第九十四話 動き始める世界
深海。
光の届かない海の底で、老人は静かに座っていた。
その時。
老人が顔を上げる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて立ち上がる。
壁際の杖を取り、球状の空間を出た。
外は暗い海だった。
少し離れたところで、大きな影が動く。
長い首を持つ巨大な海獣。
老人が近づくと、海獣は身体を沈めた。
その背へ乗る。
老人は一言も発しない。
首長竜が向きを変え、海を進み始めた。
上へ。
暗い水の向こうへ、その巨体が消えていった。
◇
遠く離れた地。都市国家セベク。
地下深くに造られた神殿の一室で、褐色の肌をした女が、侍女と話していた。
黒髪には金の飾り。
薄い衣装に身を包み、手には冷たい飲み物を持っている。
「――ん?」
女の手が止まった。
それまで浮かんでいた軽い笑みが消える。
「今の」
「はい」
侍女もすぐに表情を改めた。
「かなり遠方です。しかし、確かに」
女はしばらく黙っていた。
「猟犬の中で、一番扉の近くにいるのは?」
「以前からあの周辺を探っていた者です。連絡を受けて以降も、扉の周辺で待機していたようです」
「あー、あの子か」
そこで女の口元が少しだけ上がった。
「なら話早いじゃん」
「向かわせますか?」
「うん。すぐ連絡して」
女は椅子から身体を起こす。
「扉を使わせて。場所は――」
一瞬、目を閉じる。
先ほど感じたものを探るように。
そして、指先で地図の一点を示した。
「ここ」
「承知いたしました」
◇
「いったぁ……」
エルネは腰を押さえながら身体を起こした。
少し離れたところに、万象解体書が落ちている。
急いで拾い上げた。
(先生)
『はい』
(さっきの、本当に重力を切ったの?)
『少なくとも、ミレナの術式のみを切断した結果ではありません』
エルネは自分の手を見る。
いつもと何も変わらない。
『発動後、この空間で重力の作用が一時的に失われています』
(……そんなことできるの?)
『実行したのはあなたです』
(私もよく分かってないんだけど)
『私も完全には解析できていません』
「……」
途中から、ロゴスの声も聞こえていなかった。
あの五線譜が何だったのかも分からない。
ただ、あの時は。
切れると思った。
(これ、もう一回できる?)
『不明です』
(だよね)
エルネは周囲を見る。
ミレナの姿はない。
吹き飛ばされた方向にも、人影は見えなかった。
(とりあえず逃げよう。ミレナさんが来ないうちに)
『賛成します』
走り出そうとして。
止まった。
(その前に、ここがどこだかわかんない)
『移動術式を開発しても良いかもしれません』
(今から!?)
『今後の利便性を考慮すれば――』
(色々ありすぎて、もう、心臓が止まりそう!)
『停止した場合は対処不能です』
(そういう意味じゃない!)
「こっちだ」
「ひゃっ!?」
エルネが振り向く。
柱の陰に、一人の男が立っていた。
細身で、年は三十前後だろうか。
淡い灰色の髪を後ろへ流し、細身の上着の下にはベスト。胸元から細い鎖が伸びている。
その先にあるのは、銀色の懐中時計。
男は蓋を開いて中を見ると、すぐに閉じた。
「早く」
(先生、この人)
『教団幹部、第六堰。フェリクス・ローデンです』
(あ、時計の人)
評議会にもいた。
確か二つ名は――。
「何してる。ミレナが戻ってくる」
「え、でも」
「話は歩きながら」
フェリクスはもう先へ進んでいる。
「ちょっと待ってください!」
「待たない」
「待ってよ!」
仕方なく追いかけた。
通路へ入る。
フェリクスは歩くのが速い。
しかも数歩進むごとに、懐中時計を確認する。
「……本、取りません?」
「取らないよ」
「候補者がどうとか、書を持つと危ないとか……」
「君でいいよ」
「え?」
「一番話が速そうだ」
「ええ……」
「時間がもったいない。急ぐよ」
「そんな決め方でいいんですか?」
「今はね」
また時計を見る。
「ミレナが本気で君を止めようと思ったら、逃げられるわけがない」
「……」
「呑気にお喋りしてる場合じゃないんだ。ほらほらほらほら」
「急かさないでよ!」
「急かすよ。急いでるから」
フェリクスの足は止まらない。
エルネも小走りになる。
「あなたのレリックって、その時計?」
「説明する時間が惜しい。それに、レリックは今は使わないよ」
「どうして?」
「目立ちたくない」
「……目立つんですか?」
「目立つ」
それだけ答えて、また懐中時計を閉じる。
「今使えば早く逃げられるんじゃ?」
「だから使わない」
「なんで!」
「目立つから」
「さっき聞いた!」
「ならもう聞かないで」
「むぅ……」
通路を曲がる。
フェリクスは一度だけ壁の彫刻を見た。
歩く速度は落とさない。
「そういえば」
エルネはその背中へ声をかける。
「ここがどこかわかってるんですか?」
「ああ。見当はついた」
「どこです?」
