第六話
グラント教官と黒い本が、同時に返事をした。
「何だ」
『はい』
エルネは、数秒だけ固まった。
そして、ゆっくりと黒い本を見下ろす。
「……今の、聞こえました?」
「何がだ」
グラント教官が眉を寄せる。
聞こえていない。
どうやら、黒い本の声はエルネにしか聞こえていないらしい。
エルネは黒い本を抱え直し、小さく囁いた。
「最初からそうしてよ」
『外部音声出力を抑制しています』
「それ、最初に言って」
『必要性を確認中でした』
「言い訳まで上手くなってる……」
「エルネ」
グラント教官の声が低くなる。
「その本と話しているのか」
「いえ、独り言です!」
『独り言としては不自然です』
「今は黙って!」
「何を黙らせる気だ」
「気持ちをです!」
非常にまずい。
このままでは、補助魔法具以前に、危ない生徒として扱われる。
その時、ロゴの声が、今度は耳ではなく頭の奥へ直接響いた。
『提案。音声応答は秘匿性に欠けます。以後、あなたの魔力流路を介した内的応答へ切り替えます』
(頭の中で話せるってこと?)
『近似しています。ただし、思考全体を読んでいるわけではありません。応答意思のある内容のみ受信します』
(最初からそれをやってよ!)
『接続安定性を確認中でした』
(やっぱり言い訳じゃない)
『否定します』
エルネは黒い本を抱えたまま、目の前の状況を見た。
停止した石造自律人形。
砕けた床。
乱れた水場。
割れた魔石片。
頬に残る痛み。
そして、どう見ても普通ではない黒い本。
言い逃れできる要素が、ほとんどない。
グラント教官は、黒い本へ視線を向けた。
「その本は何だ」
来た。
エルネは息を呑む。
『回答方針を構築します。一、この書は魔導書型の補助魔法具。二、あなたの魔力制御を補助する。三、石造自律人形の停止は、この補助具により術式読解が安定した結果。四、第三者接触時の安全性は不明。以上です』
早い。
しかも、微妙に嘘ではない。
エルネは喉を鳴らした。
「これは……魔導書型の補助魔法具です」
「補助魔法具?」
補助魔法具。
魔法使いの魔力の流れを整えたり、術式の発動を助けたりする道具の総称だ。
もっとも一般的なのは杖。
ほかにも指輪、手袋、腕輪などがある。
魔導書型も存在はする。
術式の補助線を浮かべたり、魔力の流路を整えたりするものだ。
ただし、かなり珍しい。
少なくとも、一年生が演習用ダンジョンで拾っていいものではない。
「どこで手に入れた」
「隠し部屋にありました」
「隠し部屋」
「はい。演習区域の端に、古い封印みたいなものがあって。触ったら開いて、その中に」
「封印を開けたのか」
「開けたというか、勝手にほどけたというか」
しまった。
ほどけた。
その言葉に、背後のレオルが反応した。
「ほら、教官。やっぱりフィルさんが勝手に危険区域へ入ったんです」
レオル・バルガン。
伯爵家の三男。
成績は上位。
性格は下位。
エルネを旧区画へ向かわせた張本人は、今、いかにも正しいことを言っている顔をしていた。
「僕たちは止めました。けれど、彼女が勝手に」
「違う!」
エルネは思わず声を上げた。
「あなたが行けって言ったんでしょ!」
「証拠は?」
レオルが小さく笑った。
その顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
まただ。
また、自分だけが悪いことにされる。
『対象レオル・バルガンの発言矛盾を検出。対処案を提示可能です』
ロゴの声が響く。
同時に、黒い本のページに細い文字が走った。
誘導尋問。
証言分断。
家門信用への圧力。
過去の行動記録との照合。
その下に、もっと嫌な言葉が並ぶ。
社会的孤立化。
評判破壊。
逃げ道封鎖。
『効果的です』
(やりすぎ)
『あなたへの加害行為を確認しています』
(だからって、そこまではしない)
『了解。過剰対処案を保留します』
(保留じゃなくて却下)
『却下を記録しました』
グラント教官が、レオルへ視線を向ける。
「レオル・バルガン」
「はい」
「お前の話は地上で聞く」
「ですが、教官」
「今は黙れ」
低い声だった。
レオルは口を閉じる。
その時、取り巻きの一人が小さく言った。
「教官。それ、禁書ではありませんか」
広間の空気が、わずかに冷えた。
禁書。
その言葉に、エルネの腕が震える。
ロゴは、最初に言った。
あなたは禁書を起動しました、と。
グラント教官は黒い本から目を逸らさない。
「可能性はある」
エルネの心臓が跳ねた。
「なら、すぐ取り上げるべきでは」
「学院の禁書は保管庫の封印下にある。学生が演習用ダンジョンで拾える場所には置かれていない。持ち出すこともできん」
グラント教官はゆっくりと言った。
「それに、俺が知る限り、こんな禁書は聞いたことがない」
聞いたことがない。
その言葉に、エルネは少しだけ息を吐いた。
だが安心はできない。
聞いたことがない危険物、という可能性もある。
「黒い表紙の魔導書。使用者にだけ反応する魔力流路。石造自律人形の停止補助。禁書と断定するには情報が足りん」
『現時点での危険度評価。教官は慎重ですが、即時没収の意志は低下しています』
(冷静ね)
『必要です』
グラント教官が手を差し出した。
「見せろ」
エルネは動けなかった。
黒い本を渡す。
それだけのことが、どうしてもできない。
『警告。第三者接触による追加起動の危険性を否定できません』
(ですよね)
「教官。この本、私が触ったら開きました」
「それで」
「もし他の人が触って、また何か起きたら危ないかもしれません」
「なら、なおさら管理すべきだ」
「それは、そうなんですけど」
正論だ。
言い返せない。
グラント教官は、しばらくエルネを見ていた。
それから、黒い本の表紙へ視線を落とす。
「試す」
「え?」
「俺が直接持つのではない。表紙に触れるだけだ。異常があればすぐ離す」
『接触制限を推奨します。ただし、完全拒否は疑念を増加させます』
(つまり、少しだけなら?)
