第九十五話 追いつけぬ者
神殿を出ると、冷たい風が頬を打った。
空は薄く曇っている。
遠くには雪をかぶった山々。周囲には背の低い木々と、灰色の岩場が広がっていた。
「……あっちかな」
フェリクスは立ち止まるなり周囲を見回した。
「分かるんですか?」
「街道を探してる」
「見ただけで?」
「見ないで探せたら便利なんだけどね」
そう言いながら、もう歩き始めている。
エルネは慌てて後を追った。
少し高くなった岩場を登る。
フェリクスは懐中時計を開き、時刻を確認したあと、遠くを指差した。
「あった」
木々の間を縫うように、一本の道が伸びていた。
街道と呼ぶには随分と頼りない。
土が踏み固められ、ところどころに馬車の轍が残っている程度だ。
「急ぐよ。町まで一時間といったところだ」
「はい、はい……」
「返事に元気がない」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「ミレナかな」
「半分くらいはあなたです!」
「半分も?」
フェリクスは時計を閉じる。
「ほらほらほらほら。時間がない」
「速い!」
◇
街道に人影はなかった。
両側には森が続いている。
エルネは何度か後ろを振り返った。
ミレナは来ていない。
少なくとも、まだ。
(……これでよかったのかな)
答えは出ない。
万象解体書。
最強の魔術師。
転生。
器。
候補者たち。
教団。
知りたかったことは、確かにあった。
でも。
知れば知るほど、分からなくなった。
学院には戻りたい。
リシアやマリエルに会いたい。
いつもの教室へ帰りたい。
それは変わらない。
けれど。
このまま戻ってしまっていいのだろうか。
自分は何なのか。
万象解体書は何なのか。
何も分からないまま――
『探知』
「え?」
ロゴスの声が割り込んだ。
『強大な魔力反応が出現しました』
(どこ!?)
『右方。森林内』
同時に、フェリクスも足を止める。
懐中時計の蓋を閉じた。
「まずいな」
「何が?」
「さっきので嗅ぎつけられたか」
「何に!?」
「犬さ」
「犬?」
『来ます』
白い光が森を走った。
「っ!」
フェリクスが横へ跳ぶ。
直後。
何本もの氷剣が木々の間を抜け、街道へ突き刺さった。
「うわっ!」
地面が白く凍る。
「いきなりだなあ!」
転がったフェリクスが立ち上がる。
森の奥から声がした。
「ようやく、しっぽを掴みましたよ」
「やれやれ」
木々の間から、一人の男が歩いてくる。
細い目。
穏やかな笑み。
見慣れた学院の制服ではない。
それでも、その顔を見間違えるはずがなかった。
「……嘘でしょ」
シオン・レイヴァン。
そう名乗っていた男。
「シオン先輩、なんでここに!?」
「やあ、エルネ」
いつもの笑顔だった。
その顔を見た瞬間。
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
迎えに来てくれた。
最初に思ったのは、それだった。
学院へ戻れる。
助けに来てくれたのだ。
けれど。
すぐに、足が止まる。
戻っていいのだろうか。
魔術師。
転生。
万象解体書。
教団の幹部たち。
候補者たち。
誰が何を望んでいるのか。
誰と誰が敵なのか。
それすら、もう分からない。
「シオン先輩、私――」
シオンの視線がエルネから外れた。
フェリクスへ向く。
杖が上がる。
「待って!」
エルネが声を上げた。
「先輩、待って。教団とは話し合えるかも」
「エルネ」
シオンは笑ったままだった。
「関係ないよ」
「え?」
「教団は滅ぼす」
声は穏やかだった。
「一人残らずね」
「せ、先輩?」
「悪いけど、本当に時間が無いんだ」
杖先へ白い光が集まる。
「巻き込むといけないから、下がっていなさい」
次の瞬間。
氷剣が放たれた。
「おっと!」
フェリクスが横へ飛ぶ。
一発目。
避けた先へ二発目。
「うわっ!」
身体を反らす。
足元から氷柱。
「危ないなあ!」
フェリクスは転がり、そのまま森へ飛び込んだ。
「少しくらい話をしない?」
「必要ありません」
「君、僕よりせっかちじゃない?」
返事の代わりに氷槍が飛ぶ。
「うわ、返事が痛い!」
右へ。
そこへ氷壁。
「そっちは駄目か!」
左へ。
地面が凍結する。
「こっちも!」
跳ぶ。
着地する前から、次の氷剣。
シオンは追わない。
街道に立ったまま。
ただ杖を振り続ける。
それだけで、フェリクスの行き先が潰されていく。
「フェリクスさん!」
「大丈夫大丈夫! まだ刺さってない!」
言った直後。
氷剣が外套を裂いた。
「ほら!」
「当たってる!」
「服だから!」
口数は減らない。
けれど。
右。
左。
前。
少しずつ。
逃げる場所が狭くなっている。
フェリクスが選んでいるように見えた道を。
シオンが、選ばせている。
そして。
