第九十三話 重力を切る
身体が石床へ押しつけられていた。
腕に力を入れても、上半身が持ち上がらない。頬は床についたまま、息をするたび胸まで圧迫される。
目の前にいるのは教団幹部、第四堰。
たしか――。
「堕天の……ミレナ」
「抵抗しないでね、面倒だから」
頭上から、眠たげな声が降ってきた。
「ぐ……っ」
返事をする余裕もない。
(先生、どうすればいい)
『力に逆らうのは推奨できません』
(このままじゃ、潰されちゃう!)
『現在、レリックと思われる箒は、あなたへの重力場を形成していると推測されます。言い換えれば、箒からあなたは魔力で繋がれています』
(繋がってる……)
だったら、切れる。
(空律鋏!)
すぐに思いついた。
魔力の流れを切ればいい。
だが。
(でも、私、見えない)
顔は地面へ押しつけられたままだ。
ミレナも、箒も見えない。
『接続先はあなたです』
(私?)
『はい』
エルネは目を閉じた。
探すのは向こうではない。
今、自分にかかっている力。
その中にある、自分のものではない魔力。
最初は何も分からなかった。
苦しい。
重い。
胸が潰れそうで、集中しようとすると呼吸の方へ意識を持っていかれる。
(どれ……)
『急いでください』
(分かってる!)
息を浅くする。
もう一度。
今度は自分の身体へ意識を向けた。
そこに混ざっているものを、一つずつ探していく。
やがて。
(……これ?)
一本だけ。
僅かに違う。
『可能性は高いです』
「空律鋏!」
鋏の音が鳴った。
身体を押し潰していた力が消える。
「はっ……!」
エルネは大きく息を吸った。
両手を床につき、身体を起こす。
まだ脚に力が入りきらない。
それでもその場を離れ、数歩転がるように距離を取った。
(切れた)
『接続の消失を確認』
「なるほどねえ。興味深いわ」
ミレナは箒に腰掛けたまま、こちらを見ていた。
「今の、繋がってるところを切ったの?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「初めてやったので」
「ふうん」
ミレナが少し目を細める。
怒っている様子はない。
むしろ、さっきまでより興味を持たれた気がした。
「そういうところ、似てるわね」
「何がです?」
「こっちの話」
箒がゆっくりと高度を上げた。
「じゃあ、これはどう?」
蒼い光が広がる。
エルネは身構えた。
しかし。
「……?」
何も起きない。
身体は軽い。
さっきまでの圧力もない。
エルネは慎重に右足を出した。
「――ぐっ!」
膝が落ちた。
足を踏み出した瞬間、その場所だけ身体が急激に重くなる。
慌てて足を引いた。
重さが消える。
「え?」
今度は左。
「っ……!」
同じだった。
前へ出した足が床へ吸いつくように沈む。
すぐに戻る。
(なにこれ)
『先ほどとは異なります』
(それは分かるよ!)
後ろなら。
エルネは身体を捻り、一歩下がった。
「うぁっ!」
今度は耐えられなかった。
片膝が床へ叩きつけられる。
腕の中の万象解体書まで一気に重くなった。
「く……!」
脚を引き戻す。
圧力が消えた。
エルネはその場で荒く息を吐いた。
右も駄目。
左も。
後ろも。
どこへ行っても重力が待っている。
(だったら……)
勢いをつければ。
『推奨しません』
(でも、ここに立ってるだけじゃどうにもならないでしょ!)
本を抱え直す。
エルネは床を蹴った。
一歩目。
何ともない。
二歩目。
「――っ!」
全身へ重さがのしかかった。
足が止まる。
勢いを殺しきれず、そのまま前へ倒れた。
「ぐっ……!」
肘をつく。
起き上がろうとした途端、さらに身体が沈んだ。
「う……そ……」
元いた場所はすぐ後ろだ。
ほんの数歩。
それなのに戻れない。
(先生!)
『現在位置にも重力場が形成されています』
(見れば分かる! どうするの!)
『元の位置へ戻ることを推奨します』
(だから戻れないって!)
右腕を伸ばす。
床を掴む。
少しだけ身体を引く。
「ぐぅ……!」
重い。
腕が震える。
一度休むと、そのまま床へ潰されそうだった。
もう一度引く。
少し。
また少し。
ようやく重力の境目を越えた。
「はぁっ……!」
身体が軽くなる。
エルネはその場へ倒れ込んだ。
すぐには起き上がれなかった。
「無理に動かない方がいいわよ」
上からミレナの声がする。
「今度は怪我じゃ済まないかもしれないから」
「……」
エルネはしばらく床に手をついたまま息を整えた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
今度は見えた。
箒から伸びる魔力。
一本ではない。
床へ。
柱へ。
壁にも、天井にも。
広間全体に細い線が張り巡らされている。
(私には繋がってない)
『はい』
(じゃあ、空律鋏でどこを切ればいいの)
少し間があった。
『現時点では不明です』
「……」
それは困る。
(全部切るのは?)
