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第八話

 翌日の演習場は、いつもより少しだけ空気が硬かった。


 火術式の基礎再試験。


 一年生が火の基礎術式を発動し、小さな火球を的へ当てる。それだけだ。成功して当然。失敗すれば少し笑われる。何度も失敗すれば、かなり笑われる。


 そしてエルネ・フィルは、そのかなり笑われる側の常連だった。


「本当にやるのかよ」


「補助魔法具があっても、火球は火球だろ」


「昨日は運がよかっただけじゃないの」


 演習場の端で、生徒たちが小声で囁いている。


 小声のつもりらしい。


 聞こえている。


 ものすごく聞こえている。


 エルネは黒い本を胸に抱えたまま、できるだけ平気な顔をした。


(先生。帰りたい)


『再試験開始前の撤退は、評価低下につながります』


(そういう正論を求めてない)


『では、心理的支援を実行します』


(できるの?)


『あなたは昨日、石造自律人形を停止させました。火球用の木製標的は、石造自律人形より脅威度が低いです』


(比較対象が物騒!)


 少しだけ肩の力が抜けた。


 ロゴの励ましは、だいたい励まし方がおかしい。


 でも、何も言われないよりはましだった。


 演習場の中央には、木製の的が並んでいる。


 普通の火球術式なら、的の表面を焦がせば合格。中央に当てれば高評価。火力が強すぎて的を燃やし尽くした場合は減点。


 学院らしい、きちんと整えられた試験だった。


 ただし、そこに立つエルネだけが、まったく整っていない。


 昨日まで落ちこぼれだった少女。


 今は、使用者固定型の魔導書型補助魔法具を抱えた、よく分からない生徒。


 視線が痛い。


 昨日よりも痛い。


「静かにしろ」


 グラント教官の低い声が響いた。


 ざわめきが収まる。


 演習場の脇には、医療教師のミリアもいた。念のための立ち会いだろう。


 そしてもう一人、細身の男性教師が腕を組んで立っていた。


 銀縁の眼鏡。細い目。やけに紙束を抱えている。


 術式理論担当のセラム・ノーティス教師だ。


 授業中、黒板に術式をびっしり書きすぎて、生徒の半分を置いていくことで有名な教師である。


「補助魔法具の影響を確認するだけなら、私も記録しておくべきでしょう。特に魔導書型は珍しい。使用者固定型となればさらに珍しい。既製術式に不適合だった生徒が補助具によってどの程度改善するのか、これは教育記録としても非常に――」


「短く」


 グラント教官が言った。


「興味があります」


「それでいい」


 エルネは少し嫌な予感がした。


 研究対象として見られている気がする。


『観測者を確認。警戒度、中』


(中なの?)


『敵意は低いですが、好奇心が過剰です』


(分かる)


 試験は、他の生徒から始まった。


 生徒が杖を構える。


「火よ、形を成せ。赤き球となり、前方の標的を撃て」


 赤い魔法陣が浮かんだ。


 小さな円環。


 中央に火の紋章。


 そこから拳ほどの火球が生まれ、まっすぐ飛んで的に当たる。


 ぼん、と小さな音。


 木の表面が焦げた。


「合格」


 グラント教官が短く言う。


 次の生徒も、同じように火球を出した。


 赤い魔法陣。


 火の紋章。


 拳大の火球。


 標的に当たる。


 焦げる。


 合格。


 それが普通だった。


 昨日までのエルネには、その普通ができなかった。


 当たり前のように火球を出す生徒たちを見ながら、エルネは黒い本を抱く腕に力を込める。


(先生)


『はい』


(私、火球は出せない)


『確認済みです』


(そこは、出せるようになります、って言うところじゃないの?)


『不確実な慰めは推奨しません』


(本当に先生向いてない)


『ただし』


 黒い本のページが、エルネにだけ見えるように淡く光った。


『火球を出す必要はありません』


 エルネは小さく息を吐いた。


 またそれだ。


 けれど、その言葉は不思議と嫌ではなかった。


 火球を出す必要はない。


 目的は、火球を作ることではない。


 標的に、火術式による有効打を与えること。


 なら、自分の魔力でできる方法を選べばいい。


「次、エルネ・フィル」


 名前を呼ばれた。


 演習場の空気が、一段重くなる。


 エルネは前へ出た。


 肩より少し長い黒髪が揺れ、灰紫の瞳が一瞬だけ周囲の視線を拾う。


 笑われれば頬は熱くなるし、逃げたくもなる。


 けれど今日は、俯かなかった。


 視線が集まる。


 その中で、レオル・バルガンが腕を組んで笑っていた。


「昨日はずいぶん派手だったみたいだけど」


 レオルが、聞こえる程度の声で言う。


「今日は普通の試験だよ。火球も出せないなら、補助具を抱えても意味ないんじゃない?」


 取り巻きが小さく笑う。


 エルネは足を止めなかった。


 言い返したかった。


 ものすごく言い返したかった。


 けれど、今は言葉で返す場面ではない。


『反論案を提示可能です』


(いらない)


