第八十五話 あんたもインチキなんじゃないの?
「この本もだけど――」
赤髪の少女が万象解体書から顔を上げた。
「あんたも、インチキなんじゃないの?」
「……は?」
エルネの眉がぴくりと動く。
「誰がインチキよ!」
「あんたよ、あんた」
少女は万象解体書を片手に持ったまま、もう一方の手でエルネを指さした。
「だって、おかしいじゃない。これが本当に万象解体書なら、始祖の術式が書いてあるはずでしょ?」
「知らないよ!」
「持ってるくせに?」
「私だって読めないんだから!」
「はあ?」
少女が呆れた顔をする。
「じゃあ、なんで持ってるのよ」
「私が聞きたいよ!」
「意味分かんない」
「こっちの台詞!」
エルネが本へ手を伸ばす。
「とにかく返して!」
「ちょっと待ちなさいよ」
「やだ!」
掴む。
少女が引く。
「返して!」
「だから、もうちょっと見せなさいって!」
「勝手に取ったくせに!」
「ケチ!」
「私の本!」
「始祖の本でしょ!」
「今は私の!」
二人の間で万象解体書が左右に揺れた。
「ちょっと、引っ張らないで!」
「あんたが離しなさいよ!」
「そっちが――」
「お二人とも、何をなさっているんですか!」
通路に声が響いた。
二人同時に動きを止める。
フィーネが立っていた。
珍しく、笑っていない。
「……フィーネさん」
「フィーネ」
少女の方は平然としていた。
「カーマ様」
フィーネは額に手を当てる。
「どうしてエルネ様の万象解体書をお持ちなのですか」
「借りただけよ」
「取られた!」
「細かいわね」
「どこが!?」
「カーマ様」
「はいはい」
カーマは面倒そうに万象解体書を差し出した。
エルネがすぐに受け取り、胸元へ抱える。
「もう触らないでよ」
「別にもういいわよ」
「何それ!」
「だって、何も書いてないんだもの」
カーマはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「期待して損した」
「勝手に期待したのそっちでしょ!」
「その本が大層なものだって聞かされてたら、期待するでしょ普通」
「知らないよ!」
「だから、あんたもインチキっぽいのよ」
「また言った!」
「カーマ様!」
フィーネの声が少し強くなる。
「何よ」
「今日はもうお戻りください」
「分かったわよ」
カーマはエルネをちらりと見る。
「じゃあね、インチキ」
「誰がインチキ!」
「あんたよあんた」
「待ちなさい!」
「エルネ様も!」
追いかけようとしたところで、フィーネに止められた。
カーマは振り返ることもなく通路の奥へ消えていく。
「もう! 何なの、あの子!」
「申し訳ありません」
「フィーネさんが謝らなくていいけど!」
エルネは万象解体書を確かめる。
破れたりはしていない。
それを確認してから、カーマが去った方向を睨んだ。
「……あの失礼な子も幹部なの!?」
「カーマ様は、違います」
「違うの?」
「はい」
「じゃあ、下働きの子?」
「ええと……」
フィーネが困った。
「違います」
「じゃあ何?」
「それは……」
「また言えない?」
フィーネは少しだけ言葉に詰まる。
「今は、それだけしか」
「なんで!?」
「申し訳ありません」
「絶対何か知ってるじゃん!」
「否定はしません」
「そこは否定してよ!」
フィーネは困ったように笑った。
エルネはもう一度、通路の先を見る。
幹部ではない。
下働きでもない。
なのに、万象解体書を知っていた。
「変な子……」
「それも、ご本人には言わないでくださいね」
「言われたら言い返す」
「そうでしょうね……」
◇
それから数日。
聖地アルブレヒトには、次々と見知らぬ顔が増えていった。
各地から、教団の幹部たちが集まり始めたのだ。
そして、その多くがなぜかエルネを見に来た。
「……また見てる」
廊下の向こう。
片眼鏡をかけた細身の男が、エルネをじっと見ていた。
目が合う。
男は軽く会釈しただけで、そのまま去っていく。
「何なの?」
「さあ……」
「フィーネさん、知ってるでしょ」
「お答えできません」
「もう聞き飽きたよ、それ」
別の日には、日に焼けた大柄な男がわざわざエルネの前までやってきた。
「お前がエルネか」
「そうだけど」
「そうか」
頭から足元まで眺められる。
「……小さいな」
「そっちが大きいんだよ!」
「ははは。違いない」
それだけ言って去っていった。
「何しに来たの!?」
返事はなかった。
遠くから一度確認するだけの者。
何も言わず、じっと観察する者。
普通に挨拶だけしていく者。
中には、フィーネへ、
「本当にこの子?」
と尋ねる者までいた。
「……なんか、動物になった気分」
「申し訳ありません」
「だからフィーネさんが謝ることじゃないって」
エルネは頬を膨らませた。
「みんな私を見に来てるじゃん」
「……」
「もうそこは分かったから、誤魔化さなくていいよ」
「そうですか」
「なんで見に来るのかは教えてくれないけど」
「はい」
「そこはやっぱり駄目なんだ」
「はい」
即答だった。
エルネはため息をつく。
「全員来たの?」
「いいえ」
「まだ?」
「到着された方も増えましたが、まだいらしていない方もいます」
「遠いの?」
「それもあるでしょう」
「来ない人もいる?」
「……いるかもしれません」
「全員集まるの、初めてなんでしょ?」
「少なくとも、私は見たことがありません」
エルネは廊下の先を見る。
今日もまた、知らない顔が増えている。
「そんな人たちをヴァレルは全員呼んだんだ」
「はい」
「私を連れてきた日に」
フィーネが一瞬だけ黙る。
「……はい」
エルネも黙った。
さすがに、そこまでくれば分かる。
理由は知らない。
けれど、この騒ぎの中心に自分がいる。
「何させる気なんだろ」
小さく呟いた。
フィーネは答えなかった。
◇
その日の夕方。
セレスティアは学院長室へ呼ばれていた。
「殿下と会う約束は取りつけた」
「本当?」
「ああ。お前から預かった書も渡してある」
「それで?」
「中身を読まれたあと、しばらく考えておられたそうだ」
学院長は机の上で指を組んだ。
「その上で、一週間ほしいと仰った」
「一週間?」
「ああ。何かを調べるつもりなのだろう」
セレスティアは少し考える。
「分かったわ」
「それから、条件がある」
「なに?」
「場所は殿下が指定する。向かうのはお前一人だ」
「ええ」
「くれぐれも尾行には気をつけろ。学院を出るところから見られている可能性も考えて行動しなさい」
「分かってる」
「本当に分かっているのか?」
「先生よりは」
「そういうところだ」
学院長が呆れたように息を吐く。
少し間を置いてから、ふと尋ねた。
「殿下とお会いになるのは、何年ぶりになる」
「三年かしら」
セレスティアは少し考える。
「学院に入る前が最後ね」
「……そうか」
「なに?」
「いや」
学院長は一度口を閉じた。
それから、念を押すように言う。
「分かっているとは思うが――」
「言わなくてもいいわ」
セレスティアは遮った。
「でも、自分で決めたこととはいえ、面倒」
「何がだ」
セレスティアは小さく息を吐いた。
「兄と会うだけなのに」