『許容範囲です。隠蔽行動に移行します』
(隠蔽って言っちゃった)
エルネは恐る恐る本を差し出した。
「少しだけです」
「分かっている」
グラント教官の指が、黒い表紙に触れた。
何も起きない。
ページは開かない。
文字も浮かばない。
声もしない。
ただの黒い本のように、静まり返っている。
(演技上手いわね)
『隠蔽行動中です』
(やっぱり演技だった)
グラント教官が指を離す。
「反応しないな」
「私が触ると、少しだけ動きます」
「やってみろ」
エルネは表紙に指を置いた。
すると、黒い紙面に細い魔力線が浮かんだ。
文字ではない。
ただの補助線のように見える。
けれどエルネには、その線が何を意味するのか分かる。
魔力の流れ。
術式の継ぎ目。
ほどけかけた線。
グラント教官の目が細くなった。
「使用者固定型か」
『肯定してください』
「たぶん、そうです」
「たぶんで危険物を持つな」
「すみません」
教官は深く息を吐いた。
「魔導書型の補助魔法具は珍しい。だが、存在しないわけではない」
エルネは思わず顔を上げた。
「では」
「まだ認めたわけではない」
「ですよね」
「ただし、現場で無理に取り上げて追加起動されても困る。お前がその本を持っていたから石造自律人形を止められたのも事実だ」
グラント教官は厳しい顔で続ける。
「地上へ戻るまで、暫定的にお前の補助魔法具として扱う」
「いいんですか?」
「よくはない。暫定だ」
そこは大事らしい。
「条件がある。他の生徒に触らせるな。授業外で勝手に開くな。異常があれば必ず報告しろ。地上へ戻ったら、俺の立ち会いで補助魔法具として検査する。禁書かどうかの判断は、その後だ」
「はい!」
『暫定的所持許可を確認。成功です』
(やった)
『ただし、禁書疑惑は継続しています』
(分かってる)
喜ぶのは早い。
だが、少なくとも今この場で取り上げられることは避けられた。
グラント教官は石造自律人形を見た。
「これは学院に報告する。演習は中止だ。現場は封鎖する」
それから、レオルたちへ向き直る。
「レオル・バルガン。お前たちは地上で事情を聞く」
「教官、僕たちは本当に止めようと」
「なぜ班員が一人いなくなった時点で、すぐ報告しなかった」
「それは」
「なぜ旧区画付近にいた」
「フィルさんが勝手に」
「言い訳は地上で聞くと言った」
レオルは黙った。
悔しそうな顔だった。
エルネは、ほんの少しだけ胸がすっとした。
完全に信じてもらえたわけではない。
レオルたちが罰を受けると決まったわけでもない。
それでも、自分の言葉は、今回は完全には踏み潰されなかった。
「全員、地上へ戻る」
グラント教官が言った。
「エルネ。その本は抱えていろ。俺の目の届く場所から離れるな」
「はい」
エルネは黒い本を抱え直した。
重い。
けれど、手放したいとは思わなかった。
通路へ向かう途中、レオルと目が合う。
彼は悔しそうに、そしてどこか怯えたように、エルネを見ていた。
いつもなら、エルネが目を逸らした。
でも今日は逸らさなかった。
頬は痛い。
足はまだ震えている。
抱えている本は、どう考えても危険物だ。
それでも、エルネは顔を上げたまま歩いた。
『精神状態の変化を確認』
(変化なんてしてない)
ただ、少しだけ。
少しだけ、負けたくないと思っただけだ。
その思考が届いたわけではないはずなのに、ロゴは静かに言った。
『その判断を支持します』
エルネは黒い本を抱え直した。
演習用ダンジョンの青い光が、出口へ向かって続いている。
ただの落ちこぼれだった朝は、もう戻ってこない。
そのことだけは、はっきり分かった。




