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第七話

 演習用ダンジョンの出口に戻った時、エルネはようやく息を吐いた。


 青い誘導灯の光が薄れ、代わりに学院の石廊下へ続く白い光が見えた。


 戻ってきた。


 地上だ。


 普通なら、それだけで安心する場面のはずだった。


 だが、エルネの腕の中には黒い本がある。


 頬には傷がある。


 背後ではレオルたちが気まずそうに黙っている。


 そして前を歩くグラント教官の背中からは、いつもの三倍くらい重い空気が出ていた。


 安心とは何か。


 今日は本当に、いろいろな言葉の意味を考え直す日である。


「まず医療室へ行く」


 グラント教官が言った。


「事情聴取はその後だ」


「はい」


「その本は離すな」


「はい」


「開くな」


「はい」


「話しかけるな」


「……はい」


『不当な制限です』


(今は黙って)


『了解。沈黙行動に移行します』


(それ、絶対に黙らない人の言い方よ)


 エルネは黒い本を抱え直した。


 重い。


 ずっと抱えているせいで、腕がじんじんしている。


 だが、手放す気にはなれなかった。


 もし他の誰かが触ったら。

 もしまた、あの最終頁のようなものが開いたら。


 想像するだけで、背筋が冷える。


 世界終末手順。


 あんな言葉を、二度と聞きたくない。


     ◇


 医療室の扉を開けると、白衣姿の女性教師が顔を上げた。


「グラント先生。演習中止と聞きましたが」


「負傷者一名だ。頬の裂傷。ほかは確認中」


「エルネさん?」


 医療教師は驚いた顔をした。


 エルネは少しだけ居心地が悪くなる。


 普段なら医療室に来るのは、魔法を暴発させた生徒や、魔物役の訓練獣に噛まれた生徒だ。


 火球すら出せないエルネは、実技で失敗しても怪我までは少なかった。


 つまり医療室に来るほど派手なこともできなかった、ということでもある。


「少し切っただけです」


「少しでも、顔の傷はきちんと診ます。そこに座って」


「はい」


 エルネは椅子に座った。


 黒い本を膝の上に置こうとして、すぐに抱え直す。


 医療教師がその本を見る。


「その本は?」


「補助魔法具だ。現時点では暫定扱いだが、触るな」


 グラント教官が先に言った。


 助かった。


 自分で説明していたら、また変なことを言っていた自信がある。


「補助魔法具?」


「魔導書型らしい」


「まあ、珍しい」


 医療教師は目を丸くした。


 だが、禁書とは言わなかった。


 エルネは少しだけ肩の力を抜く。


 補助魔法具。


 そういうことになった。


 今だけは。


「では、魔力反応に干渉しないよう、こちらからは触れません。エルネさん、少し横を向いて」


「はい」


 医療教師の指先に、淡い緑色の光が灯る。


 治癒術式だ。


 ごく簡単なものなら、エルネも授業で見たことがある。


 傷口を清め、血を止め、痛みを抑える。


 だが、見ているだけならまだしも、今は自分の頬に向けられている。

 少し怖い。


『治癒魔術を確認。損傷部位に対する局所修復。興味深いです』


(今、私の傷より魔法に興味あるでしょ)


『否定します。あなたの傷も興味深いです』


(そこは心配して)


『心配に近似する処理は発生しています』


(近似じゃなくて心配して)


 緑色の光が頬を撫でる。


 じん、と温かくなり、痛みが薄れていった。


 すごい。


 これが普通の治癒魔法。


 エルネには使えない、既製術式のひとつ。


 けれど、ロゴはその光をじっと観察しているようだった。


『術式構造を一部記録しました』


(勝手に記録して大丈夫なの?)


『観測です』


(便利な言い方ね)


 医療教師は処置を終えると、小さく頷いた。


「傷は浅いです。痕も残らないでしょう。ただ、魔力をかなり使ったようですね。少し顔色が悪いです」


「走ったからだと思います」


「走っただけでこの魔力消費にはなりません」


 ばれた。


 エルネは目を逸らした。


 グラント教官の視線も痛い。


「エルネ。あの石造自律人形を止めた時、どれだけ魔力を使った」


「……分かりません」


「分からない?」


「今まで、まともに魔法を使えたことがなかったので」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


 けれど事実だ。


 火球は出ない。

 水弾も出ない。

 風刃も出ない。


 術式はほどける。

 光は消える。

 笑われる。


 それが今までの自分だった。


「でも、今日は使えました」


 エルネは黒い本を抱えたまま言った。


「たぶん、この本があったから」


 グラント教官は黙っていた。


 否定はしない。


 ただ、何かを考えている顔だった。


「医療処置は終わりました」


 医療教師が言った。


「ただし、今日は激しい魔力行使は避けた方がいいでしょう」


「はい」


『推奨に同意します』


(先生も同意するの?)


