第八十八話 もし私が器だったら
「器って、なに?」
エルネの声が、広い部屋に響いた。
誰かが答えると思った。
だが、十三堰の面々は互いに顔を見合わせるでもなく、ただエルネを見ている。
「……え、本当に私だけ知らないの?」
「そうみたいね」
見学席からカーマの声。
「だから笑ってたの?」
「少しだけ」
「あとで覚えてなさいよ」
「静粛に」
フィーネに注意され、エルネは口を閉じた。
「説明を」
第一堰、ゼノンが口を開く。
「本人が知らぬままでは、審議にもならん」
「承知いたしました」
フィーネが一礼する。
「エルネ様。以前、始祖についてお話ししたことは覚えていらっしゃいますか?」
「うん。ものすごく強い魔術師だった人でしょ」
「はい」
何百年も前。
強大な魔力と、数多くの魔法具を扱う才を持ち、各地の争いを収め、魔獣を倒し、国々を救ったという人物。
教団の始祖。
「その時も思ったんだけど」
「はい」
「そんなにすごい人なのに、なんで私、その人の名前すら知らなかったの?」
フィーネは少しだけ黙った。
「本で読んだこともないし、授業で習ったこともないんだけど」
「……かつては、広く知られた名だったと伝えられています」
「かつては?」
「はい」
「じゃあ、なんで今は知られてないの?」
「それについて、私たちにも明確な答えはありません」
「ないの?」
「ありません」
意外な返事だった。
「長い年月の中で、始祖について語られる機会そのものが減っていきました。残された記録も、決して多くありません」
「教団の人たちも分かんないんだ」
「はい」
「……変なの」
「我々もそう思っている」
ゼノンが言った。
「だが、それは今日の議題ではない」
「あ、はい」
きっぱり切られた。
フィーネが続ける。
「始祖は晩年、ある存在を追っていたとされています」
「ある存在?」
「世界を陰から脅かすもの、とだけ」
「何それ」
「詳細は残っていません」
「また?」
「またです」
フィーネは少し困ったように笑った。
「始祖はその存在を調べ、やがて戦いました。そして――敗れた」
エルネの表情が変わる。
「負けたの?」
「はい」
あれほど強かったと聞かされた人物が。
「その時に負った傷が原因となり、始祖は亡くなったと伝えられています」
「……それで、ここが始祖の最期の地なんだ」
「はい。聖地アルブレヒトとなりました」
『……アルブレヒト』
突然、ロゴスが呟いた。
(先生?)
返事がない。
(どうしたの?)
『照合中です』
(何を?)
少し間が空く。
『名称に対し、既知情報との一致反応を確認しました』
(知ってるの?)
『不明です』
(不明?)
『参照可能な記録内に、該当項目を確認できません』
(じゃあ知らないんじゃないの?)
『通常であれば、その判断になります』
(通常であれば?)
『現時点では説明できません』
「エルネ様?」
「あ、ごめん。なんでもない」
フィーネが不思議そうに首を傾げる。
エルネは黒い本を抱え直した。
「続けて」
「はい」
始祖が亡くなった時、その傍らには十三の魔法具が残されていた。
現在、十三堰が受け継いでいるレリック。
「十三個……」
エルネは周囲を見回す。
ヴァレル。
酒瓶を持ったバルド。
片眼鏡のオスカー。
大きな帽子のポーラ。
懐中時計を弄るフェリクス。
そのいくつかが急に気になった。
「まさか、それって……」
「今は器のお話を」
フィーネに戻された。
「はい」
「ですが、始祖が残したとされるもののうち、一つだけ、その場になかったものがあります」
エルネは腕の中を見る。
「……これ?」
「はい」
万象解体書。
「始祖が、その知識を記したとされる魔導書です」
部屋の視線が再び黒い本へ集まった。
「待って。でもこれ、学院が管理してる演習用のダンジョンにあったんだけど」
「はい」
「なんで?」
「分かりません」
「……分かんないの?」
「なぜあの場所にあったのか。なぜ長い間、誰にも見つからなかったのか。それも分かっていません」
「じゃあ、何も分かんないじゃない」
「そうだ」
ヴァレルが答えた。
「だが、今はある」
「……」
「お前が見つけた。それで十分だ」
「十分なの?」
「今、重要なのはそこだ」
エルネは黒い表紙を見下ろした。
「始祖の亡骸が発見された際、短い書き置きも残されていたそうです」
フィーネが続ける。
「原本はすでに失われています。現在残っているのは、その一部を書き写した記録だけですが」
「何て?」
フィーネが静かに読み上げる。
「――我が身は朽ちようとも、我は再びこの世界に生まれる」
エルネは瞬いた。
「――我が魂は、新たなる器を得て帰還する」
「……器」
「はい」
今度は意味が分かった。
分かったせいで、分からないことが増えた。
「つまり……生まれ変わるってこと?」
「我々は、そう解釈しています」
「誰かの体に?」
「正確なところは分かりません」