フェリクスが開けた場所へ出た。
地面が白く光る。
「あ」
四方から氷壁がせり上がった。
前。
後ろ。
左右。
完全に囲まれる。
その頭上。
氷剣が浮かんだ。
十本。
二十本。
さらに増える。
空が埋まる。
避けるための隙間などない。
フェリクスが足を止めた。
「……これは参ったな」
シオンが杖を向ける。
「終わりです」
氷剣が降った。
一本でも当たれば致命傷。
そんなものが、一斉に。
フェリクスが外套へ手を入れる。
銀色の懐中時計。
取り出したあと。
ほんの一瞬だけ、その時計を見た。
いつもの時刻確認ではなかった。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「使いたくなかったんだけどな」
笑みが消える。
親指が竜頭へ乗った。
カチッ。
――世界が光った。
「っ!?」
エルネは目を細めた。
フェリクスを中心に。
巨大な球状の空間が、浮かび上がった。
透明だった。
それなのに。
確かにそこにあると分かる。
森を。
地面を。
氷壁を。
降り注ぐ無数の氷剣を。
すべてまとめて呑み込むほど巨大な球体。
その輪郭をなぞるように、光が走った。
空へ。
地面へ。
森の奥へ。
幾筋もの光が迸り、雲まで白く染める。
木々が大きくしなる。
石が跳ねる。
雪と土が一斉に舞い上がる。
森の鳥が何十羽も飛び立った。
遠くからでも見える。
隠しようがない。
巨大な異常が、そこに生まれた。
そして。
球体は――一瞬で消えた。
「よし、逃げるぞ」
「え?」
横。
エルネのすぐ隣。
フェリクスがいた。
「……え?」
氷壁を見る。
そこにはもう誰もいない。
もう一度、隣を見る。
「いつ来たんですか!?」
「今!」
「今って!」
「細かいことはあと!」
フェリクスは懐中時計を握ったまま。
「ちょっと失礼」
「え?」
カチッ。
「きゃっ!」
身体が浮いた。
フェリクスがエルネを背負う。
「ちょ、フェリクスさん!」
「走るより早い!」
「だからって――」
地面が爆ぜた。
「うわあああああっ!」
景色が消える。
木々が後ろへ飛んでいく。
街道が伸びる。
フェリクスが地面を蹴るたび、土と石が弾けた。
その周囲で。
また、異常が起きる。
風に揺れていた枝が、不自然に動きを鈍らせる。
舞い上がった葉が、落ちきらない。
跳ねた小石が、空中でもたつく。
飛び立った鳥が羽ばたきを乱す。
「な、なにこれ!」
エルネ自身も。
「え?」
フェリクスの肩を掴み直そうとした腕が、思うように動かなかった。
重いわけではない。
力が抜けたわけでもない。
動こうとした勢いだけが、途中でなくなる。
「フェリクスさん! 私まで変!」
「僕の近くにいるからね!」
「それで納得すると思います!?」
「今はして!」
その時。
『警告』
エルネが振り返った。
遠く。
シオンがこちらへ杖を向けている。
「……え」
見えているはずだ。
フェリクスの背中には、自分がいる。
それでも。
シオンは杖を振った。
森が白く染まる。
巨大な氷の奔流。
木々を薙ぎ倒し。
地面を凍らせ。
二人まとめて押し潰す勢いで迫ってくる。
「先輩!?」
返事はない。
「私もいるんだけど!」
「本当に殺す気じゃないか!」
「私に言わないで!」
冷気が近づく。
速い。
フェリクスも速い。
それでも。
追いつかれる。
「まずいまずい。これは本当にまずい」
「全然そう聞こえない!」
「焦ると喋るんだよ僕は!」
「いつも喋ってるじゃないですか!」
「いつも焦ってるんだ!」
氷が迫る。
すぐ後ろ。
背中が冷たい。
「フェリクスさん!」
「分かってる!」
フェリクスが懐中時計を見る。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
迷った。
そして。
「……もう一回やったら、完全に見つかるな」
「何に!?」
「色々!」
歯を見せて笑う。
「でも、死ぬよりマシだ」
親指を押し込んだ。
カチッ。
再び。
巨大な球体が出現した。
今度は走る二人を中心に。
森を呑み込み。
迫る氷を呑み込み。
地面すら包み込む。
球体の表面を、眩い光が駆け巡った。
空へ光柱が突き抜ける。
雲が割れた。
遠く。
遥か彼方からでも見えるほどの光。
その中で。
すべてが一瞬だけ、異様な静けさに沈む。
そして。
消えた。
◇
シオンは杖を下ろした。
そこに二人はいない。
氷の奔流だけが、何もない街道を呑み込んでいく。
遠く。
いくつもの丘の向こう。
小さな光が見えた。
シオンの目が、ほんの僅かに開く。
フェリクスがいた場所。
逃げた道。
不自然に倒れた木々。
今になって、ぱらぱらと落ち始める葉。
それらを順番に見る。
「……なるほど」
いつもの穏やかな笑みが戻った。
「そういうレリックですか」