『魔力消費の回復が不十分です』


(じゃあ今日はもう試験とかないわよね)


 エルネは少し安心しかけた。


 その直後、グラント教官が言った。


「次に、簡易検査を行う」


「今ですか!?」


「今だ」


 安心は一秒で終わった。


     ◇


 簡易検査は、医療室の隣にある小さな実技室で行われた。


 生徒の魔力暴走や、補助魔法具の調整に使う部屋らしい。


 広くはない。

 床には白い検査用の術式円。

 壁には魔力遮断の符が貼られている。


 グラント教官、医療教師、そしてエルネ。


 レオルたちは別室で待機させられた。


 少し安心した。


 あの顔を見ながら検査を受けるのは、正直きつい。


「まず確認する」


 グラント教官が言った。


「その本は、お前の魔力を補助する。そう説明したな」


「はい」


「では、火の基礎術式を起動してみろ」


 エルネは固まった。


「火球、ですか」


「いや。ここで火球を飛ばされても困る。検査用の小火だ。火種を灯すだけでいい」


 グラント教官は小さな金属皿を示した。


 皿の上には、細い紙片が置かれている。


 そこに小さく火を灯す。

 それだけの検査だ。


 火球よりずっと簡単。


 普通の生徒なら。


「……私、それも失敗します」


「知っている」


「知ってるんですか」


「何度も見ている」


「言い方」


 少し傷ついた。


 だが、グラント教官は真剣だった。


「だからこそ確認する。普段のお前なら失敗する。それが、その本を持つことで変わるのか」


 エルネは黒い本を見下ろした。


(先生)


『はい』


(できる?)


『既製術式をそのまま使う場合、成功率は低いです』


(でしょうね)


『ただし、目的は火球の発生ではありません。紙片への小規模点火です』


(また目的の話?)


『はい。目的に応じて術式を変換提案します』


 黒い本のページに、細い線が浮かんだ。


 それは、学院で習う火の紋章とは違っていた。


 小さい。


 だが細かい。


『既製火術式は、火を作り、形を保ち、対象へ移動させます。今回は移動が不要です。紙片の一点へ熱を集中します』


(火を出すんじゃなくて?)


『火を発生させる条件を整えます』


(それ、火の魔法なの?)


『かなり火です』


(かなり火って何)


「エルネ。始めろ」


「はい」


 エルネは深呼吸した。


 足元の検査術式に魔力を流さない。


 いつものように、既製の流れへ無理に合わせない。


 黒い本に浮かんだ補助線を見る。


 紙片の端。

 繊維の隙間。

 空気の流れ。

 熱を集める一点。


 そこへ、細い魔力を通す。


 火球を作る必要はない。


 ただ、紙に火がつけばいい。


 エルネの指先から、ごく細い光が伸びた。


 赤くない。


 白に近い、淡い青。


 それが紙片の端に触れた瞬間、ちり、と音がした。


 小さな青い火が灯る。


 そしてすぐに、赤い炎へ変わった。


 紙片が静かに燃えていく。


 実技室が沈黙した。


 エルネも黙っていた。


 できた。


 火球ではない。


 派手でもない。


 けれど、火の魔法だ。


 今、自分は火をつけた。


「……できました」


 エルネが呟く。


 グラント教官は金属皿を見ていた。


 医療教師も同じだった。


「火球術式ではないな」


 グラント教官が言った。


「はい」


「だが、火の魔術ではある」


「……はい」


「補助魔法具の影響は、確かにあるようだ」


 エルネは黒い本を抱く腕に力を込めた。


 認められた。


 ほんの少しだけ。


 ほんの小さな火種ひとつ分だけ。


 それでも、認められた。


『検査結果。補助魔法具としての偽装成功率が上昇』


(そこじゃないでしょ)


『使用者の精神状態、改善を確認』


(……そこは合ってる)


 グラント教官は腕を組んだ。


「明日、火術式の再試験を行う」


「え」


「今日の演習は中止だ。だが、このまま放置はできん。お前が本当に補助魔法具によって術式を安定させられるのか、正式に確認する必要がある」


「明日」


「不満か」


「いえ」


 不満ではない。


 怖い。


 でも、それ以上に。


 少しだけ、試してみたい。


 そんな気持ちがあった。


『再試験への対応案を構築します』


(先生、今度は小さい火じゃなくて、的に当てる火術式よ)


『確認済みです』


(私、火球は無理よ)


『火球を出す必要はありません』


 まただ。


 エルネは思わず、少しだけ笑いそうになった。


(じゃあ、何をするの?)


『目的に応じた術式を構築します』


 黒い本のページに、細い青い線が走る。


『標的に有効打を与える火術式です』


 その言葉に、エルネの胸が小さく鳴った。


 不安と期待が、同じ場所で混ざっている。


 ただの落ちこぼれだった朝は、もう戻ってこない。


 そして明日。


 エルネは初めて、皆の前で魔法を使う。

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