第九十二話 僕も混ぜてもらおうかな
ノアが杖を持ち上げた。
「せっかくだし、僕も混ぜてもらおうかな」
「は?」
カーマが振り返る。
「何する気?」
ノアは杖の先を床へ向ける。
ほんの少し、魔力が流れた。
それだけだった。
「――《迷界錯覚》」
空気が揺れる。
エルネの足元が、一瞬だけ遠ざかった。
「……っ」
目の前にいたカーマが、急に十歩以上離れて見える。
逆に、奥にいたはずのシュリがすぐ横に立っていた。
振り返る。
誰もいない。
声だけが背後から聞こえた。
「ノア!」
「なに?」
ノアの声は右から。
姿は左にある。
「これ……!」
『認識への干渉を確認しました』
(前より早い!)
以前、対抗戦で巻き込まれた領域。
あの時は、あらかじめ複数の要点を仕込み、広い範囲を歪ませていた。
今は違う。
杖を上げて、ほとんど間を置かずに発動した。
カーマが水弾を放つ。
だが水弾はノアの横を大きく逸れ、何もない壁へぶつかった。
「何してるのよ!」
「君たちの感覚を狂わせてる。あまり余計なことしないほうがいいよ」
「なんですって……!」
ノアがエルネに向けて軽く杖を振った。
エルネの視界が、もう一度歪む。
「解除」
「え?」
急に世界が戻った。
距離。
方向。
足元。
すべてが元に戻る。
エルネだけ。
「戻った!?」
周囲では、カーマたちが明らかに違う方向を見ていた。
シュリが何もない場所へ風を放つ。
エステルの炎も、アルランドの土塊も、ノアには届かない。
「ノア!」
カーマが叫ぶ。
「なんでエルネの味方をするのよ!」
ノアはそちらを見る。
「味方っていうか」
少しだけ考える。
「君たち、さっきまでと様子が違うからさ」
「……何よ、それ」
「書にああ言われてから、急に必死になったでしょ」
「だから?」
「なんか変だよ」
「知ったようなこと言わないで!」
また水弾。
今度も大きく外れる。
「ほら」
ノアがエルネを見る。
「やっぱり変」
(先生)
『同意します』
万象解体書の言葉。
始祖の力。
継承者。
それを聞いた直後から、四人の様子は明らかに変わった。
エルネには、それがどこまで本人たちの意思なのか分からない。
ノアにも分かってはいないのだろう。
ただ。
少なくとも彼だけは、そこから一歩外にいる。
「ノア」
「なに?」
「この魔法、前よりずっと発動が早くない?」
「ああ」
ノアが少しだけ笑った。
「エルネ」
「うん」
「君に負けてから、生まれて初めて努力したんだよ」
「……え?」
「結構頑張った」
「そこまで!?」
「うん」
ノアは悪びれもせず頷いた。
前に戦った時。
自分の領域を破られても、それほど悔しそうには見えなかった。
なのに、裏ではちゃんと悔しかったらしい。
「でも」
ノアが杖を軽く振る。
「ちゃんと準備したわけじゃないから、長くは持たないよ。範囲も狭い」
「あ、そうなんだ」
「うん」
ノアは奥へ続く通路を指した。
「だから、今のうちに逃げな。ここは任せて」
エルネは万象解体書を抱え直した。
少し迷う。
「……大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「殺し合う気はないし」
ノアはカーマたちを見る。
「時間を稼ぐくらいならできるよ」
シュリの風が明後日の方向へ走った。
カーマが苛立った声を上げる。
「ノア! 解除しなさい!」
「嫌だよ」
即答だった。
エルネはノアを見る。
「ありがとう!」
「うん」
ノアが片手を上げる。
「気をつけて」
ひらひらと手を振った。
こんな状況でなければ、もう少しちゃんと礼を言いたかった。
だが今は無理だ。
エルネは走った。
◇
石造りの通路を走る。
「はぁ……はぁ……」
(先生、追ってきてる?)
