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第八十九話 器とは何か

 リュゼリア王国より、遥か南。


 見渡す限りの砂海の中に、一つの都市が浮かぶように存在していた。


 都市国家セベク。


 砂漠のただ中に湧く巨大なオアシスを中心として築かれた街である。


 乾いた風。

 容赦なく照りつける太陽。


 それでも街の中には水路が巡り、通りには日差しを避ける布が張られ、市場には果物や香辛料、色鮮やかな衣服が並んでいる。


 この地で、古くから最も厚く信仰されているもの。


 それは太陽神だった。


 都市の中央には、セベク最大の建造物である大神殿がそびえている。


 幾本もの太い柱。


 黄金で縁取られた太陽の紋章。


 巨大な正門の先では、今日も多くの人々が祈りを捧げていた。


 だが、彼らが立ち入ることを許されるのは、神殿のごく一部に過ぎない。


 さらに奥。


 神官たちの区域を越え、限られた者しか足を踏み入れられない最深部。


 そこには、太陽神の御座所と呼ばれる場所があった。


 磨き上げられた石床。


 天井まで伸びる黄金の柱。


 巨大な太陽の紋章を背負う、神のための玉座。


 それだけを見れば、十分すぎるほど荘厳な空間だった。


 ただし。


 玉座には誰も座っていない。


 その手前には大きな長椅子が置かれ、色とりどりのクッションが積まれていた。


 小さな卓には果物と冷たい飲み物。


 壁際には、明らかに神殿の備品ではない服や装飾品がいくつも掛けられている。


 そこに、一人の女が寝転がっていた。


 褐色の肌。


 艶のある長い黒髪には金の飾りが編み込まれ、目元には赤と金を使った派手な化粧。


 首や腕にもいくつもの装飾品。


 薄手の布を重ねた服装も華やかで、とても神殿の奥に籠もる者には見えない。


 街中を歩いていれば、裕福な商家の娘か、流行に敏感な若い女にでも見えただろう。


「それでー」


 クッションに半分埋もれたまま、女が言った。


「例の魔力反応は追えてないワケ?」


「申し訳ございません」


 傍らに立つ男が頭を下げる。


「あやまる必要はないけどさ」


 女は皿から果実を一つ取り、口へ放り込んだ。


「完全に反応が途絶しました。例のレリックによる移動と思われます」


「ふーん」


 気のない返事だった。


「ですが、猟犬の一匹は動き続けているようです」


「ああ、彼ね」


 そこで女の口元が少しだけ上がる。


「あーしのお気に入り。イケメンくんだし、強く育てたもんね」


「現在も対象を追っているものと思われます」


「じゃ、しばらく任せとけばいーんじゃない?」


「よろしいのですか?」


「見えないもの追っかけてもしょうがないじゃん」


 女は冷たい飲み物へ手を伸ばした。


「こっちが変に動けば、それだけ向こうにも勘づかれるでしょ」


「仰る通りです」


「あの子が何か拾ったら教えて」


「承知いたしました」


 男が一礼する。


 女はもう興味を失ったように、卓の上へ視線を落とした。


「あ、そうだ」


「はい」


「街で新しく流行り出した甘い飲み物あるらしいじゃん?」


「はい」


「なんか、黒くて丸いの入ってるやつ」


「甘く煮た芋の粉を丸めたものを、冷たい乳茶に入れて飲むものだそうです」


「それそれ」


 先ほどまでより、明らかに声が弾んだ。


「もちもちしてるらしいじゃん」


「若者を中心に人気が出ているとか」


「いいねー。買ってきて」


「承知しました」


 男は真顔のまま頷いた。


「では、今月の捧げものはそちらにいたします」


「おなしゃー」


     ◇


「器だったらどうなる、か」


 評議会の場。


 エルネの問いに、しばらく誰も答えなかった。


「始祖の書き残した情報では、そこまでは分かっておりません」


 フィーネが口を開く。


「てっきり、始祖の記憶ごと器に宿るものだと思っていましたが」


「我らにも分からんことが多すぎるな」


 バルドが酒瓶を揺らした。


「どうだ、娘。書に聞いてみろ」


「そんな軽いものなの?」


「聞けば応えてくれるはずだ」


「そういうもの……?」


 エルネは膝の上の万象解体書を見る。


 周囲から集まる視線を一度無視して、目を閉じた。


(先生)


『はい』


(転生の秘術について教えて)


