第八十七話 十三堰
朝。
エルネは、フィーネが用意してくれた朝食を食べていた。
パンをちぎってスープに浸し、口へ運ぶ。
聖地アルブレヒトへ来てから何日か経ったが、地下での生活にも少し慣れてきた。
慣れたくはなかった。
「今日も何も教えてくれなかったなあ」
朝食を運んできたフィーネに聞いてみた。
今日は何をするのか。
ヴァレルたちは何をしているのか。
集まってきた人たちは誰なのか。
答えは全部、
「もうしばらくお待ちください」
だった。
「もうしばらくって、いつまでよ」
『通信経路の再構築が完了しました』
「うん。そうなのよ。みんなそればっかりで……」
エルネの手が止まった。
「……え?」
『おはようございます』
聞き慣れた声だった。
フォークが皿の上に落ちる。
「先生!?」
『はい』
「先生!」
『音量の上昇を確認』
「だって! ずっと呼んでも返事しなかったじゃない!」
『通信不能でした』
「通信不能?」
『この場所では、貴方との従来の接続経路を維持できませんでした』
「じゃあ、今は?」
『別経路による接続を確立しました』
「……よく分かんない」
『接続が回復した、という理解で問題ありません』
「最初からそう言ってよ」
エルネは黒い本を手に取った。
返事がないことには、ずっと引っかかっていた。
(先生)
『はい』
(怒ってないの?)
『何に対してでしょうか』
(ヴァレルについてきたこと)
あの時。
ロゴスの忠告を聞かなかった。
自分で考えて、自分で決めて、ヴァレルについてきた。
(先生、止めたじゃない)
『はい』
(だから……怒ってるのかと思ってた)
少し間があった。
『私は、貴方がよりよい存在になれるよう補助してきたつもりです』
(うん)
『ですが、選択するのは貴方です』
エルネは黙って聞く。
『貴方が選んだ道であれば、その先を補助することが私の役割です』
(……怒ってない?)
『怒っていません』
「そっか」
自然と声が漏れた。
胸の奥に引っかかっていたものが、少し取れた気がする。
(じゃあ、ずっと無視してたわけじゃないんだ)
『通信不能でした』
(でも今は話せる)
『はい』
(よかった)
エルネはもう一度パンを口へ運んだ。
『なお、食事中の発声は推奨しません』
「先生、戻ってきたばっかりなのにうるさい」
『通常状態へ復帰したものと判断します』
「そういう意味じゃない!」
久しぶりに黒い本へ文句を言えた。
なんだか、それだけで少し嬉しかった。
◇
昼前。
部屋の扉が叩かれた。
「エルネ様」
「はーい」
扉を開ける。
「……フィーネさん?」
「はい」
そこにいたのは、いつものフィーネだった。
いや。
顔はいつものフィーネだが、服が違う。
普段の簡素な服ではなく、黒を基調とした長衣。襟や袖には銀糸で細かな意匠が施され、髪もきっちりとまとめられている。
「どうしたの、その格好」
「本日は正式な評議会ですので」
「評議会?」
「皆様がお待ちです」
「私も行くの?」
「そのためにお迎えに参りました」
嫌な予感しかしない。
「……行かないのはダメ?」
「もちろんです」
フィーネは笑って歩き出した。
エルネも黒い本を抱え、その後を追った。
◇
案内されたのは、聖地のさらに奥だった。
大きな石扉を抜ける。
その先に、円形の広間があった。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
正面を囲むように十三の席。
すでに多くが埋まっていた。
年齢も服装も、まるで違う。
老人もいれば、若い男もいる。
大柄な男、小柄な女。
ただ、全員が同じ銀色の徽章を身につけていた。
そして部屋の端には、少し離れて椅子が並んでいる。
そちらにも人がいた。
「あ、イストさん」
「どうも」
イストが軽く頭を下げる。
その近くにはカーマもいた。
目が合う。
「……何よ」
「まだ何も言ってないでしょ」
「言いそうな顔してた」
「どんな顔よ」
さらに視線を動かして――止まる。
「ノア?」
聖環学院のノア・ヴェイル。
対抗戦で、エルネと黒い本を妙な空間に閉じ込めた相手だ。
戦うよりも、こちらを観察することに熱心だった変な男。
