨大な魔力が放出され始めた。
木々が大きく揺れる。
街道の石が跳ねる。
ミレナの箒までが、不安定に揺れ始めた。
「……ちょっと」
ミレナが本を見る。
顔から眠気が消えていた。
「これ、まずいんじゃない?」
「今度は何だ!?」
「私も知りませんよ!」
エルネは光の中心に浮かぶ万象解体書を見る。
おかしい。
いや。
この本がおかしいのは、今に始まったことではない。
勝手に喋る。
勝手に動く。
自分へ接続しようとする。
候補者たちを焚きつけ。
レリックまで勝手に起動させた。
それでも。
今は。
何かが違う。
<<魔王種、接近>>
<<距離縮小>>
<<警告>>
<<対応せよ>>
<<対応せよ>>
<<対応せよ>>
文字が次々と浮かぶ。
同じ警告を、何度も。
(……焦ってる?)
そんなはずはない。
本だ。
人ではない。
感情があるのかさえ分からない。
それでも。
もし人間に例えるなら。
焦っている。
明らかに。
ここ最近、この本の言動を見てきたからこそ分かる。
いつものように誰かを試しているのではない。
何かを進めようとしている時とも違う。
これは――
(もしかして、怖がってる……?)
『感情の有無は判定不能です』
ロゴスが答える。
『ただし、これまでの挙動と比較し、極めて切迫しています』
さらに。
<<接続深度、不足>>
<<現戦力、対応不能>>
<<防衛手段を検索>>
<<検索失敗>>
<<代替措置へ移行>>
「代替って何!?」
<<緊急権限、解放>>
<<接続者を確認>>
<<エルネ・フィル>>
<<適合確認>>
<<強制接続>>
「え?」
『警告』
ロゴスの声が鋭くなった。
『接続を拒否してください』
(どうやって!?)
万象解体書の頁が、一斉に捲れる。
蒼い光がさらに強くなる。
<<現接続状態では魔王種への対応不能>>
<<暫定権限を付与>>
「待って!」
<<エルネ・フィルを暫定的に――>>
遥か遠く。
海獣の背に立つ老人が、それを見た。
初めて。
その顔に明確な変化が生まれた。
「……そうか」
白杖を握る手に力が入る。
<<「始まりの魔導士」に書き換えます>>
「は?」
蒼い光が弾けた。
すべてが。
エルネへ向かう。
「――っ!」
身体を包む。
肌ではない。
魔力へ。
さらに奥へ。
自分というものの、もっと深いところへ。
何かが入り込んでくる。
「エルネ!」
フェリクスの声。
ミレナも何か叫んでいる。
けれど。
エルネには、もう遠く聞こえた。
老人の声だけが。
不思議なほど鮮明に届く。
「そこまでして抗うか」
巨大な波がうねる。
白杖が持ち上がる。
「――アルブレヒト」
蒼い光が空を染めた。
迫る海。
万象解体書。
教団。
猟犬。
そして。
長い間、人の世から離れていた存在までもが。
同じ場所へと引き寄せられていく。
エルネは、まだ知らなかった。
この時。
北の果てで起きた、この出来事こそが。
やがて多くの人を。
国を。
そして世界そのものを巻き込んでいく。
大きな流れの始まりだったことを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回で「聖地アルブレヒト編」はひとまず終了です。
次回からは新章に入ります。
物語もここから、少しずつ大きな流れへ進んでいく予定です。
その前に、少しだけお休みをいただきます。
再開まで少々お待ちいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします!