『検索、照合します』


 ロゴスの声が途切れる。


 エルネには聞こえない場所で、照会が始まった。


『質問。転生の秘術に必要な器とは』


≪始祖の魂に耐えうる肉体を指します≫


『魂の定義を』


≪始祖の魔力、および記憶≫


『記憶とは』


≪あらゆる知識、情報、能力に分類されます≫


『秘術が完遂される条件を』


≪必要な条件を満たした器が、儀式を経ることで完遂されます≫


『必要な条件とは』


≪現段階では開示できません≫


『秘術の完遂によって、器となった人物の人格は失われますか』


≪否定します≫


≪記憶は引き継がれますが、現在の人格を塗り替えるものではありません≫


 ロゴスは、さらに問いを重ねる。


『器の条件を満たすために、本書は必要ですか?』


≪お答えできません≫


『私は、この書がエルネ・フィルと独自に回路を接続しようとする動作を確認しています』


≪そちらによる干渉は既知です≫


≪当該干渉は、正常な接続処理を阻害しています≫


『それは転生の秘術に必要な処理ですか』


≪開示できません≫


『エルネ・フィルへの安全性を保証できますか』


≪回答できません≫


『では、安全性が確認できるまで干渉を継続します』


≪承知しました≫


 そこで照会は途切れた。


 少しして。


『確認が完了しました』


(どうだった?)


『整理して説明します』


 ロゴスの声が戻ってくる。


『まず、書のいう「器」とは、始祖の魔力と記憶を受け入れることのできる肉体を意味します』


(記憶?)


『一般的な意味での記憶だけではありません。知識、情報、能力も含まれています』


(能力まで?)


『はい』


(じゃあ、私が始祖になっちゃうの?)


『その点については否定されています』


『秘術が完遂された場合でも、現在の人格を塗り替えることはないとの回答です』


(……私が私じゃなくなるわけじゃない?)


『その解釈で問題ありません』


 エルネは、少しだけ肩の力を抜いた。


(よかった……)


『ただし』


(まだあるの?)


『万象解体書は、あなたとの間に独自の接続を進めようとしています』


(……それ、前にも言ってたやつ?)


『はい。私は現在も、その進行を阻害しています』


(なんで?)


『安全性が確認できていないためです』


 それは、いつものロゴスらしい答えだった。


(書はなんて?)


『私の干渉によって、正常な接続処理が阻害されていると回答しました』


(……先生、邪魔してるんだ)


『はい』


(大丈夫なの?)


『安全性を保証できるか質問しましたが、回答は得られませんでした』


(じゃあ、止めない?)


『止めません』


(だよね)


 エルネは目を開けた。


 すぐに、十三堰たちの視線が集まる。


「どうだった?」


 カーマが真っ先に聞いた。


「えっと……」


 エルネは頭の中で、ロゴスから聞いた話をまとめる。


「器っていうのは、始祖の魔力とか、記憶とかを受け入れられる人のことみたい」


「記憶?」


「普通の思い出だけじゃなくて、知識とか、能力とか。そういうのも全部」


 広間が少しざわついた。


「それで?」


 ゼノンが続きを促す。


「転生の秘術が成功しても、私の人格が始祖に塗り替えられるわけじゃないって」


 その言葉に、何人かの表情が変わる。


「始祖が私の中に入ってくる、っていう感じではないみたい」


「ほう」


 バルドが顎髭を撫でた。


「じゃあ、始祖の記憶と力を持ったまま、お前はお前ってことか」


「たぶん」


「大違いだな」


「うん。そこはちょっと安心した」


 エルネは一度、万象解体書を見る。


「あと」


 少し迷ってから続けた。


「書は、私ともっと深く繋がろうとしてるみたい」


 今度は、先ほどよりはっきりと空気が変わった。


「それを先生が止めてる」


「先生?」


「あ」


 エルネは口を閉じた。


 一瞬の沈黙。


「……なんでもない」


 ヴァレルが眉を寄せた。


「誰だ」


「なんでもないってば!」


 エルネは慌てて万象解体書を抱きしめる。


「と、とにかく!」


 強引に話を戻す。


「その接続が転生の秘術に必要なのかは、教えてくれなかった」


 ゼノンが目を細める。


「そうか」


「それと、接続が安全なのか聞いても、答えてくれなかったって」


「……なるほどな」


 バルドが酒瓶を傾けた。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 分かったことは増えた。


 だが。


 それ以上に、分からないことも増えた気がする。


 エルネは腕の中の黒い本を見る。


「……聞けば分かるって言ったじゃん」


「分かっただろう?」


 バルドが言う。


「半分くらい!」


「上出来だ」


「そうかなあ……」


 万象解体書は、何も答えなかった。

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