『社会的評価低下を狙う短文もあります』


(もっといらない)


『了解』


 エルネは的の前に立った。


 木製の丸い的。


 中央には赤い印。


 いつもなら、この時点で手が震える。


 今日も震えていた。


 でも、昨日とは少し違う。


 怖い。


 怖いけれど、試したい。


「エルネ・フィル」


 グラント教官が言った。


「検査用火術式、開始」


「はい」


 エルネは黒い本を片腕に抱え、もう片方の手を前へ出した。


 足元の術式板を見る。


 既製火球術式。


 火を作る線。


 球にまとめる線。


 前へ飛ばす線。


 的に当てる線。


 やはり、ずれている。


 何度見ても、気持ちが悪い。


 でも、今日はその線へ無理に魔力を流さない。


『目的を確認します』


(標的に有効打を与える)


『手段を確認します』


(火球を作らない)


『術式構築を開始します』


 黒い本のページから、細い青白い線が伸びた。


 それはエルネの指先へ絡み、空中へ広がっていく。


 最初は小さな点だった。


 次に、細い円。


 その外側に、さらに小さな補助陣。


 線が分岐する。


 輪が重なる。


 細い魔力が、血管を巡る血のように走っていく。


 赤い火の紋章ではない。


 完成した火球術式でもない。


 目の前に現れたのは、巨大な絡繰りのような魔法陣だった。


 演習場がざわつく。


「何だ、あれ」


「火の紋章じゃない」


「魔法陣が、まだ組み上がってる……?」


 セラム教師が一歩前に出た。


「多層構築……いや、補助陣が多すぎる。火球術式ではない。だが火属性反応はある。何だこれは。現象の発生条件を分解しているのか?」


「セラム」


 グラント教官が低く言う。


「黙って見ろ」


「無理です」


「努力しろ」


 エルネには、そのやり取りに突っ込む余裕はなかった。


 指先が熱い。


 けれど、火が出ているわけではない。


 魔力が細い線になって、標的へ伸びる。


 的の表面ではない。


 中央。


 木の繊維の隙間。


 乾いた場所と、わずかに水分を含んだ場所。


 空気が入り込める小さな割れ目。


『燃焼点を設定』


(ここ?)


『半指右です』


(細かい!)


『あなたなら可能です』


 その言葉に、エルネは一瞬だけ息を呑んだ。


 あなたなら可能。


 ロゴにしては、珍しく分かりやすい言葉だった。


 エルネは魔力をさらに細くした。


 火球を作らない。


 飛ばさない。


 ぶつけない。


 的の中に、火が生まれる条件だけを置く。


『燃焼補助、調整』


(何を調整してるの?)


『燃えやすくする条件です』


(説明が雑!)


『今は発動を優先します』


(あとでちゃんと教えて)


『記録しました』


 魔法陣の線が、最後にかちりと噛み合った。


 次の瞬間。


 何も飛ばなかった。


 火球は出ない。


 赤い炎もない。


 演習場に、一瞬の沈黙が落ちる。


 レオルが笑いかけた。


「ほら、やっぱり――」


 その声が、途中で止まった。


 的の中心に、青白い火点が灯っていた。


 針の先ほどの、小さな火。


 あまりにも小さく、あまりにも静かだった。


 だが、次の瞬間。


 的の内側で、何かが鳴った。


 ぴしり、と。


 木の表面に、細い亀裂が走る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 亀裂は中心から放射状に広がり、赤い的印を裂き、木目を逆向きになぞるように走っていく。


「……え?」


 誰かが呟いた。


 その直後。


 青白い火が、的の内側から噴き上がった。


 燃え広がったのではない。


 外から焼いたのでもない。


 的の中心に埋め込まれた小さな太陽が、内側から目を覚ましたようだった。


 ぼん、ではない。


 どん、と。


 低い衝撃音が演習場を揺らした。


 木製の的が、内側から爆ぜる。


 中央が抜け、割れた板片が花びらのように外へ開き、その縁を青白い炎が一瞬だけ舐めた。


 遅れて、熱を含んだ風が生徒たちの前髪を揺らす。


 的の支柱が、ぎしりと鳴った。


 赤い火球を受けても焦げるだけだった木製標的は、今、中心を失い、半分ほど砕けた状態でかろうじて立っていた。


 床に落ちた破片の断面だけが、淡く青く光っている。


 演習場が静まり返った。


 誰も笑わない。


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 エルネ自身も、指先を向けたまま固まっていた。


蒼炎針(アズール・ニードル)、初回試験発動。想定より出力が上振れしました』


(待って。蒼炎針って何?)


