第八十六話 兄
指定された時刻。
セレスティアは王都の外れにある、小さな屋敷へ足を踏み入れた。
表向きは、王家とは何の関係もない場所だ。
学院を出てから何度か道を変え、遠回りをし、後ろを振り返ることも何度かあった。
尾行されている気配はない。
それを確認してから、ようやく中へ入る。
兄に会うだけだというのに、ずいぶん面倒な話である。
案内された奥の部屋へ入る。
そこに、一人の青年が待っていた。
淡い金髪に、穏やかな目元。
簡素な服装をしていても、育ちの良さまでは隠せない。
リュゼリア王国第一王子。
アレクシス・エル・リュゼリア。
セレスティアの姿を見た瞬間、アレクシスの顔がぱっと明るくなった。
「セレフィナ!」
両腕を広げ、そのままこちらへやってくる。
セレスティアは一歩、横へずれた。
アレクシスの腕が虚しく空を抱く。
「……避けるのか?」
「避けるわよ」
「三年ぶりだぞ?」
「三年ぶりでも避けるわ」
アレクシスは残念そうに腕を下ろした。
「久しいな。セレフィナ」
「兄様……その名前で呼ばないで」
「ここには我々しかいないだろう」
「そういう問題じゃないのよ」
「昔は喜んで抱きついてきたというのに」
「それ、何歳の話?」
「五歳くらいだったか」
「十年以上前じゃない」
「私にとっては昨日のことのようだ」
「そう。私は覚えてないわ」
「セレフィナ……!」
「はいはい」
適当に受け流し、セレスティアは椅子へ向かった。
アレクシスも向かいへ腰を下ろす。
「しかし、大人になったな」
「三年経ってるもの」
「ますます母上に似てきた」
「そう?」
「ああ、セレフィナ。母上譲りの輝かんばかりの美貌!」
「ええ、ありがとう。言われ慣れてるわ」
「学院の男どもは放っておかんだろう」
「その話、する?」
「兄として当然気になる」
「じゃあ気にしてて」
「誰かいるのか?」
「いないわよ」
「そうか!」
「嬉しそうね」
「気のせいだ」
「顔に出てるわよ」
アレクシスは咳払いをひとつした。
王国の第一王子として人前に立つ姿しか知らない者が見れば、目を疑うだろう。
だが、セレスティアにとっては昔からこうだった。
――いや。
セレスティアという名を使うよりも、ずっと昔から。
彼女の本当の名は、セレフィナ・エル・リュゼリア。
リュゼリア国王の長女。
第一王女。
地方貴族の娘、セレスティアというのは、学院で過ごすために用意された身分だった。
目の前にいるアレクシスは、第一王子にして第一王位継承者。
幼い頃から、セレフィナは兄を慕っていた。
人の話をよく聞き、学ぶことを怠らず、王族としての責任から逃げようともしない。
王になるのなら兄がいい。
それは昔から変わっていない。
だが、一つだけ問題があった。
アレクシスは、王族としては魔力に恵まれていなかった。
対してセレフィナは、幼い頃から並外れた魔力を持っていた。
王家の血を引く者として見ても、その才は明らかに突出していた。
幼いセレフィナの魔法を見ていた当時の宮廷魔導士長――現在の学院長は、そこに危うさを感じていた。
第一王子は魔力に乏しい。
第一王女は、類を見ないほどの魔法の才を持つ。
本人たちにその気がなくとも、それを理由に王位争いを起こそうとする者が現れないとは限らない。
学院長は国王へ進言した。
セレフィナを、一度王宮から遠ざけるべきだと。
セレフィナ自身も、それを望んだ。
王位に興味はない。
兄と争うなど、もっとない。
それよりも、自分にはやりたいことがあった。
魔法を学ぶこと。
自分の持つ力を、もっと知ること。
どこまで届くのかを確かめること。
王女として王宮に残るより、魔法を極める道を選んだ。
国王と王妃は、最後まで渋った。
