第九十話 継承者は、エルネ・フィル
結局、その日の評議会で、エルネが始祖の器であるという結論は出なかった。
万象解体書がエルネを選んだのか。
たまたま条件が重なっただけなのか。
そもそも、器として認められるには何が必要なのか。
分からないことが多すぎる。
「現時点では、経過を見るほかないでしょう」
フィーネがそうまとめた。
「万象解体書との関係についても、引き続き確認が必要です」
「じゃあ、私は?」
「当面、聖地で保護します」
「……やっぱり?」
「はい」
エルネは露骨に肩を落とした。
「学院に帰っちゃ駄目?」
「駄目です」
「即答……」
「器候補を巡って、何者かが動いている可能性があります。それに、万象解体術を発動したあなたを、このまま外へ戻すことには賛成できません」
「私、そんな危険物みたいな扱いなの?」
「書の方がな」
ヴァレルが言った。
「持ってるの私なんだけど」
「だから一緒に保護する」
「なんか納得いかない」
エルネは腕の中の万象解体書へ目を落とした。
少なくとも、自分が消えて始祖に置き換わるわけではない。
そこだけは安心した。
とはいえ。
始祖の魔力や記憶、知識、能力。
そんなものが自分の中へ入ってくる可能性があると言われて、素直に喜べるはずもない。
そもそも、本当に自分が器なのかすら分からないのだ。
「では、本日の審議はここまでとします」
フィーネの声に、張りつめていた空気が少し緩んだ。
席を立つ者。
伸びをする者。
バルドなどは、待ってましたとばかりに酒瓶へ口をつけている。
長かった評議会も、これで終わる。
――はずだった。
『警告』
「え?」
ロゴスの声。
同時に。
エルネの腕の中で、万象解体書が勝手に開いた。
「ちょっ……!」
手を触れていない。
なのに、ページが猛烈な勢いでめくられていく。
広間にいた者たちの視線が、一斉に集まった。
(先生、これ何!?)
『私による操作ではありません』
ページが止まる。
何も書かれていなかった紙面へ、黒い文字が浮かび上がった。
≪転生の秘術に関する照会を確認≫
(さっきの質問?)
『その可能性が高いと判断します』
次の文字が現れる。
≪所持者への接続処理に対する継続的な阻害を確認≫
(……先生のこと言ってる?)
『はい』
≪当該領域内に、複数の器候補を確認≫
「どうした?」
ヴァレルがこちらへ歩いてくる。
「分かんない。本が勝手に――」
≪現状において、転生の秘術の遂行は困難と判断≫
ロゴスの声が鋭くなる。
『エルネ。書を閉じてください』
(閉じるって――)
両手で挟む。
閉じない。
「なにこれ!?」
≪併せて――≫
一拍。
≪関連機構を強制起動します≫
『エルネ!』
蒼い光が弾けた。
「っ!」
眩しさに目を閉じる。
光源は万象解体書ではない。
「ヴァレル!」
ゼノンの声が飛んだ。
ヴァレルの腰。
鞘に収められていた短剣が、蒼く輝いている。
「馬鹿な」
ヴァレルが短剣を押さえる。
「聖地で魔力反応が出るだと」
「ヴァレル、抑えろ!」
「やっている!」
短剣が鞘の中で激しく震える。
ヴァレルが押さえ込んでいるにもかかわらず、少しずつ抜け出していく。
「無理だ。こんなことは今まで一度もない」
「その娘か!?」
バルドがエルネを指した。
「私じゃない!」
「まずいわね~」
ポーラの声。
「何が!?」
「一つじゃないわよ」
床を擦る音がした。
ミレナの足元に置かれていた箒。
それが、ゆっくりと宙へ浮かび上がっている。
「……あら」
眠そうだったミレナの目が、わずかに見開かれた。
「私、何もしてないわよ」
箒からも蒼い光が漏れる。
その瞬間。
広間のあちこちで、別の光が灯った。
「レリックが……!」
バルドの酒瓶。
フェリクスの懐中時計。
オスカーの片眼鏡。
ポーラの帽子。
持ち主の意思とは無関係に、始祖の遺した魔法具が次々と反応していく。
「全員、レリックを押さえろ!」
「無茶言うな!」
バルドが酒瓶を両手で掴む。
「勝手に動きやがる!」
「フィーネ! 候補者を離せ!」
「はい!」
だが。
遅かった。
ヴァレルの手から、短剣が抜けた。
「――っ!」
宙に浮く。
誰も握っていない短剣が、ゆっくりと横を向いた。
「離れろ!」
ヴァレルが叫ぶ。
短剣が振り抜かれた。
何もない空間に、一本の線が走る。
「え……」
線が裂けた。
その向こうには、光も闇もない。
そこだけ世界が切り取られたような亀裂。
「全員伏せろ!」
ゼノンの声。
直後。
ミレナの箒が強く光った。
「わっ!?」
身体が浮く。
いや。
違う。
引かれている。
空間の裂け目へ。
椅子が舞い上がる。
机が滑る。
悲鳴が上がる。
十三堰も。
候補者たちも。
広間にいた者すべてが、抗えない力で裂け目へ引きずり込まれていく。
(先生!)