どうしてそんな人物がここにいるのか。
ノアと目が合った。
にこりと笑う。
片手を上げる。
ひらひら。
「……なんでいるのよ」
もう一度。
ひらひら。
「説明する気ないでしょ」
笑顔だけが返ってきた。
『肯定と推定します』
(先生まで)
ほかにも何人か、エルネとそう歳の変わらない者たちが座っている。
「エルネ様はこちらです」
フィーネに案内されたのは、彼らの隣ではなかった。
広間の中央。
十三の席からよく見える場所に、一つだけ用意された椅子。
「……私、ここ?」
「はい」
ものすごく座りたくない。
だが、全員が待っている。
エルネは仕方なく腰を下ろした。
フィーネが中央へ進む。
先ほどまでの柔らかな表情が消えた。
「お待たせいたしました」
広間を見渡す。
「これより、十三堰評議会を開会いたします」
空気が変わった。
「まず、出席を確認いたします」
フィーネが紙を開く。
「第一堰――勅命、ゼノン・アークライト様」
「うむ」
低い声が返る。
角ばった顔に、短く刈り込まれた鉄灰色の髪。
年齢は重ねているようだが、痩せてもいなければ枯れてもいない。
背筋を伸ばして座る姿は、魔術師というより軍人に近かった。
片方の眉の上には、古い傷が一本走っている。
「第二堰――開かずの門のアーデル・ケイン様」
「いる」
青白い顔をした痩せた男。
神経質そうな目だけがエルネへ向けられ、すぐに逸れた。
「第三堰――断界のヴァレル・ノクティス様」
「ああ」
ヴァレル。
腰には見慣れた短剣。
この場でも、いつもと何も変わらない。
「第四堰――堕天のミレナ・オルブライト様」
「いるわよ」
長い茶髪の女が、眠そうに片手を上げる。
以前会った時と同じ、気怠そうな顔。
「第五堰――眠らぬ夢、ネロ・ファルネーゼ様」
返事はない。
「欠席」
フィーネはそのまま続ける。
「第六堰――千年酔い、バルド・ヘイグ様」
「おう」
大柄な男が酒瓶を掲げた。
白髪交じりの髭に、少し赤い顔。
(……名前通り)
『二つ名との整合性は高いと判断します』
「第七堰――禍福のオスカー・ヴェルナー様」
「こちらに」
片眼鏡をかけた細身の男が、軽く頭を下げた。
エルネを見に来たことのある男だ。
口元には薄い笑み。
「第八堰――尺度知らずのポーラ・ミュレイ様」
「はーい」
小柄な女性が元気よく返事をする。
目を引くのは、本人よりも大きく見える帽子だった。
「第九堰――絵空事、アルトゥール・レーヴェ様」
「はい」
痩せた男が答える。
地味な服装に、長い指。
視線はエルネより、その腕の中の万象解体書に向いていた。
「第十堰――追いつけぬ者、フェリクス・ローデン様」
「いますよ」
即答。
若い男が指先で懐中時計を弄んでいる。
(返事まで早い)
「第十一堰――万里を手繰る、ガラム・バスティア様」
「おう」
日に焼けた大男。
「あ」
エルネはすぐ思い出した。
わざわざ自分を見に来て、
「……小さいな」
と言って帰った男だ。
目が合う。
ガラムが口元だけで笑った。
エルネは少し睨んだ。
「第十二堰――明日なき、モルガナ・クレメンス様」
返事はない。
「欠席」
「第十三堰――無明、クロード・ノクス様」
最後の席も空いている。
「欠席」
フィーネが紙を閉じた。
「出席十名、欠席三名。規定数を満たしております」
「三人は待たなくていいの?」
エルネが聞く。
「十分待った」
ヴァレルが答えた。
「十名揃えば評議会は成立する」
「全員呼んだんでしょ?」
「そのために数日待った」
「ああ……」
言われてみれば、その間に少しずつ人が増えていた。
「これ以上待つ必要はない」
「そういうものなのね」
「そういうものだ」
フィーネが一枚、別の紙を手に取った。
「それでは、本日の議題へ移ります」
さっきまで何となくこちらを見ていた十人の視線が、一斉に集まった。
「本日の議題」
フィーネが読み上げる。
「始祖の器候補――エルネ・フィル様についてです」
「……え?」
エルネは瞬いた。
見学席を見る。
カーマも。
イストも。
ノアも。
驚いていない。
「ちょっと待って」
エルネは手を上げた。
「はい」
「器って、なに?」