娘を王位争いから遠ざけるためだと理解していても、簡単に納得できる話ではなかった。
それでも最後には、娘本人の意思を尊重した。
ただ一人。
最後まで納得しなかった者がいる。
アレクシスだった。
「嫌だ! セレフィナをどこへやるつもりだ!」
普段の落ち着いた第一王子の姿など見る影もなく、大騒ぎした。
妹を行かせるくらいなら自分もついていくと言い出し、父王が説得しても、母が宥めても聞かなかった。
最後にはセレフィナ本人にしがみついた。
結局、兄を妹から引き離すのに一昼夜かかった。
セレフィナが王宮を離れるにあたり、もう一つ問題があった。
第一王女が突然姿を消せば、それだけで余計な憶測を呼ぶ。
そこで王宮には、セレフィナの代わりとなる影武者が用意された。
容姿のよく似た少女が、必要な場にだけ第一王女として姿を見せる。
公の行事や、王宮内での最低限の務めも彼女が代わりを務めていた。
だから世間から見れば、第一王女セレフィナ・エル・リュゼリアは今も王宮にいる。
一方、本物の第一王女は名を変えた。
セレスティア。
地方貴族の娘として学院へ入り、自分の望んだ道を歩いている。
「……セレフィナ?」
呼ばれて、セレスティアは意識を戻した。
「なに?」
「急に黙ったからな」
「昔のことを思い出してただけよ」
「私との思い出か?」
「兄様が一昼夜泣き叫んだ話」
「……その話は忘れなさい」
「無理ね」
「子供の頃の話だ」
「兄様、十五歳だったでしょ」
「……」
「十分大きいわよ」
アレクシスは目を逸らした。
セレスティアは小さく笑う。
それから、表情を改めた。
「兄上」
「なんだ?」
「お願いしていた件だけど」
アレクシスの顔から、先ほどまでの緩さが消えた。
「ああ。読んだ」
机の上には、セレスティアが学院長へ預けた書が置かれていた。
「まずは、断界のヴァレルについてだ」
「何か分かった?」
「ほとんど何も」
「そう」
「その名で活動していた形跡も、出自も確認できなかった」
「でしょうね」
「だが、お前から聞いた内容には気になる点がある」
「私のこと?」
「ああ」
アレクシスが頷く。
「なぜ、その男がお前の正体を知っていた?」
セレスティアの目が細くなる。
「それが分からないから、兄上に頼んだのよ」
「父上と母上にも確認した。王宮側から漏れた形跡はない」
「先生も違うでしょうし」
「私もそう思う」
アレクシスは腕を組んだ。
「となると、ヴァレルは別のところから、お前が第一王女だと知ったことになる」
「ええ」
「だが、そこでもう一つ疑問が出る」
「なに?」
「なぜ、お前なんだ?」
セレスティアが少し眉を寄せる。
「どういう意味?」
「王位を狙っている様子もない。王家へ要求があるわけでもない。なら、素性を隠している第一王女など、本来あの男には関係ないだろう」
「……そうね」
「なのに知っていた」
アレクシスの指が机を軽く叩く。
「そして、その男はエルネ・フィルを連れ去った」
セレスティアの顔から笑みが消えた。
「お前とエルネ・フィル」
「私たち?」
「何か共通点はないか?」
セレスティアは少し考える。
「……全然似てないけど」
「性格の話はしていない」
「分かってるわよ」
生まれも違う。
身分も違う。
育った環境も違う。
年齢だって違う。
けれど。
「……魔法?」
アレクシスが頷いた。
「私もそこを疑った」
「でも、エルネは――」
言いかけて、止まる。
少し前までなら、魔法の落ちこぼれ、と続けていただろう。
だが、今は違う。
既存の術式が使えない。
その一方で、誰も見たことのない魔法を次々と生み出した。
そしてヴァレルは、それを直接見ている。