『今の術式の識別名です』


(勝手に技名つけてたの!?)


『青白い炎を針状に発生させるため、妥当な名称です』


(妥当だけど、急に必殺技みたいに言わないで!)


『では、局所燃焼式に変更します』


(蒼炎針でいいです!)


『名称を確定しました』


(今、誘導したわよね!?)


『否定します』


(それより、今の、やりすぎたわよね!?)


『表現を修正します。やや派手でした』


(かなり派手だったわよ!)


 エルネは慌てて指を下ろした。


 だが、もう遅い。


 演習場中の視線が、エルネと、半壊した的へ向いていた。


 レオルの顔から、笑みが消えている。


 取り巻きたちも口を開けたまま固まっていた。


「火球……じゃない」


 誰かが、かすれた声で言った。


「飛んでない」


「的の中で、火が……」


「割れたっていうか、爆ぜたぞ」


 セラム教師が、抱えていた紙束を一枚落とした。


 本人は気づいていない。


「対象内部で燃焼点を成立……いや、熱膨張か? しかし青白い火。通常火術式の色ではない。何か、燃え方そのものをいじっている? いや、待て。今の私は一年生の再試験を見ているんだよな?」


「落ち着け、セラム」


 グラント教官が言った。


「落ち着けません」


「だろうな」


 グラント教官は、半壊した的をじっと見ていた。


 その顔に、驚きはある。


 だが、恐怖だけではない。


 見極めようとしている顔だった。


「火球ではない」


 グラント教官が言った。


 演習場の全員が、その声を聞いた。


「だが、火の魔術だ」


 エルネは息を呑む。


「火属性反応あり。標的への有効打あり。発動者はエルネ・フィル。補助魔法具の支援下とはいえ、術式を維持したのは本人の魔力だ」


 レオルが、ようやく声を出した。


「待ってください、教官! 今のは危険です! 試験用の火球じゃない!」


「試験内容は、火術式による標的への有効打だ」


「でも、的が壊れています!」


「火球でも出力を誤れば壊れる」


「規定外です!」


「規定外であることと、失敗であることは同じではない」


 レオルが言葉に詰まる。


 グラント教官は、半壊した的から視線を戻した。


「ただし」


 エルネの肩が跳ねた。


「出力制御には課題がある」


「はい……」


「合格だ。だが、次からは的を半分残せ」


「そんな指定あります!?」


「今できた」


『新規評価基準を確認』


(記録しなくていい!)


 演習場の端で、誰かが小さく吹き出した。


 それをきっかけに、固まっていた空気が少しだけ動く。


 笑いではない。


 馬鹿にする声でもない。


 驚きと、戸惑いと、ほんの少しの熱が混じったざわめきだった。


 エルネは半壊した的を見た。


 胸の奥が熱い。


 皆の前で、魔法を使えた。


 合格した。


 もう、ただの不発娘ではない。


 その喜びが、確かにあった。


 けれど同時に、指先が少し冷たくなる。


 今の火は、的の内側から爆ぜた。


 もし、人に向けたら。


 もし、怒ったまま使ったら。


 もし、誰かを黙らせたいと思った瞬間に、この術式を選んだら。


(先生)


『はい』


(今の魔法、人には使わない)


『同意します。対人使用は危険度が高いです』


(もっと安全な形にできる?)


『可能です。非致死用途への再設計を優先条件に追加します』


(お願い)


『記録しました』


 黒い本のページに、エルネには見えない文字が浮かぶ。


『既製術式外構築、成功』


『蒼炎針、初回実用試験、成立』


『出力制御、要調整』


 そして、最後にもう一行。


『万象解体書との接続安定度、上昇』


 その文字だけは、すぐに消えた。


 ロゴは、それをエルネに見せなかった。


 演習場では、まだざわめきが続いている。


 落ちこぼれは、火球を出さなかった。


 それでも、的は爆ぜた。


 そしてその日から、エルネ・フィルを見る学院の目は、少しだけ変わり始めた。

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