『困難です』
(だよね)
数が多すぎる。
一本切ったところで、その隣には別の線がある。
しかも、どこまで続いているのかも分からない。
「接続を断てば、逃げ場をなくす。これが《墜天領域》」
ミレナが手を差し出した。
「さあ、本を渡しなさい」
エルネは万象解体書を抱きしめた。
「……嫌」
「頑固ねえ」
ミレナはそれ以上、何もしなかった。
急かす様子もない。
逃げられないと分かっているのだ。
エルネは周囲を見回した。
どこを見ても魔力の線がある。
(これ、本当にどうすればいいの)
『シュリの魔法を思い出してください』
(シュリ?)
ついさっき受けたばかりだ。
《鳴風》。
最初は、無数に走る魔力の流れを全部切ろうとした。
間に合わなかった。
二度目は。
(……全部じゃなくて、中心)
『はい』
(でも、今回は中心って箒じゃないの?)
『箒は起点です』
エルネは眉を寄せた。
『この空間に存在している重力そのものを、箒が生み出しているわけではありません』
(重力……)
エルネは足元を見る。
何もしなくても、自分は床に立っている。
手を離せば、本は落ちる。
それはミレナが来る前から同じだった。
箒が作ったものではない。
もともと、この世界にある。
「……」
エルネは目を閉じた。
『エルネ?』
返事はしなかった。
床へ伸びる線を一本ずつ追うのをやめる。
箒も見ない。
この広間そのものへ意識を向けてみる。
最初は何も分からない。
ただ魔力が多い。
それだけ。
『エルネ。現在の重力場は――』
聞こえない。
エルネの意識は、もっと深いところへ向かっていた。
自分の足元。
その先。
床。
柱。
壁。
天井。
近くから少しずつ。
広間全体へ。
『エルネ』
やはり反応はない。
ロゴスは、そこで呼びかけるのをやめた。
明らかに今までとは違う。
これまでのエルネは、見えている魔力をほどき、切り、繋いできた。
今は、それだけではない。
『しかし、もしかしてこれは、世界の法則に干渉を――』
言葉が止まる。
エルネには届いていない。
なら、今は邪魔をしない方がいい。
腕の力が抜けた。
抱えていた万象解体書が、エルネの手を離れる。
本は落ちなかった。
胸の前で静かに浮かぶ。
ゆっくりと表紙が開いた。
ページの隙間から、緑色の光が漏れ始める。
「……何?」
ミレナの声。
本から一本の魔力線が伸びた。
さらに一本。
緑の線が床を走り、柱へ昇る。
途中で枝分かれし、壁へ、天井へ。
やがて五本の線が平行に並んだ。
その隣にも。
さらに、その向こうにも。
幾重もの五線譜が、広間を埋めていく。
その上を、小さな光が流れていた。
ミレナの魔力。
箒から伸びた接続。
そして、それ以外のものまで。
エルネはその中心に立っている。
ゆっくり右手を上げた。
指先が動く。
緑色の五線譜が、それに合わせて揺れた。
彼女が何をしようとしているのか。
ロゴスにも、まだ分からない。
その立ち姿には、楽団を従え、次の一音さえ支配する指揮者の風格があった。
その時だった。
ミレナの箒が激しく震えた。
「……?」
柄が跳ねる。
ミレナが掴み直す。
止まらない。
箒を覆っていた蒼い光が不規則に明滅し、周囲に広がっていた重力場まで揺らぎ始める。
「ちょっと……」
片手では押さえきれず、両手で柄を掴む。
それでも暴れ続けた。
「……何これ」
ミレナの声にも、エルネは反応しない。
右手がさらに高く上がる。
空間を覆う五線譜が、大きく波打った。
エルネが目を開く。
「空律鋏……」
箒がさらに激しく跳ねた。
「――っ」
ミレナの身体まで引かれる。
エルネの腕が振り下ろされた。
「――独奏」
鋏の音がした。
次の瞬間。
空間全体が弾け飛んだ。
「――っ!?」
緑色の五線譜が一斉に膨れ上がり、破裂した。
広間へ張り巡らされていた魔力線がまとめて千切れる。
床が揺れた。
衝撃が柱へぶつかり、石の欠片が飛ぶ。
「な――」
ミレナの箒が大きく跳ね上がった。
両手で柄を引く。
だが、制御が戻らない。
「くっ……!」
箒ごと横へ吹き飛ばされた。
ミレナの身体が宙で回り、そのまま柱の脇を抜けていく。
「うわっ!?」
エルネも床から放り出された。
万象解体書が手を離れる。
(先生、これ私も!?)
『対象範囲を限定できていません』
(先に言って!)
『警告しました』
(そういう意味だと思わないよ!)
上下の感覚がなくなる。
エルネの身体も、本も、周囲の石片も宙へ浮いた。
ほんの数秒。
緑色の光が薄れていく。
突然、重さが戻った。
「え」
落ちる。
「いったぁ!」
エルネは背中から石床へ転がった。
少し離れたところで、万象解体書も落ちてきた。
『……訂正します』
(なに?)
『あなたが切断したのは、魔力ではありません』
一拍。
『重力です』




