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第九十六話 海が来る

 街の屋根が見えた。


「あった!」


 エルネは思わず声を上げた。


 森を抜けた先。


 緩やかに下る道の向こうに、小さな街が広がっている。


 高い城壁はない。


 石造りの家々と、細い煙突から上がる煙。


 街道を行き交う馬車の姿も見える。


 人がいる。


 ようやく、普通の場所まで戻ってきた。


「あと少しだ」


 フェリクスが懐中時計を見る。


 さっきまであれだけ無茶な速度で走っていたというのに、まだ時間を気にしていた。


「町に入ったら馬車を探す。できれば南へ向かうやつ」


「やっと休める……」


「休む時間はないよ」


「ちょっとくらい休ませてください!」


「僕も休みたい。でもね、あれを二回も使っちゃったから――」


「フェリクス」


 頭上から声がした。


 フェリクスの足が止まる。


 エルネも見上げた。


「……あ」


 箒。


 その上に、見覚えのある女が座っていた。


 ミレナ。


 相変わらず眠そうな顔で、こちらを見下ろしている。


「バレバレよ」


 フェリクスが額を押さえた。


「やっぱり?」


「あれだけ派手にやっておいて、隠れたつもりだったの?」


「だから使いたくなかったんだよ」


「ミレナさん!」


 エルネが声を上げる。


 ミレナの視線が、すぐにエルネへ移った。


 正確には。


 エルネが抱えている万象解体書へ。


「本」


「……」


「渡して」


「またそれですか!」


「またそれよ」


 ミレナが箒の上で頬杖をつく。


 フェリクスは彼女を見上げながら、ふと後ろを向いた。


 表情が変わる。


「……ミレナ」


「なに」


「猟犬が来る」


 エルネも振り返った。


 まだ何も見えない。


 けれど。


『探知』


 ロゴスの声。


『後方より強大な魔力反応。高速接近』


(まさか)


 エルネには、その相手が誰なのか分かった。


「シオン先輩……」


 ミレナは後ろを見ようともしなかった。


「私には関係ない」


「あると思うけどなあ」


「その子に、本を渡すように言って」


「今それどころじゃないだろ」


「私にはそれしか用がないもの」


「君、本当に人の話聞かないよね」


「あなたに言われたくない」


 フェリクスがため息をつく。


「とにかく町へ――」


     ◇


 シオンは森の中を走っていた。


 速い。


 足元に氷を生み。


 滑るように。


 時には木々を蹴り。


 一直線に距離を詰めていく。


 片手には、小さな魔導具。


「この周辺に街は一つ」


 走りながら、淡々と告げる。


「入る前に仕留めます」


『えー』


 魔導具の向こうから、気の抜けた女の声が返ってくる。


『ワンちゃん、あーしをガッカリさせないでよ~?』


「もちろんです」


『それで、例の本と持ち主の子はいたの? 始末した?』


「いえ」


 シオンは枝を蹴り、さらに速度を上げる。


「幹部の抹殺を優先しましたので」


 少しだけ、間が空いた。


『……なにそれ?』


 初めて。


 通信具の向こうの声から、軽さが消えた。


『まさか、目的を忘れた訳じゃないよね~?』


「もちろんです」


 シオンの表情は変わらない。


「ですが、未だ見極めが必要かと」


『ふーん』


 短い沈黙。


『ならいいけど』


 声は、またいつもの調子に戻っていた。


『じゃ、よろしく~』


 通信が切れた。


 シオンは魔導具をしまう。


 さらに速度を上げようとした。


 その時。


 ゴォォォォォォォ――。


 音がした。


 低い。


 遠い。


 地面の奥から響いてくるような音。


 シオンが足を止めた。


「……なんだ?」


     ◇


「……?」


 フェリクスも顔を上げた。


「何の音?」


 エルネが周囲を見る。


 馬車でもない。


 雷でもない。


 地面が、僅かに震えている。


 ゴォォォォォォ――。


 音が大きくなる。


 近づいている。


「地震?」


「違う」


 フェリクスが呟いた。


 上空。


 ミレナが箒の上で立ち上がった。


 初めて。


 その眠そうな顔から、気の抜けた表情が消える。


「……何よ、あれ」


「え?」


 エルネが見上げる。


 ミレナは遠くを見ていた。


 街のさらに向こう。


 地平線。


 いや。


 その先。


「ミレナ?」


 フェリクスも視線を追う。


 最初は。


 雲に見えた。


 灰色の空の下。


 遠くに、黒い線がある。


 横へ。


 どこまでも。


 長く。


 そして。


 その線が、少しずつ高くなっていく。


「……なに、あれ」


 エルネが呟いた。


 線ではない。


 壁だ。


 巨大な。


 あり得ないほど巨大な。


 水の壁。


 森の向こうから。


 大地を覆い隠しながら、こちらへ近づいてくる。


「……津波?」


 フェリクスが、しばらく黙った。


 珍しく。


 本当に、言葉が出てこなかった。


「いやいやいやいや」


 やがて、ようやく口が動く。


「ここ、海からどれだけ離れてると思ってるんだ?」


「私に聞かないでください!」


「聞いてない!」


 ゴォォォォォォォォ――!!


 音がさらに大きくなった。


 水の壁が近づく。


 その前で。


 森が消えていく。


 木々が折れ。


 地面が呑まれ。


 丘すら、その向こうへ消えていく。


「ちょっと待って」


 フェリクスが懐中時計を握る。


「これは僕のレリックでも――」


「黙って」


 ミレナの声。


 フェリクスが見上げた。


 ミレナは、津波そのものを見ていなかった。


 その上。


 さらに向こう。


 何かを見ている。


「……何よ」


 ミレナの目が細くなる。


「何なのよ、あれ……」


 エルネも目を凝らした。


 巨大な水の壁。


 その頂上。


 黒い影。


 最初は岩かと思った。


 違う。


 動いている。


 長い首。


 巨大な胴体。


 水面から半身を現した、見たこともない海獣。


 そして。


 その背。


 一人の人影が立っていた。


 老人。


 杖を持ち。


 荒れ狂う水の上で。


 微動だにせず。


 こちらを見ている。


「……」


 エルネの喉が鳴った。


 ロゴスも。


 何も言わない。


 ただ。


 遠く。


 海など見えるはずのない北の大地へ。


 巨大な波が押し寄せていた。

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