「また分かんないの!?」
「始祖が蘇ったという確かな例が、一度もないのです」
「一度も?」
何百年も経っているのに。
「じゃあ、どうやって器を探してきたの?」
「それを説明しよう」
ゼノンが腕を組んだ。
「始祖の死後しばらく、教団には今より遥かに大きな力があった」
「力?」
「国々との繋がりだ」
始祖に救われた国。
助言を受けた王。
命を救われた貴族。
そうした者たちがまだ生きていた時代、教団は表立って活動していたという。
「各国の協力を得て、生まれた子供を調べた」
「子供?」
「魔力量が異常に多い者。幼少から特殊な魔法を扱う者。魔法具との適性が極めて高い者」
フィーネが補足する。
「始祖と似た特徴を持つ子供たちです」
「それが器候補?」
「はい」
エルネは見学席を見る。
カーマが腕を組んだまま、こちらを見ている。
ほかにも何人か。
同じくらいの歳の子供たち。
「……じゃあ、あそこにいる人たちも?」
「候補として調べられた者たちです」
「カーマも?」
「そうよ」
本人が答えた。
「ずっと前からね」
「へえ……」
「何、その反応」
「いや、意外とちゃんと理由があったんだなって」
「喧嘩売ってる?」
「静粛に」
二度目だった。
エルネは前を向く。
「ですが」
フィーネが続けた。
「時代が進むにつれ、教団と国々との繋がりは弱くなりました」
「始祖が忘れられていったのと同じ頃?」
「おおむね」
「それも理由は分かんない?」
「完全には」
「……ほんとに分かんないこと多いわね」
誰も否定しなかった。
「さらに、器候補の捜索にも邪魔が入るようになりました」
「邪魔?」
「我々より先に候補へ接触する者が現れたり、保護しようとすると逃がされたり」
「誰が?」
「分かっていない」
ヴァレルが短く答えた。
「何度も?」
「ああ」
「それで隠れるようになったの?」
「そういうことだ」
国の協力を失い。
捜索を妨げられ。
教団は次第に表舞台から姿を消した。
「現在は、候補になり得る子供を見つけても、まずは静かに観察します」
「観察」
エルネは嫌そうな顔をした。
「そういう言い方をすると怖いんだけど」
「事実ですので」
「もっと優しく言ってよ」
「見守ります」
「急に優しくなった」
「必要であれば保護も行います」
フィーネは続ける。
「その際は、追跡されないよう、記録を整理する場合もあります」
「記録?」
「居住記録や家族情報などです。突然人が消えたように見えれば、かえって目立ちますから」
「そのままずっとここにいるの?」
「いいえ。器ではないと判断された者は、本人の意思を確認します」
「帰りたいって言ったら?」
「帰っていただきます」
「普通に?」
「教団については、忘れていただいた上で」
「……忘れる?」
「聖地や十三堰、器に関する記憶を残したまま外へ戻すわけにはいきませんから」
エルネは少しだけ顔をしかめた。
「それ、本人が嫌って言ったら?」
「その場合は、残ることを選んでいただくことになります」
「選択肢、だいぶ狭いわね」
「そうですね」
フィーネは否定しなかった。
「カーマは?」
「まだ候補」
「しぶといのね」
「どういう意味よ!」
「静粛に」
三度目だった。
フィーネが少しだけ疲れた顔をした。
「では」
エルネは首を傾げる。
「なんで私だけ、あっちじゃなくてここなの?」
見学席。
候補たちはそこにいる。
自分だけが十三堰の正面に座っている。
「私も候補なんでしょ?」
「はい」
「なら同じじゃないの?」
「違う」
答えたのはヴァレルだった。
「何が?」
ヴァレルの視線が、黒い本へ落ちる。
「それだ」
エルネも本を見る。
「万象解体書?」
「ああ」
フィーネが頷いた。
「器候補は、これまで何人もいました」
「何人くらい?」
「正確な数は残っていません。少なくとも、数百年にわたって」
「そんなに?」
「ですが」
フィーネが黒い本を見る。
「その誰一人として、万象解体書を持ってはいませんでした」
部屋が静かになる。
「始祖の死後、この本は行方不明になりました」
「ずっと?」
「はい」
エルネが学院の地下で見つけるまで。
「我々が探しても、見つけることはできなかった」
ゼノンが言う。
「それを、お前は見つけた」
「偶然だけど」
「そして本は、お前に反応した」
「……」
エルネは黒い表紙を撫でた。
あの日。
魔法陣。
召喚。
ロゴス。
そして、自分。
「それが」
フィーネが言う。
「エルネ様が、ほかの器候補と異なる最大の理由です」
「……私が器だから?」
「それを」
ゼノンの低い声が落ちる。
「これから審議する」
エルネは十三堰を見回した。
十人。
その全員が、自分を見ている。
少し考えてから、手を上げた。
「じゃあ、もう一個いい?」
「どうぞ」
「もし」
言いながら、少しだけ言葉に詰まる。
「もし本当に、私が器だったら」
黒い本を抱く手に力が入った。
「私、どうなるの?」