「お前は幼い頃から、王族の中でも突出した魔力量を持っていた」
「ええ」
「エルネ・フィルは同種ではないかもしれん。だが、魔法に関して尋常ではない何かを持っているようだ」
「ヴァレルが見ているのは、そこ?」
「可能性の話だ」
「でも、調べる価値はある」
「ああ」
アレクシスは机の上に置かれた厚い資料へ手を伸ばした。
「だから遡った」
「何を?」
「過去の記録だ」
セレスティアの視線が資料へ落ちる。
「お前のように、幼い頃から突出した魔法の才を示した者。それから、記録に残る特殊な魔法の使い手」
「どこまで?」
「一週間で確認できるところまでだ」
「それで?」
セレスティアが身を乗り出した。
「何かあった?」
「あった」
アレクシスの返事は短かった。
「ただし、勘違いするな。魔法の才に恵まれた子供が次々と消えている、という話ではない」
「それは分かってるわ」
「ほとんどは何も起きていない。宮廷魔導士になった者もいる。軍人も、冒険者もいる。普通に老いて死んだ者も大勢いる」
「問題は、その中の一部?」
「ああ」
アレクシスは資料を開いた。
「ごく一部だけ、妙な記録がある」
「どんな?」
「幼少期までは残っている。出生も、家族も、魔力量も。どんな魔法を得意としていたかまで残っている者もいる」
「その後は?」
「ない」
「死んだ?」
「死亡記録はない」
「移住したとか」
「それも確認できない」
「じゃあ、どうなったの?」
「分からん」
アレクシスは首を横に振った。
「ある時点から、突然記録が途切れる」
セレスティアの眉が寄った。
「何人?」
「まだ全容は分からない。数は多くない」
「時代は?」
「ばらばらだ」
「最近の話じゃないの?」
「違う」
アレクシスは別の資料を開いた。
「もっと根が深い。ここ数カ月の話ではないようなのだ」
「どれくらい?」
「まだ分からん」
「一週間調べたのに?」
「一週間調べたから、分からなくなったんだ」
「なにそれ」
「私もそう言いたい」
アレクシスは少し疲れた顔をした。
「調べても調べても、すぐに痕跡が消える」
「消える?」
「あるはずの記録がない。別の資料では名前だけ抜けている。家族構成が食い違っているものまである」
「誰かが消した?」
「断定はできん」
「でも、偶然とは思ってない」
「ああ」
アレクシスは妹を見る。
「私が疑い深い性格でなかったら。お前絡みではなかったら、とっくに諦めていた程度にはな」
セレスティアは資料へ視線を落とした。
「……兄上」
「なんだ?」
「もう少し調べられる?」
「そのつもりだ」
「お願い」
「ああ」
しばらく沈黙が落ちた。
ヴァレル。
エルネ。
自分。
そして過去に記録から消えた、並外れた魔法の才を持つ子供たち。
まだ何も繋がってはいない。
それでも、偶然で片づけるには妙なものが増えすぎている。
「それと」
アレクシスが一枚の紙を取り出した。
「これは今回の調査のついでだ」
「なに?」
「学院にいる人間についても、いくつか確認した」
セレスティアが顔を上げる。
「最近、エルネ・フィルの他に突然いなくなった者がいるだろう?」
「いるわ」
「当ててみようか」
アレクシスは紙へ目を落とした。
「シオン・レイヴァン」
「……」
「少し妙だった」
「何が?」
「調べ始めた時は、何もおかしいと思わなかった」
セレスティアが眉を寄せる。
「なのに?」
「途中で気づいた」
アレクシスは紙を机の上へ置き、僅かに目を細めた。
そして、静かに続ける。
「シオン・レイヴァンは、失踪した訳ではない。つい先刻、部下がその姿を確認している」
「え?」
「だが――」
アレクシスはセレスティアを見る。
「お前の知っている男とは、別人のようだ」