『現時点では確認できません』
(ノア、大丈夫かな)
『領域内では、四名とも行動を大きく制限されています』
(なら、いいけど)
通路は長かった。
左右の壁には古びた彫刻。
ときおり太い柱。
やはり、どこかの神殿の一部らしい。
やがて。
前方が明るくなる。
「出口?」
エルネは速度を上げた。
細い通路を抜ける。
その先は、大きく開けた空間だった。
「……広っ」
高い天井。
左右に並ぶ巨大な柱。
中央には広い石床。
奥には、祭壇のようなものまで見える。
「誰もいない?」
『断定は推奨しません』
「そういうこと言うと――」
風が吹いた。
「え?」
室内なのに。
上から。
エルネが顔を上げる。
天井近く。
人影が浮かんでいた。
「……箒?」
ゆっくりと降りてくる。
一本の箒。
そこに、女が腰掛けていた。
長い茶髪。
眠そうな目。
「ミレナ……さん?」
教団幹部、ミレナ・オルブライト。
「あら~」
声だけは、評議会のときと変わらない。
「やっぱり、あなたもこっちに飛ばされてたのね」
「ミレナさん!」
エルネは思わず声を明るくした。
「よかった……!」
「あら?」
「向こうで大変だったんですよ。候補者のみんなが急に本を狙い始めて――」
「そう」
短い返事。
エルネの口が止まった。
何か。
違う。
評議会で見たミレナは、ずっと眠そうだった。
気の抜けた声。
気の抜けた態度。
今も見た目は変わらない。
なのに。
『警告』
ロゴスの声。
エルネの身体も、ほとんど同時に反応していた。
一歩。
勝手に後ろへ下がる。
この感覚を知っている。
ヴァレルと初めて対峙したとき。
何かをされたわけではない。
まだ、魔法すら使われていない。
それなのに。
目の前にいる人間が、自分より遥かに危険な場所にいると分かってしまう。
「ミレナ……さん?」
「うん?」
ミレナの視線は。
エルネではなく。
その腕の中へ向いていた。
万象解体書。
少しの間。
そして。
「渡して」
「……え?」
「その本を渡して」
ミレナが手を差し出した。
声は穏やかだった。
だからこそ。
余計に嫌だった。
エルネは反射的に本を抱きしめる。
「……嫌です」
「あら」
「これは……」
自分でも、うまく説明できない。
書が危険なのは分かっている。
実際、勝手にレリックを動かして、全員を転移させて、候補者たちまで煽った。
それでも。
「渡しちゃ駄目な気がします」
ミレナはしばらく黙っていた。
「そう」
その一言。
直後。
「――っ!」
空気が変わった。
息が詰まる。
喉が勝手に強張る。
足が後ろへ下がりたがる。
さっきまで眠そうだった女が。
別人に見えた。
殺気ではない。
魔力でもない。
ただそこに立っているだけで、圧がある。
『エルネ』
(分かってる……!)
『対象を警戒してください』
(もうしてる!)
背中に汗が流れる。
ミレナは箒に腰掛けたまま、ゆっくり高度を上げた。
目だけが。
真っ直ぐエルネを見ている。
「もう一度だけ言うわ」
静かな声。
「渡して」
エルネは万象解体書を強く抱いた。
「……嫌です」
「なら、仕方ないわね」
ミレナが箒の柄へ手を添えた。
「――《墜天》」
『魔力反応』
何も飛んでこない。
「え?」
次の瞬間。
身体が何倍にも重くなった。
膝が石床へ叩きつけられる。
「な、に……これ……!」
顔を上げる。
ミレナは上空から、静かにエルネを見下ろしていた。
「じゃあ」
眠そうな声のまま。
「力ずくで取り上げるわね」
評議会で欠伸をしていた女の姿は。
もう、どこにもなかった。