『接続を維持します!』
視界が反転した。
上も下も分からない。
身体が何度も回る。
そして。
何も見えなくなった。
◇
「……痛い」
最初に感じたのは、背中の痛みだった。
エルネはゆっくり目を開ける。
薄暗い、巨大な石造りの空間。
太い柱が左右に並び、その奥には段差のついた祭壇らしきものが見える。
壁には古びた彫刻が刻まれ、ところどころに火の消えた燭台が残されていた。
「ここ……」
どう見ても、どこかの神殿の中だった。
『意識状態、正常です』
(先生)
『はい』
それだけで少し安心する。
身体を起こす。
万象解体書は、すぐ横に落ちていた。
慌てて拾い上げる。
それから、周囲を見回した。
人が倒れている。
十三堰の姿はない。
フィーネも、イストもいない。
いるのは、評議会の見学席にいた者たちばかりだった。
「……っ」
少し離れたところで、カーマが身を起こした。
額を押さえながら、すぐに周囲を見回す。
「大丈夫? アルランド」
「……なんとかな」
呼びかけられた少年が、ゆっくりと立ち上がった。
短く整えられた濃い茶髪。
年齢はエルネたちより少し上に見える。
細身だが姿勢がよく、目を覚ますなり周囲へ鋭い視線を走らせていた。
アルランド。
エルネは、その名前を頭の中で覚える。
「エスター、君は」
アルランドが、近くに倒れていた少年へ手を差し伸べた。
少年は黙ってその手を取り、立ち上がる。
「平気。なんともない」
明るい金髪。
色白で、整った顔立ちをしている。
だが、表情はほとんど動かない。
口数も少ないらしい。
「シュリとノアは?」
「いるわ」
返事をしたのは少女だった。
真っ直ぐな黒髪を後ろでまとめた、いかにも真面目そうな少女。
起き上がると、まず服についた埃を払っている。
「ノアもいる」
カーマが視線を向ける。
少し離れた場所で、ノアが床に座ったまま天井を見上げていた。
「……何してるのよ」
「見てる」
「何を?」
「天井」
「見れば分かるわよ」
「じゃあ聞かなくてもよかったね」
「ほんっと、あんたは……」
カーマが苛立ったように息を吐く。
エルネは少し離れたところから、その様子を見ていた。
どうやら全員、大きな怪我はなさそうだ。
アルランドが壁へ近づき、石面へ手を触れる。
「ここは……聖地のどこだ?」
「こんな場所、見たことないわよ」
カーマが言う。
「私たちが知らない場所という可能性もあります」
シュリが周囲を見回す。
「それなら確認すればいい」
アルランドが片手を上げた。
その掌に。
淡い光が灯る。
「……え?」
エルネが目を見開いた。
魔力。
間違いない。
カーマもすぐに気づく。
「魔法が使える?」
「ああ」
アルランドは掌の光を消した。
「ここは聖地ではない」
空気が変わった。
聖地アルブレヒトでは、魔法そのものが成立しない。
それなのに、ここでは何の抵抗もなく術が発動した。
「じゃあ」
シュリの表情が険しくなる。
「私たち、どこまで飛ばされたの?」
「分からない」
アルランドが周囲を見渡す。
「少なくとも、聖地の施設内を移動しただけではないだろうな」
エルネも自分の内側へ意識を向ける。
確かに。
聖地にいた時の、何かを塞がれているような感覚がない。
(先生)
『はい』
(ここ、聖地じゃないんだよね)
『魔力環境から判断して、その可能性は極めて高いです』
(じゃあ、どこなの?)
『不明です』
(だよね……)
「……っ」
突然、カーマがこめかみを押さえた。
「なに?」
アルランドも顔をしかめる。
「声がする」
「私も」
シュリが周囲を見回した。
エスターは黙っていたが、眉がわずかに動いている。
ノアも天井から視線を下ろした。
エルネにも分かった。
ロゴスではない。
もっと奥。
万象解体書から伸びた何かが、この場にいる全員へ触れている。
『複数対象への接続を確認しました』
(みんなに!?)
『はい』
エルネは腕の中の本を見る。
「ちょっと待って。何してるのよ」
返事は、エルネだけに向けられたものではなかった。
その場にいる全員の意識へ、同時に声が響く。
≪万象解体書の所持者に相応しい人間は、未だ決定されておりません≫
カーマが顔を上げた。
「……所持者?」
≪始祖の偉大な魔力を受け継げば、世界をより良い方向へ導けるでしょう≫
アルランドの目が細くなる。
エスター。
シュリ。
カーマ。
それぞれの視線が。
少しずつ、エルネの腕の中へ向いていく。
(先生)
『はい』
(これ、なんか嫌な感じしない?)
『同意します』
そして。
万象解体書は続けた。
≪貴方がたが指をくわえて見ていれば――≫
エルネは反射的に本を抱きしめた。
≪継承者は、エルネ・フィルに決定されます≫