「北の果て。アイスミルという土地だ」
「アイスミル?」
「聞いたことない?」
「ないです」
「そう」
北の果て。道理ですこし肌寒い。
フェリクスは壁へ刻まれた模様を指でなぞり、そのまま進む。
「おそらく、この神殿は昔ここにいた人間が土着の神を祀っていた場所だろうね」
「詳しいですね」
「歴史学者なんだ」
「……そうなんだ」
「うん。ほら、止まらない」
「止まってないよ!」
「もっと速く」
「無茶言わないで!」
少し先で、通路が二つに分かれていた。
フェリクスは迷わず左へ入る。
「近くに町があるはず。そこまで移動できれば、馬車で南に移動できる」
「馬車?」
「ずっと歩くつもり?」
「それは嫌です」
「僕も嫌だ。時間がかかる」
また懐中時計。
「聖地の近くまで戻らないと――」
フェリクスの言葉が止まった。
前方を見る。
「どうしたんです?」
「いや」
蓋を閉じる。
「急ごう」
「だから、さっきから急いでますって!」
◇
「お前の知っている男とは、別人のようだ」
王都の外れにある、小さな屋敷。
セレスティアが、アレクシスからの報告を聞いていた。
「シオンが別人って、どういうこと?」
セレスティアは兄を見た。
アレクシスは机の上へ、小さな記録用魔道具を置く。
「まず、これを見て」
魔道具へ触れる。
淡い光が浮かび、一人の青年の姿を映し出した。
「……誰?」
「シオン・レイヴァン」
「は?」
セレスティアは思わず魔道具を手に取った。
丸い顔。
ふっくらとした体格。
髪は丁寧に整えられている。
着ている服も上等ではあるが、腹のあたりが少し窮屈そうだった。
学院で何年も見てきた副会長とは、似ているところを探す方が難しい。
「これが?」
「本物のシオン・レイヴァンだよ」
「本当に?」
「本人確認も取れてる」
アレクシスが指を一本立てる。
「レイヴァン家の息子。出生記録もある。商会との関係も問題なし。今も実家にいる」
「学院には?」
「通っていない」
「……家族もそれを知ってるの?」
「もちろん」
セレスティアは魔道具と兄の顔を交互に見た。
「じゃあ、学院から連絡が来たらおかしいでしょう」
「普通ならね」
「普通なら?」
「今回、学院からレイヴァン家へ問い合わせを入れた。シオン・レイヴァンは実家へ戻っているか、と」
「それで?」
「『息子はこちらには戻っておりません』」
「……」
セレスティアはもう一度、肖像を見る。
「この人、家にいるのよね?」
「いる」
「家業を手伝ってる」
「働き者かどうかはともかくね」
「家族も毎日会ってる」
「そうだよ」
「なのに、『戻ってません』?」
「誰も不思議に思っていなかった」
セレスティアは黙った。
「学院から手紙が来ても?」
「普通に受け取る。学院にいる息子への連絡としてね」
「……目の前に本人がいるのに?」
「そう」
「何それ」
「僕もそう思う」
アレクシスは魔道具を指先で軽く叩いた。
「学院へ提出された書類も本物だ。名前も、家も、経歴も存在する」
「でも、学院にいたのはこの人じゃない」
「少なくとも、レイヴァン家のシオン・レイヴァンではないね」
セレスティアは腕を組んだ。
「シオン……さんの存在だけを借りて、堂々と学院に通っていたということ?」
「現状では、そう考えるしかない」
「信じられない。彼は……」
言葉が止まる。
頭に浮かんだのは、いつもの顔だった。
細い目。
柔らかな笑み。
誰に対しても態度を変えない。
困っている生徒がいれば、いつの間にか手を貸している。
生徒会の仕事も早かった。
セレスティアが頼もうと思った時には、もう済んでいることさえあった。
少し掴みどころがない。
それでも、とびきり有能な副会長だった。
そして何より。
「彼は、強力な魔法使いだった」
「ああ」
「私と模擬戦をしたことがあるのは話したわよね」
「聞いてるよ」
「時間いっぱい。決着はつかなかった」
並の生徒なら数秒で終わる。
学院の上位にいる者でも、セレスティアを相手に最後まで立っていられる者はほとんどいない。
シオンは違った。
追い込んでも抜ける。
攻めれば返してくる。
最後まで、決定打を許さなかった。
「引き分け、か」
「そう」
セレスティアはそう答えてから、少し考えた。
本当に。
あれは引き分けだったのだろうか。
シオンが焦った顔を見た覚えがない。
追い詰めたと思った時も。
強い魔法をぶつけた時も。
いつもの笑みがあった。
そもそも、あれが本気だったのか。
学院へ別人として潜り込み、何年も正体を隠していた男。
なら。
魔法の腕まで隠していたとしても、不思議ではない。
仮に。
シオンが本気で、自分を倒しに来ていたら。
「セレフィナ?」
「なに」
「その顔をやめなさい」
「顔?」
言われて気づいた。
口角が吊り上がっている。
「……笑ってない」
「笑ってるよ」
「これは違う」
「何が違うんだ」
セレスティアは口元を手で隠した。
アレクシスは呆れたように息を吐いた。




